あの夏の入道雲を越えて
歓声が悲鳴に変わり、溜め息で終わった8月。試合終了のサイレンの中、見上げた青空に広がる真白な入道雲が眩しかった。
「終わったんだな……」
「栄斗、お疲れ」
大型バスのリアガラスの向こうに聖地が遠ざかる。隣席の星那は、そっと右手を差し出してきた。
「この10年、楽しかったよ。ありがとう」
「なんだよ、改まって」
照れ臭かったが、彼の指の長い大きな掌を握り返す。この掌から繰り出すフォークを武器に、県大会を余裕で勝ち抜いてきた。
「約束したのに……勝たせてやれなくて、ごめんな」
でも、星那の肩は限界だった。前日練習で違和感に気づいたが、「甲子園で1勝を」という彼の夢を叶えるため、監督にも隠し、2人だけの秘密にした。その判断が正しかったのか、今は分からない。
「お前が悪いんじゃないよ」
涼しい二重の下の瞳が赤い。同じ団地に住んでいた彼とは、リトルリーグから始めて、ずっとバッテリーを組んできた。雨の日も風の日も、猛暑の中でも、俺達は共に戦ってきた。
「お前は、この先も頑張れよ」
「ありがとう。お前も、あっちで頑張れな」
俺は大学でも野球を続ける予定だ。一方の星那は、アメリカの大学へ進む。やがてはスポーツトレーナーの資格を取って、指導者になる夢を抱いている。
「あのさ……栄斗、1つ約束してくれないか」
「いいよ」
あの日の約束を果たしに、今夜、俺は甲子園球場の歴史館の前に立っている。
「『10年後の誕生日に、ここで会おう』――自分で言っておいて遅刻かよ」
野球もイベントもない、週末の夜。初夏の緩い風の中、人通りは閑散としている。人待ち顔で立っている、彼らしき男の姿はいない。
進学後、いつの間にか疎遠になり、連絡先すら分からなくなっていたけれど、この約束は忘れなかった。
「栄斗、だよね?」
聞き覚えのない声にビクリと震えた。カツン、と固い足音が、躊躇うように近づき、長身のシルエットが足下に伸びてくる。
「え?」
振り向くと、グラマラスな赤いワンピースを着た、長髪美女が立っていた。涼し気な二重の瞳を細め、深紅の唇がゆっくりと弧を描く。正体を知らなければ、うっかり一目惚れしてしまっただろう。
「お前……10年の間に、何があったんだよっ!」
「うん。今夜はたっぷり話を聞いて?」
星那は、固まっている俺の腕に、腕を絡めた。良い香りが鼻を擽り、胸の鼓動が走り出して――。
隣で眠る星那が微笑む。10年前のあの夜が、俺達の新しい絆の始まりだった。