ジョニー・カイル
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ジョニー・カイルは九つのとき、自分は特別だと思っていた。
鏡に映る顔貌はどこからどう見ても美しいし、頭の回転もそのへんの同い年とは比べられないくらい速かった。運動も他の子どもよりずっとできた。走ることが好きだった。サッカーが得意だった。バスケットボールもできた。なにもかも上手だった。
ジョニー・カイルは、野球のプロ選手になる日を夢見ていた。
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ジョニー・カイルは十二を迎えたころ、村一番の天才児と騒がれた。
誰よりも勉強ができた。スポーツの授業ではどんな種目でも負けなかった。将来を嘱望する声は多く大きかった。だが家は貧乏な農家だった。高校すら途中で辞めてもらうかもしれないと父から釘を刺された。自分は一般人以上になれないのだと知った。そうに違いないと思い知った。いよいよ未来への展望が暗く閉ざされてしまったように思えた。決めるなら早いほうがいいと考え決めた。
ジョニー・カイルは、夢を諦めた。
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ジョニー・カイルは中学二年生になると、酒と煙草を覚えた。
学校がつまらなく感じられて、暇さえあれば賭けポーカーに興じた。博打の才能があった。だから酒も煙草も買えた。酔うと気持ちがよかった。先輩から「アル中はそこに万能感を見るんだ」と聞かされたことがあって、その感覚がよくわかるようになった。なんでもできそうな気がした。なんでもはできなかった。サッカーもバスケットボールも野球もへたくそになった。人生の目標と目的を見失いそうになった。目標と目的なんてすっかりなくなってしまっていることに気づいた。
ジョニー・カイルは、口をゆがめて嫌な笑い方をするようになった。
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ジョニー・カイルは高校に上がると、セックスがしたくてたまらなくなった。
どうせ「する」なら一番好きな女と「したい」。目当ての相手は美貌の妹・サマンサだった。必死に頼んだ。土下座までした。ヤらせてくれた。汚いベッド――茶色いシミが目立つ白いシーツのうえで絶頂に達したとき、その悦びに歓喜し打ち震え、獣のように絶叫した。痛くて痛くてしょうがなかったと聞かされた。「ほんとうに痛かったの……」と泣かれもした。家族を含めたほかのニンゲンにはバレずに済んだが、サマンサからは軽蔑されるようになった。
ジョニー・カイルは、妹から「初めて」を奪った。
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ジョニー・カイルは十七歳で学生生活を終えると、家業の農家を手伝うようになった。
小麦と米をこしらえる作業をこなした。雪が積もったら重機を使ってあちこちの家や商店の雪かきをして稼ぎを得た。日中はほかにすることもなかったのでそれなりに精を出して働いた。夜になったらそこかしこのバーに顔を出した。友人と飲み、いつも違う異性を見つけては下心丸出しで声をかけた。十八歳でセックス中毒になった。十九歳で「歩く生殖器」と呼ばれるようになった。
ジョニー・カイルは、二十歳の年の三か月間で、三人の女性を妊娠させた。
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ジョニー・カイルはみなから顰蹙を買い、そこで村を去ることにした。
出ていくことは嫌ではなかった。「シャキッとしろ」とうるさい父も、陰湿なところがある母も大嫌いだった。三人の女の父親は「責任なんてとらなくていいからさっさと消えろ!」とそろって背中を押してくれた。心残りはサマンサのこと。ヤらせてくれたのは一度きりで軽蔑されてもいたが兄想いの部分はずっと消えず、いつも心配してくれた。ただ、言い寄る悪い虫を見つけてはそれを暴力に物を言わせて駆除したので、そのたび泣かれはした。好きだった。誰のことを嫌いになっても好きだった。
ジョニー・カイルは、サマンサのことだけは愛していた。
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ジョニー・カイルは頼るあてを持たないまま、シティに出た。
生来のヒモの気質はまったく色褪せることがなく、物乞いの最中にナンパしてきた金髪美女のアパートメントに転がり込むことができた。そのまま二年間を過ごした。金髪美女は彼のきれいな顔と痩せた身体をとても気に入ってくれた。金髪美女のスタイルは頭のてっぺんから足の爪先までまるで隙がなく、キャリアウーマンで収入もべらぼうに多い。「あなたが飽きるまでここにいていいのよ」と言ってくれた。「一生養ってあげてもいいわ」とも言ってくれた。だが、退屈だった。ヒモ生活は楽で気楽だが、どうしたって暇だった。だから仕事をしてみようと思い立った。
ジョニー・カイルはぼさぼさの髪を短く刈って、紺色の背広を買った。
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ジョニー・カイルは、仕事を得た。
金髪美女の伝手で中堅の新聞社に入った。初めての業種であるどころか農作業と雪かきくらいしかしたことがないのだからそう簡単に役に立つはずもなく、実際、戸惑ってばかりいたが、そこはなにせ図太いものだから、特段気落ちすることも気に病むこともなく、マイペースで仕事を覚えていった。先輩方はそれぞれインスタントコーヒーの好みが違っていて、なんの好みかってそれは濃さの話なのだが、それくらいはそのうち完璧に把握した。じき、電話番にも慣れた。やがて助手として取材に同行させてもらえるようになった。労働の対価として給料がもらえることに小さくない満足感を覚えるようになった。規則正しい生活があたりまえになって、そこに心地よさのようなものを見るようになった。
ジョニー・カイルは、生きることに価値を見出し始めていた。
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ジョニー・カイルは、妹はどうしているだろうと考えるようになった。
新聞社の仕事を始めてから一年が経ち、村を出てからは三年以上ものときが流れていたが、実家の電話番号くらいはそらで言えた。特にためらうこともなくダイヤルを回した。陰湿な母が出て「あんたとしゃべる舌なんて持ってないよ」とキツい言葉を見舞われた。めげることなくサマンサを出してほしいと訴えた。電話がつながった瞬間からどうしても声が聞きたくなっていたのでしつこく訴えた。自分はシティにいると伝えた。きちんと収入を得ていると伝えた。まともになったつもりだと伝えた。がんばっているのだと強く伝えた。するとようやく折れてくれた。「サマンサはもう家にはいないよ。恋人と同棲してる。三日後に結婚式を挙げるんだ」と教えてくれた。
ジョニー・カイルは喜ばしさに頬をゆるめる一方で、得も言われぬ寂しさを感じた。
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ジョニー・カイルはおんぼろの黄色いチンクエチェントを転がし、里帰りした。
村に着くと、早速、実家を訪ねた。帰郷の旨は伝えていなかったので、父も母も驚いた。母は健在だったが、強面で鳴らした父はすっかり老け込んでいた。右の膝を悪くしたらしく、それもあってまともに畑にも出られず、まだ若いのに恍惚も疑われて、そのせいでひどく弱気なニンゲンになっていた。両親に用件を言った。サマンサの結婚式に出たいと告げた。熱意を込めて真剣にお願いした。「頭を下げる相手を間違えるんじゃないよ」と叱られた。確かに頼み込むならその相手はサマンサ本人だ。しかし母は「いいよ。サマンサに伝えてやる。あたしが言えば、嫌とは言わないだろうさ」と助け舟を出してくれた。口元には小さな笑みをたたえていた。
ジョニー・カイルは途方もなく久しぶりに、母の優しさを噛み締めた。
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ジョニー・カイルは、サマンサの結婚式に出席した。
ガーデンウェディングだった。派手なことを好まない控えめなサマンサらしい選択だなと思った。式は遠くで眺めた。誓いのキスも遠くで見守り、フラワーシャワーにも参加しなかった。幸せそうな様子を見ているだけでよかった。ほんとうにそれだけでよかった。なのにサマンサときたら目のまえまでやってきて。「兄さん、来てくれて、ありがとう」と言い、にこりと微笑んでくれて。
ジョニー・カイルはとても感激し、生まれて初めて本気で泣いた。
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ジョニー・カイルは、シティに戻った。
玄関を入ると出迎えてくれた金髪美女に「帰ってこなかったらどうしようかと思ったわ」と言われた。帰ってこなかったらどうするつもりだったのかと訊ねた。金髪美女は「候補のなかから新しい恋人を選ぶだけよ」と軽やかに答え、それから「でもなあ、カラダの相性はあなたがサイコーなのよねぇ」と困ったふうに眉根を寄せて口をとがらせた。「あなたは?」と問われた。妹としたときが一番イケたと胸を張ってみた。金髪美女は大きな声で笑った。「あなたはほんとうに正直ね」と笑った。
――だが、現在の彼は、ただひたすらに自らの欲求に正直なだけのでたらめな男ではない。仮に「なにがあなたを変えたのか?」、あるいは「なぜあなたは考えを改めたのか?」と訊かれたら、その要因も理屈もよくわからないと答えるだろう。おもしろいもので、人生という旅路をてくてく歩いているだけでも、ニンゲン、いろいろあるようだ。大切なものは減りはしないが増えはする。そんなふうに学んだ。
金髪美女――キャサリンを抱き締め、情熱的なキスをする。唇が離れると「ほんと、いつも乱暴なんだから」と耳元でささやかれた。
ジョニー・カイル。
いま、彼のジャケットの左のサイドポケットには、三か月分の給料をつぎ込んで買ったダイヤの指輪が入っている。