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出着点 ~しゅっちゃくてん~  作者: 東雲綾乃
第2期 第5章 遠くにある夢
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あの日のこと (凌久視点 前編)

 俺は廣瀨凌久。大阪で医者の駆け出しをしている。自分で言うのもなんだがまぁあの兄ちゃんの従兄弟だから外見は悪くはないし、学歴も仕事も悪くはない。昔から悪いのは愛想と口調だけだ。


「家に帰れ」


 そう言われた俺は一人皆が乗る車から弾かれて改札へと向かった。

 改札にICカードをタッチしようとした俺の足は何故か前に進むことなく止まってしまった。


(怖いんだな……俺)


 思わず乾いた笑いが漏れた。


(もう十年だぞ。そろそろ前に進めよ)


 自分を叱咤すると、俺は改札をくぐる。いつも通りの周囲からの視線と囁きをことごとく無視しながらホームへと向かうとタイミング良く電車がやってきた。

 電車に乗り、座席に深く腰かける。うたた寝をしながら俺は物思いに沈んだ。









 あれは、柚希が亡くなったと知ったときだ。

 俺が翌日の早朝、新幹線に乗り新潟へ駆けつけているときに義母から電話がかかってきた。


「……なに?」

『ねぇ、凌久!!』

「はい? 凌久ですけど」

『あんた、大丈夫なんかい』

「なにが」


 冷たくあたる俺にも明璃は動じなかった。


『なにがって、柚希ちゃん亡くなったんやろ? あんたは大丈夫なんかい』

「大丈夫……んなわけあるか」

『無理しすぎたらあかんで』

「わかった」

『あんたは人に助け求めへんから心配なんよ』

「はいはい」


 俺はそのまま電話を切り、席に戻る。

 正直翌日になっても実感として沸かなかった。テレビでも新聞でも大々的に取り上げられ、世界中から追悼メッセージが寄せられているのは分かっている。

 それでもパラリンピックの後のように、今にも「ただいま、凌久」と笑いながら帰ってくるように感じていた。


「大丈夫なわけないだろ」


 口から言葉が溢れたことに気付きもせず俺は思考が回らない頭でぼんやりとしたまま、ただ新幹線に揺られていた。





「凌久!」


 羽澄神社に到着すると、微かに開いた扉から紫苑が駆け出してきた。その顔色は悪く、そしてやつれていた。


「……紫苑」

「何話せばいいか分かんないから……とりあえず中に」


 早朝の朝靄がかかっている境内には柚希のファンと見られる人々が集まっていた。目に涙をためている人、祈り続けている人、様々な人がいるが、柚希の実家だと公にされた羽澄神社に人が集まるのは当然のことだと思う。


「どうぞ」


 一人の年配の女性がお茶を持ってきた。おそらくこの家に仕えて長いのだろう。さすがに跡取りの前で表情を出すような人ではなかったようで、普段と変わらないであろう温かい微笑みとともに湯気の上がるお茶が差し出される。


「どうもありがとうございます」

「失礼します」


 その人はすぐに出ていった。


「たゑがあんなに憔悴しているとこを初めてみたよ」

「……そう言うお前はどうなんだよ」

「まだ信じられない。信じられる? 僕たちの柚希がもう帰って来ないなんて。何よりまだ会ってないから信じたくないんだよね」

「……」

「それに、僕が不安げにすると神社の空気が淀むからさ」

「……そう、か」


 凌久よりも余程辛いはずの紫苑は気高かった。

 紫苑が微笑む。青白いその顔とその笑みはこんなときではあるが絵の様に、いや絵よりも美しかった。


「なぁ、凌久。スキークラブに行かない?」

「オーストラリアじゃないのか?」

「柚希の……柚希の死を受けてこっちも、開けてるんだって」

「行ってみるか」


 少し声が震えた。行けば柚希の死を受け入れなければならない気がした。それでも行こうと決断できたのは紫苑がいたからだろう。





「羽澄様ですか?」


 受付で小さく声をかけられた。


「はい。そうですが?」

「私は山北圭(やまきたけい)と申します。新潟寮をお預かりしております」

「クラブの方ですか」

「はい。この度はなんと申し上げれば良いのか……御愁傷様です」

「ありがとうございます」


 紫苑は微笑みを絶やさなかった。


「こちらへどうぞ」


 案内された俺たちの前には大勢の人がいた。そして、列の先頭には大きな柚希の写真が飾られていた。それは遺影にしては飾り立てられ過ぎているような気がした。


「これは……?」


 思わず俺は質問する。山北は言った。


「柚希はこういう方が好きかな……と思いまして。葬儀ではないのです。ここは柚希に感謝を伝える場所ですから。柚希が好きだったお花で飾りました」

「これを一夜で作ってくださったんですか……。ありがとうございます」

「私たちも信じられませんでした。それでも、今の私たちにできることを考えたときに思い付いたのがこの感謝を伝える場所を設置することだったのです。パーティーのようなこの空間がご不快でしたら申し訳ありません」

「いえ……きっと柚希も喜んでおります。ありがとうございます」

「そうだと良いですが……」


 壁には大きなボードが設置されていた。


『羽澄柚希選手感動をありがとう。今までありがとう。心からの愛と感謝を』


 中央にそう大きく書かれたボードは多くのファンによるメッセージで埋め尽くされていた。


「設置から二時間でご覧の通りです」

「柚希がどれだけ愛していただいていたのか実感しました」


 紫苑がボードに近づく。


『辛かったとき羽澄選手がいたから私も生きなくちゃと思えました。なんでこんなに、早く去ってしまうのですか。なんで、ありがとうを言う機会がなくなってしまったのですか。これからは羽澄選手が思うがままに自由にスキーをしてください。ずっと応援しています』

『あなたは世界一のスキーヤーです。俺たちはそれを忘れない』

『ありったけのありがとうを送ります』

『私のことを柚希選手はご存じないと思います。だけど私は柚希選手がデビューしてからずっと知っています。今まで夢を現実として見せ続けてくれてありがとう』


 数えきれない文章が並ぶ。後から後から加えられる。

 紫苑は両目に涙をためながらそれらを一つ一つ嬉しそうに、寂しそうに見ていた。


 俺は正面の柚希の写真と向かい合う。


『凌久、今までありがとう』


 何処からか柚希の声が聞こえた気がした。凌久はその声に耳を傾ける。


『凌久がいたからわたし、前に進めた。あの時言ってくれたよね? 「俺がこれからはお前の右足になる。一緒に行こう、行ったことないところに。会ったことない人に会いに。それがどんなに遠くても、一緒に行こう」って。凌久が世界にわたしを連れていってくれた。ありがとう』

「……柚希」


『ねぇ、凌久。一つだけ謝ることがある。ごめんなさい。凌久のお願いを叶えられなかった。フルートをもう一度凌久の前で吹きたかった。それだけ心残り』

「……」

『丞くんのことも紫苑のこともよろしくね。ずっとみんなのこと見てるから』





 気がついたとき、俺は柚希の写真と向かい合ったままだった。空耳だったのだろうか。そうとは思えなかった。俺の口からこぼれた言葉は俺の耳だけに届いた。


「柚希。今までありがとうな」









 俺は知らなかったが丞兄ちゃんは前日のうちに到着していたようだ。一晩たってもひどく荒れていた。

 暫く一人にしてあげた方がいいと栞奈ちゃんに言われて俺は柚希が好きだと話していた境内に一人で佇む。どこまでも澄んだこの空間は恐ろしいほどに静かで申請だった。


 不意に、携帯がなった。


「何?」

『凌久、大丈夫?』

「あのさ、俺言ったよな。大丈夫だって。しつこいんだよ」

『あんたの母なんだから心配するのは当たり前でしょう』

「あんたは俺の母じゃない。お節介好きなのは構わないけどそれだけは間違えんな」


 いつも以上に辛辣な言葉遣いになっていた。普段なら明るく言い返してくる明璃が口をつぐむ。


「というわけだからじゃな」


 俺は居たたまれなくなり電話を切った。





 俺は大学があったので帰宅した柚希とは会えなかった。紫苑から人形のように美しい死に顔だったとだけ聞いた。柚希に最後に会いたかったとも思うし、会わなくてよかったとも思う。

 家に帰る気にはなれずに俺は真っ直ぐ京都の学生アパートに帰った。









 それから十年間、俺は自宅に一度も帰宅していない。

あの日。世界が悲しんだ日。

凌久は新潟の地にいました。

凌久にとって柚希の死は前に進むきっかけにも、愛を遮る壁にもなっていたのですね……

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