ぼくの隣
「ギョーム大臣は人格者だけどなぁ、娘の方は親の権力を笠に着て威張り散らしてるみたいだね」
困った子猫ちゃんだね。
エミルは、頬杖をついてニヤニヤした。
「彼女の気は癖が強すぎて好みじゃない」
「ふうん」
エミルは横目でファビオを見ると、訊ねた。
「それに比べて、さぞビオラちゃんの精気は美味しいんだろうね?」
ファビオは、エミルから目を逸らした。
「…だろうね」
エミルは驚いてファビオの肩を掴んだ。
「え?!まさか、君、まだ直接吸ってないの?」
「…ビオラはそんなんじゃないから。僕のことは友達だとしか思ってないし。…そんなことより、もう王宮に戻れば?ビオラが来てしまう」
ファビオがエミルの手を引き剥がした。
「そうもいかないんだよね。君がまだビオラちゃんと友達から進展してないんだったら、事情が変わってくる」
ファビオはエミルを睨んだ。
「どういう意味?」
その時、扉が開く音がして、続けて小走りで駆けてくる足音が聞こえた。
「お姫様が来たようだね」
エミルがファビオを挑発するように笑う。
ファビオはエミルの真意が解らず焦る。
ビオラが教科書を抱えてこちらに向かってくる姿が見えた。
離れていてもビオラの澄んだ気が伝わってくる。とても心地好く、どこか甘美な味わい…。
ファビオの奥底の器が満たされていく。
ファビオの姿を見付け、笑顔を浮かべたビオラだが、隣に座る人物に気付きたちまち表情を凍らせた。
「やあ、コッセラ嬢。今日は僕もお仲間にいれてもらって良いかな?」
ビオラはファビオを窺うように見た。
「大丈夫だよ。殿下はこう見えて気さくなお方だから、いつも通りのビオラで問題ないよ」
ファビオは内心エミルに去って欲しかったが、同時にエミルの言葉の真意が気になってもいた。
自分の見えないところでビオラに近付かれるより、ここで動向を探る方が良いと思った。
エミルはビオラに優しく語り掛けた。
「訛りを気にしているんだね?僕は気にしないよ。コッセラ嬢のことは、ファビオから良く聞いているからね、僕も友達になりたいんだ。だから、敬語も必要ないよ」
ビオラは少し逡巡した後、おずおずと答えた。
「わ、わかったべ」
エミルはふふっと美しい顔に笑みを浮かべた。
「可愛いなぁ。僕もビオラって呼んでも良いかな?」
ビオラは、少し頬を赤らめてコクコク頷いた。
ファビオはそのやり取りを見て、やけにイライラとした。
「ビオラ、こっちへおいで」
ファビオはエミルとは反対側の隣の椅子を引いた。
ビオラは、テテテッと寄ってきてストンと腰掛けた。
エミルはそれを見て眉をあげると、立ち上がってテーブルを回り込み、ビオラの正面に座り直した。
「僕は旧語学は専攻していないけど数学は首席だからね、是非頼ってほしいな」
ビオラは目を瞬き、口を開いた。
「そ、そうだべか。さすが王子様だべな」
ビオラはいそいそと教科書を開いてファビオに問い掛けた。
「ファビオ、今日はここからだべな?」
ファビオは、グッとビオラに身体を寄せてエミルから遮るように教科書を覗き込んだ。
「そうだよ。新しい公式だけど、先にやったものの応用だから簡単だ。先ずは自分で解いてごらん」
「え、あ、そうだべか。うん」
エミルは身体を引いて腕を組んだ。
「僕らはその間、自分たちの課題をしよう。ねえ、殿下」
エミルはファビオの方に身体を向けると小声で囁いた。
「君、大人気ないなぁ」
ファビオは無言でエミルに課題のプリントを差し出した。
「へえ、王子様は全部で5人もいるだか」
「そう、僕はちょうど真ん中」
ビオラが水筒から注いでくれたハーブ水を飲みながら、エミルは続けた。
「一番上の兄には、もうフィアンセがいるからね、ビオラは四人の内で誰が良い?」
ビオラはきょとんとした。
ファビオはギョッとしてエミルを見た。
「コッセラ伯爵から聞いてない?王宮からビオラに王子との縁談が持ちかけられたはずだけど」
ファビオは、胸がきゅっと締め付けられた。
そんな話は初耳だ。
ビオラを盗み見ると、ポカンとしてエミルを見ている。
「ちょっと待て。ビオラにはフィアンセがいるだろ?」
自ら発した言葉に更に気持ちが暗くなる。
そうだ、ビオラにはマリオがいる。
逞しくて甘え上手のパートナーが。
「そうなの?ビオラ。」
エミルがビオラに問うと、ビオラは全力で否定した。
「いねえべさ!そんなもん!」
「え?マリオは?!」
「だから、マリオは相棒だで。それに、マリオにはちゃんと番がいるし、しかも今、妊活中だ!」
ファビオとエミルは絶句してビオラを眺めた。
妊活中…。
エミルは、ああ!と声を上げた。
「そういうことか」
どういうことだ?
「じゃあ、問題ないね。良ければ全員を紹介するよ。皆、君に興味を持っているみたいだし」
ビオラは戸惑いながらも断った。
「遠慮しとくだよ。妃なんて柄じゃないし。そもそも何も聞いてないし」
「殿下、ビオラが反対を押しきって学園に入学したのは、学問を習得するためです。婚活をしに来たわけでは無いのですから、失礼ですよ」
ファビオは勢いこんでビオラを援護する。
そんなファビオを横目で見て、エミルは溜め息を着いた。
「王宮はドラゴとの繋がりを強固にしたい意向なんだよね。僕としてもビオラが来てくれると楽しそうだなって思ったのだけど」
エミルはさっとビオラの手をとるとその甲に口付けた。
ビオラは唖然としてその様子を見ている。
ファビオはエミルの手を叩き落としたい衝動をぐっと堪えた。
エミルは上目遣いでビオラを見た。
「まあ、僕は諦めないけどね。他の王子はどうでも良いから、僕とのことは前向きに検討してみて」
じゃあ、僕はそろそろお暇するよ、
と、言い残してエミルは去った。
妙な沈黙が書庫に漂う。
「…なんだべか…。変わったお人だな」
ビオラが先ほどエミルの唇が触れた手の甲を見ながら呟いた。
「ビオラ、君、王子にプロポーズされたようなもんなんだぞ?」
ビオラは、小首を傾げた。
「でも、断ったべ」
「だけど、諦めないって言ってたよな」
ビオラは目をつむってウーンと唸った。
「だとしても、おらは、ちゃんと好いた相手と結婚したいだよ。マリオみたいに唯一無二だと思える相手が良い」
ファビオはビオラの言葉を反芻する。
唯一無二…番と呼べる相手。
「…そんなの。どうやって見分けるのかな」
ビオラは少し照れて俯いた。
「そんなの、おらもわかんないけど。マリオは一目でわかったみたいだな。匂い?みたいなもんだって。まあ、普通の人間には難しいのかもしれないけど」
ファビオは動悸が激しくなるのを意識した。
ビオラは明らかに他の女生徒とは違う存在だ。
その清々しい気に惹かれたのも確かだ。
しかし、運命的なものを感じたかといえば、それはわからない。
ただ、徐々に浸食するようにファビオの中に入り込み、その存在はどんどん大きくなっている。
強く感情を揺さぶる程に。
ファビオは、問題集に向かうビオラの横顔を盗み見た。
頬にかかる髪から覗く、紅い唇に引き寄せられる。
ああ、確かにビオラの精気は極上だろう。
しかし、一旦それを味わえば、きっともう引き返せない。
ファビオにはその覚悟がなかった。