戸惑う心
連休初日、第一中学の校庭はそれは賑やかなものだった。あらゆる部活動がこぞって練習に励む。都会とはいえ郊外に佇む第一中学は校庭もそこそこ広く、生徒たちはストレスなく部活動に順じていた。
「パス! そっち回って!」
美都が所属するラクロス部も例外ではない。チームメイトの力のこもった声が響く。ラケットを握りしめてコートを駆ける。掛け声に応じて仲間の立ち位置を確認しパスを繋げた。
しばらくして笛の音が響きあたると一斉にプレーが終了し、美都は息をついた。すぐに集合の合図がかかりコートの端へ向かう。
「美都、最近いい動きするじゃん!」
「へへー! ありがと!」
後ろから駆けてくるチームメイトに背中を叩かれ、美都は笑顔で応じた。
握るものは違うが守護者の使命が役に立っているのかもしれない。立ち回り方は異なるもののあちらも鋭敏な動きを求められる。ひょっとするとラクロス以上に。
チームメイトたちが集まり、主将から号令がかかる。今日の練習はこれで終わりだ。
すると顧問から今かいた汗が一気に冷えるような連絡事項が伝えられた。
「うちは文武両道を掲げているから休み中はしっかり勉強もすること。中間考査でひとつでも平均点以下だったら試合には出さないからそのつもりで挑むように」
先程までの覇気が消え去るほど、部員たちの返事はまばらだった。それを顧問が制し、再び溌剌とした挨拶をさせる。
(へ、平均点……)
一気に現実に戻された気がした。だいたいいつも平均点付近を彷徨っている美都にとっては重い言葉だ。
連休が明けて5月下旬にはすぐに中間考査が始まる。うかうかしていられない。一つでも平均点以下なら試合には出られないのだ。皆必死になって勉強するだろう。
特に3年は試合に出られる回数も残り少ない。ここで気合を入れなければ自分の首を絞めることになるのだ。かと言っていつも頼りにしている凛は海外だ。春香も部活と塾で忙しいだろう。どうしたものかと頭を悩ませ始めたところ、つい昨日あった出来事を思い出した。
(そうだ、衣奈ちゃん……!)
予定がわかったら連絡してと言われていた。連休中、一緒に勉強しようと。
昨夜は円佳と和真にそれぞれ連絡することだけしか頭になく、頭の端に置いたままにしてしまっていた。後で連絡してみようと思い顔を上げた瞬間、背後から女子生徒たちの黄色い声が聞こえた。
何事かと思って振り返ると遠目でボールを蹴る少年たちの姿が見えた。
「ねぇせっかくだからサッカー部の試合見てこうよ」
チームメイトの声でサッカーコートの近くまで誘われる。そう言えば今、サッカー部は練習試合をしているのだった。
サッカー部とラクロス部のコートは隣接しているため、あまり移動せずに済むのが利点だ。美都がたどり着くより前に先客が数名おり、その動向に歓声を上げていた。つられるようにしてサッカーコートを見る。色分けされたゼッケンを纏い、少年たちが縦横無尽に動き回っていた。
練習試合と言えど選手の表情は真剣そのものだ。プレーに手を抜かないのはスポーツマンシップに則っている。
「──!」
無意識に目線が四季を捉えた。他の選手同様、広いコートを駆け巡っている。少し距離があるものの、動いている姿に特段変化は見られない。昨日のことがあっただけに心配していたが通常通りに思える。それでもボールが四季に回ってくるとハラハラしてしまうのも事実だ。
だが美都の心配をよそに、難なく切り返すと鮮やかに味方にパスを繋げた。そのプレーにまた歓声があがる。
「向陽せんぱーい!」
下級生からも応援する声がかかった。思わずぎょっとして視線をそちらに向ける。彼は学年問わず人気なのだと実感した。
(そっか……そうだよね)
再び四季を見る。確かに彼は非の打ちどころがない。
背も高く、容姿も整っている。加えて歳も1つ上なことから大人びて見える。少し愛想が足りないとも思うがそれもクールだと言い換えることが出来る。これで運動も勉強も出来てしまうのだから、確かに人気が出ない方がおかしい。
はたと思い美都は一瞬目を丸くした。
そうだ。モテないわけがない。今まで恋愛の話をしてこなかったが、四季には恋人はいないのだろうか。
いてもおかしくない。これほどの人気なのだから。もしいたとしたら──……。
(……──わたしすっごく邪魔だよね?)
顎に手を当てながら思考に耽る。
守護者の役目があるから同じ家で暮らしてはいるが、彼だってもともと自分の生活があったはずだ。むしろ守護者という共通点がなければ恐らく今でも接することはなかっただろう。それ以前の彼のことは良く知らない。否、一緒に暮らし始めてからも過度な干渉は避けていた。
もし四季に相手がいるとしたなら、すごくまずい状況なのではないか。
そんな悶々とした思考を遮るように見物客から一層歓声が沸きあがった。四季が繋げたパスで和真がシュートを決めたらしい。
周りに合わせるようにして拍手を送る。
遠くに見える四季と和真はハイタッチして笑みを交わすと、すぐにまたプレーに戻った。
「かっこいいねー、向陽君」
「そう……だね……」
チームメイトの声にぼんやりとした返事を返す。
先程考えていたことを確かめる術は、直接本人に聞くしかない。だがそれこそ過干渉だ。聞いたところで今更同居を辞めることなんてできない。
幸いそういった類の噂は耳にしていない。人気のある四季のことだ。もしそうなったら話題になるだろう。
「…………」
美都は無意識に深く息を吐いた。
改めて人との距離感について考えなければと思ったのだった。
◇
校舎の外階段を上がり職員室へと向かう。
授業が休みで部活動だけの場合、部室の鍵を返却するために使うルートだ。正面玄関も空いてはいるのだがわざわざ校舎に入って職員室を目指すと遠回りになるため顧問も推奨している。
あの後サッカー部は他校に勝利をおさめた。観客もあっという程の良い試合だった。
その余韻からチームメイトたちと部室でしばらく構成について話し合っていたのだ。いい試合を見て触発されたのだろう。主将の掛け声で残っている部員たちでああでもないこうでもないという話し合いが行われた。
顧問の一声がなければ延々と談義しあっていただろう。
渋々部員達が帰る支度をして部室を出てあと、鍵当番の美都が預かってその場は解散となった。
「失礼しまーす」
挨拶をして職員室に入る。さすがに連休だけあって教師の数もまばらだ。だがいつ来ても職員室というところは落ち着かない。自分とは世代の違う空間だからだろうか。
美都は職員室へ入り指定された場所へ鍵を返すと再び出入り口に向かった。
するとそのすぐ横で話しをする担任の羽鳥と保健教諭の内山の姿があった。美都が会釈をすると2人も気づいたようで柔らかい声がかかる。
「ちょうどよかった、月代」
「はい?」
声をかけたのは白衣を着た保健教諭の内山だ。日頃から部活で怪我をすると手当してもらっている。
ちょうどよかった、の意味がわからず小首を傾げると彼女が意味ありげな笑顔で言葉を続けた。
「このあと何か急ぎの用事ある?」
「? 特にないですけど……」
「よし。じゃあひとつ頼まれてくれる?」
そう言うと内山は白衣のポケットからネームタグがついた鍵を取出し美都に差し出した。確認すると『保健室』と書かれている。
「保健室開けといて欲しいんだ。で、しばらくいてくれない?」
「いいですけど、わたし簡単な手当くらいしか出来ませんよ?」
内山からの突然のお願いに承諾するも、言葉の通り自分に出来るのは擦り傷の消毒くらいだ。
彼女もそれは判っているようで美都の言葉に肩を竦めた。
「いいのいいの、とりあえずはいてくれれば。本当はすぐ戻る予定だったんだけどトラブル発生でね」
「悪いな月代」
横で会話を聞いていた羽鳥が申し訳なさそうに美都に呟いた。恐らくはそのトラブルに羽鳥も関わっているのだろう。
美都は首を横に振って再度教師2人を見た。
「いえ、どうせ帰るだけでしたし」
「助かるよ。後でジュース驕ってあげる。あとスマホの使用も許可してあげるわ」
「ありがとうございます。じゃあ下にいってますね」
「30分で戻れると思うから。緊急のときは内線して」
「はーい」
内山の気遣いに感謝しお礼を伝えると、彼女の指示に従い職員室を出て階段下へ向かった。というのも保健室は職員室の真下にあるからだ。渡された鍵は保健室から外に続く扉の鍵だった。
30秒とかからず保健室の外扉の前に着くと、預かった鍵を使って扉を開けた。
ローファーを脱いで近くにあったスリッパを借り入室する。入って直線状にある教室の入り口を目指し、電気のスイッチをつけた。手の消毒を済ませたあと、再び窓側に戻り置いてある丸椅子に腰かけ背負っていたリュックを下ろした。
開けた扉から心地よい風が流れ込んでくる。
(──……いい天気だな)
部活をしていたときも感じた風だ。校庭ではまだ部活動に励む声も聞こえてきていつもとは違う空気にくすぐったさを覚えた。
30分間ここで一人何をして待とう。そう思いながら、使用許可されたスマホをリュックから取り出す。
まずは衣奈へ連絡しなければ。頭の中で部活動のスケジュールを思い出しながら手帳に挟んでいた衣奈の連絡先を取出した。
初めての相手にメールを送るのはいつだって緊張する。自分であることがわかる様に名前を書いて、空いている日をピックアップして送信ボタンを押した。
ほう、と息をついて天井を仰ぎ見る。一人の時間は、あまり得意ではない。いろいろ考えてしまうから。
(と言っても考えなきゃいけないこともあるんだけど……)
勉強のこと、部活のこと、これからのこと。
先日羽鳥と行った二者面談を思い出す。3年生は進路のことがあるため通常は三者面談なのだが、わがままを通して二者にしてもらった。それには様々な理由があるが、大きな一つの理由としては自分の進路が明確でないからだ。
今現在、特にやりたいことも見つからない。勉強が得意なわけでもないし、運動神経に秀でているわけでもない。ラクロスは好きだがプロを目指しているわけでないので今後もやれたら良いなという思いだけだ。
このままただ漠然と高校進学を目指して良いのだろうか、とありのままの気持ちを羽鳥に相談した。すると彼女は肩を竦めてこう答えた。
『あんたたちの歳でやりたいことがはっきりしている方が珍しいよ』
『そう……なんでしょうか』
『やりたいことなんてこれからいくらだって見つけられる。だから今は勉強しときな。知識は裏切らないから』
そう諭され、その場では進学予定で話が進んだ。
しかし進学するにしても志望校の問題が出てくる。今の自分の学力は把握しているつもりだ。真ん中の真ん中。良くも無く悪くも無い。高望みをするつもりは無いが私立はダメだ。そうなると現状の偏差値に都内の公立高校を照らし合わせるともう少し頑張らなければいけない。
(勉強、しなきゃな……)
勉強は嫌いではない。新しいことを知るのは楽しい。だがそれとこれとは別だ。特に苦手な数学に至っては数字との戦いだ。理解が追いつかない箇所が多い。他の教科にしても平均までは取れる。だがそこから上にはいけない。それが悩みでもある。
(やりたいことか──……)
友人たちの中にはもう将来の夢を語る者もいる。それはもう目を輝かせて。そんな彼女たちを見ると尊敬の気持ちと同時に焦りも芽生えるのだ。
得意なことが何一つない美都からすると、自分の目標を掲げる周りの子たちが一層輝いて見える。だから気後れしてしまう。
スマホを持ちながら、今度は顔を俯かせて、はぁと大きく息を吐いた。
「あれ? 美都じゃん」
「! 和真」
ふいに名前を呼ばれ、声のした方向に目を向けると外扉の入り口から幼馴染が覗いているのが見えた。
そう言えばサッカー部はまだ練習を行っていた。試合後にも練習があるなんて気合が入っていると感心したのだ。
「なに、店番? うっちーは?」
「内山先生用事があるから帰ってくるまでの繋ぎ。どしたの? 怪我?」
うっちーとは内山の愛称だ。本人に言うと怒るのだが生徒たちの間では親しみを込めてそう呼ばれている。
店番と訊かれ小首を傾げそうになったが似たようなものなので否定はせず、ひとまず状況を説明しながら立ち上がって扉の傍へ移動する。
すると和真も納得し、美都の質問に答えながら後ろに見える人影を指さした。
「俺じゃなくてこいつのな」
そう言いながら強引に腕を引っ張ると渋々その人物は姿を見せた。
顔を見た瞬間驚いて目を瞬かせる。なぜなら四季が目線を逸らしながら苦い顔をしていたからだ。
「い、痛いの!?」
「だから俺じゃなくて四季がな」
思わず出た大きな声を和真が制する。理由が察知できるからこそ出た声だったが冷静に切り返す和真を見ると、どうやら四季は事情を説明していないらしい。当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、そんな状態で今までプレーしていたのか。
彼は溜息を吐きながら和真の腕を振りほどこうとした。
「……大丈夫だって」
「嘘つけい。お前、試合中もずっと庇ってただろうが。バレバレだからな」
和真に図星を衝かれて四季は更に苦い表情を見せた。心なしか顔色も悪い。木陰で涼しいはずの軒下で、額に汗を浮かべている。
美都はとっさに昨日の傷が原因だと思い至った。
「試合は終わったし、このあとは練習だけだからこいつちょっと休ませてやってくれる?」
「和真──……!」
「ここで無理してもしょうがねーだろうが」
頑なに大丈夫だと反論する四季を一蹴し、強引に腕を引いて四季を扉の前まで誘導する。
「早く復帰したいなら今は安静にしとけ。背中の傷はヘディングに響くぞ」
真っ向から真っ当な意見を主張され、さすがの四季も押し黙るしかなかった。それに和真は傷の位置についても気付いていたようだ。さすがだなと思わざるを得ない。
2人のやり取りをしばらく見守っていると、四季が渋々と肩を落とした。和真の尤もな意見を受け入れるようだ。
「──……わかったよ。悪い」
「素直でよろしい。じゃ、あと頼むな」
そう言って四季の腕をぱっと離すと和真は再びコートへ向かって行った。返事をしてから数秒も経たずに練習を再開し始めるのだから彼のバイタリティにはほとほと感心させられる。
その場に残され佇んでいる四季がおもむろに声を発した。
「……なんでお前がいるんだ」
「もう。和真との会話聞いてなかった? 内山先生が来るまでの繋ぎ。とりあえず入りなよ」
美都が言葉を返すと四季は更に深い息を吐いて扉に手を架けながら靴を脱ぎ始めた。その間にスリッパを用意して扉の前に置く。
さすがに試合からの練習だったようで全身砂だらけだ。身体を拭いたほうが良いかもしれないなと思って、除菌されたタオルが入っているボックスに向かった。
「そこの丸椅子に座って」
入ってきた四季に目線で指示を出す。美都はその間、先程のタオルをぬるま湯で濡らしていた。
普段から口数が多い方ではないが、痛みと気まずさからか一層無言状態で佇む彼を見るとまるで借りてきた猫の様だと思った。逆毛まで見えそうだ。
水滴が垂れないようにタオルを絞るとそれを持って四季の前に向かう。
「はい、これで身体拭いて。泥だらけでしょ」
目の前にタオルを差し出すと四季は素直に受け取った。
その様子を見て美都も軽く息を吐く。
観戦してたときはまるで大丈夫のように見えたがやはり無理していたのだ。それでも誰にも言わず一試合こなしたのだから称賛すべきなのだろうか。
「──……ぃ……っ!」
身体を拭いている動作が傷に響いたのか、四季が痛みに耐えかねて顔を歪ませ声を漏らした。
美都はすかさずその反応に気づくと思わず駆け寄って彼の前にしゃがんだ。
「軽く消毒しようか……?」
「いい。大丈夫だ──……」
そう言うと四季は使っていたタオルを美都に突きかえした。
やはり自分が言ってもダメらしい。彼の言い分もわかる。庇って怪我をした張本人を前に痛いなどとは言えないのだろう。そうは言っても気になるのも仕方ない。
美都は渋々そのタオルを受け取ると立ち上がって再び洗面台の方へ歩いた。
それにしても、と美都は一つ納得がいかないことがあった。試合中にあれだけ表情豊かに出来るなら自分の前でももう少し柔らかくしてもらいたいものだ。逆に言えば出逢った時の方がまだ穏やかじゃなかったかとさえ思う。
美都が悶々としながらタオルを洗っていると四季がおもむろに口を開いた。
「──……和真と仲がいいんだな」
驚いて思わず彼の方を見る。
痛みを紛らわせたいのか沈黙に耐えかねたのかは解らないが彼から話を振ってくるのは珍しい。
「幼馴染だしね。腐れ縁ってやつ」
「へぇ……」
「和真はあれで良く見てるでしょ?」
共通の話題が彼のことだったからなのか、その流れで和真との関係性を説明した。腐れ縁とは言うが、彼には昔から何かと助けてもらっている。外見は年を経るにつれ変わっていったが中身は変わらない。
美都自身は彼が良く気づく人間だと知っている。だからこそサッカー部の副主将で部員を取りまとめられるのだと思う。今だって何の説明も無しに四季の怪我に気付いたぐらいだ。四季も上手い事隠そうとしていたに違いない。だからこそ気付かれて驚いたのだろう。
「見た目で敬遠されがちだけどね。本当はすごく気遣い屋さんなんだよ」
自分の言葉に肩を竦め苦笑いを浮かべる。
彼は一見派手な人種に分類されるようで、特に女子生徒からは距離を取られがちだ。
美都や春香など小学校のときからの付き合いである友人は彼のことを良く知っているため至って普通なのだが。
「それはわかる」
「でしょ」
「似てるなお前ら」
再びタオルを絞っていると四季が同意のあとに続けた意味深な言葉に思わず小首を傾げた。
「わたしと……和真?」
「世話焼きなところ。おせっかいとも言うが」
「……似てるなんて初めて言われたよ」
「性格の話な。あいつはお前のこと妹みたいって言ってたぞ」
似てると言われて目を丸くした。
確かに幼少期同じように育ってきたので感性などは近いものがあるかもしれないが性格のことを言われたのは初めてだ。
もちろん嫌な気はしないが、目から鱗だった。それにしても。
「妹って……。和真のほうが誕生日遅いのに」
「それだけお前が危なっかしく見えるんだろ」
「失礼な。四季だって十分危なっかしいよ」
ぶつぶつと文句を言っていると耳に入った情報を納得するかのごとく四季が言葉を繋いだ。
そしてそれに反論すると今度は彼がむっとした表情を浮かべる。
絞ったタオルを乾かすために窓際にある小型の物干しざおまで歩いていると四季が不満げに口に出した。
「……どこがだよ」
「そうやって無茶するところ」
「無茶なんてしてない」
「でも痛いんでしょ? 悪化させたら元も子もないじゃない」
少し呆れ気味に答えるとさらに言葉が被さってきた。
タオルを干し終えて振り向くといつも以上に顔が険しい四季が目に入った。
それでも自分の言っていることは間違っていないはずだ。ここで引くわけにはいかない。
「おせっかいだな。心配しすぎだ」
「心配にもなるよ。もう少し頼ってくれてもいいでしょ」
「お前に頼れって? それこそ余計なお世話だ」
2人の会話はどんどんヒートアップし次第に言い争いに近いものに変わった。
売り言葉に買い言葉だ。いつもより語気が強まる四季の言葉に触発されて、美都の感情も刺激される。
彼の事を案じてかけた言葉を一蹴されて口惜しくなる。そんなに自分は頼りないのかと。
昨日まで考えていたことがふいに脳裏をかすめた。自分の情けなさも相まって思わずそのことを口走る。
「もう! 四季がわたしのこと良く思ってないのはわかるけど、そんな言い方しなくてもいいじゃない!」
「だっ──!……、……は?」
美都の感情論に再び言い返そうとした四季が、彼女の言葉を最後まで聞いて一瞬止まった。
彼の怪訝そうな表情を見て、美都はようやく冷静になり口を押えた。
四季が頭を抱えながら先程とはまた違った険しい表情になる。
「待て。なんでそうなるんだ」
彼も冷静さを取り戻したのか、美都の言葉を真剣に反芻しているようだ。
無論伝えるつもりはなかった言葉だ。なぜならこのうえなく説明がしづらい。だが言ってしまった手前、そして訊かれてしまった手前、ここで有耶無耶にするのも良くないだろう。
「だって──……四季、家だと笑わないじゃない」
「……元々そんなに笑うほうじゃないだろ」
「そんなことない! だって学校にいるときの方が感情豊かだもん!」
なんだかどんどん泥沼にはまっていくような気がする。理由を付ければ付ける程自分の浅はかさが否めない。だが引くに引けなくなってきた。
先程までは四季の方を向けたが、今は目線を逸らす他ない。
「──……同じクラスで、扱いにくいって言うのはわかるよ」
「言ってないだろそんなこと」
「……じゃあなんでいつもわたしには愛想ないの?」
言ってから口走ったことに後悔する。
子ども染みてる。こんなの四季を困らせるだけだ。
予想の通り彼は苦い顔をしながら言葉に迷っている。
「誤解だ。いろいろ」
はあと息を吐きながら、なんとか言葉を絞り出したように眉間にしわを寄せた。
しかし誤解も何もない。説明がないことにはそう思ったって仕方のないことだ。そんなことを考えてしまう自分にも嫌気がさしてきた。だんだんといたたまれない気持ちになってくる。
「──……帰る」
「なっ……!──おい!」
内山はまだ来ていないがこのまま平行線は正直辛い。自分の子どもっぽさに辟易してしまう。
四季に背を向ける際、彼の声が聞こえたがこのままここにいても惨めな感情が渦巻くだけだ。
だから鞄を持って立ち去ろうとした。
「──待てって!」
ガタッという大袈裟な音がして四季が立ち上がると、美都の腕を強引に掴んだ。
一向に応じようとしない美都に四季が腸を煮えくり返したようだ。
予期せぬ彼の行動に驚いて思わず動作を留めてしまった。なぜ引き留める必要があるのかわからず心が戸惑う。
「は、はなして──……!」
「離したら帰ろうとするだろ」
戸惑いながら半分振り向いて四季に抵抗するが、自分の行動を読まれあっさりと拒否される。そう言って握りしめる手の力は先程よりも強い。
痛くはない。だが振りほどくことなど不可能だ。その力の強さに驚きを隠せず更に混乱する。
心なしか顔が熱くなってきた。だがこの感情がわからず彼とは目を合わせられない。
無言の抵抗を続けているとしばらく美都を見つめていた四季がおもむろに口を開いた。
「──そんなこと思ってたら一緒に暮らしてるわけないだろ」
「……守護者の使命だからやむを得ずなんでしょ」
「揚げ足とるなよ。あれは拒否することも出来るんだ」
「でも四季が先に住んでたんだからそんなの無理じゃない!」
如何せん四季の話に反発してしまうのは、自分が動揺しているからなのだろうか。自分で自分がわからないとはまさにこのことだ。
混乱する頭ではどうしても良くないことばかり考えてしまう。それが不思議と口から出るのだ。
尚も彼の顔が見れないでいるが、絶対に呆れている。もし自分が四季の立場でもそうなるはずだ。だから一刻も早くこの場から去りたいのに。
四季が逃がすまいとして掴んでいる美都の腕に少しだけ力が入る。それがなんだか責められているような気がして美都は抗議の声をあげようとした。
「──っ……四季!」
「……今までは、測りかねてただけだ」
「え……?」
ポツリと四季が呟く。
その言葉の意味がわからず一瞬だけ彼に視線を向けるが、目が合った瞬間その眼差しに耐え切れずすぐにまた逸らした。
いつにも増して彼の考えが読めない。
怒ったかと思えば宥めようとして。頑なに手を離そうとしない。握る手の熱さが制服越しでも伝わってくる。
動揺して目を合わせられないでいるとふいに掴まれた腕が引き寄せられた。
「──……!」
突然の動作に身体が拒むことができず、半歩四季に近づく。
驚いて四季を見ると、彼はしっかりと自分のことを見つめ言葉を発した。
「────……行くなよ」
思わず息を止め、目を見開いた。先程までとはまるで逆だ。
彼の赤茶色の瞳から、目を逸らすことが出来ない。彼の言葉に力でもあるかのようだ。
次の瞬間には心音が跳ねた音が聞こえた。一つの音を合図に、それがどんどん大きく早く鳴る。辛うじて少しだけ開いている口から呼吸が出来た。
今、自分は間抜けな顔をしているに違いない。しかしそんなことさえも考えていられない。
ほんの数センチ先に四季の顔があるというだけなのに。
「……っ、し──……」
やっとのことで絞り出した声は掠れて良く発音ができなかった。
その直後校舎の外からパタパタと仰々しい音が響いてきてお互いハッと我に還る。
掴まれていた腕を離され、ようやく身体が自由になった美都は思いきり四季に背を向けた。悟られたくなかったからだ。
「悪い月代、お待たせ──ってあれ? 怪我人?」
「いえ、あっ、は──はい!」
内山が外扉から慌てて入ってくると、美都を確認したのちその背後にいる人影にも目をやった。
美都は彼女の問いに答えるべく、否定と肯定が入り混じったおかしな文言で返事を返す。そして足元に置いてあった鞄とスマートフォンをとり一目散に扉の方へ向かった。
「どしたの?」
「いえ、なんでも! これ鍵です、彼は背中を負傷してるみたいなのであとはよろしくお願いします!」
動揺を悟られないように笑顔を作り、矢継ぎ早に内山に用件を伝えると借りていた鍵を返しそのまま彼女に会釈した。
彼女と入れ違いに颯爽と扉を出て靴を履く。
「ちょっと! ジュースは!?」
「また今度で! じゃあお先に失礼します!」
内山が止める間も無い程の俊敏さで彼女に再び会釈をすると、美都はすぐさま鞄を背負って校門へ駆け出した。
首を傾げながらそれを見送ると、背後で思い切り息を吐く音が聞こえた。
振り返ると一人の男子生徒がバツの悪そうに頭を抱えている。瞬時になるほど、と閃く。とりあえずは問診が先か。
「えっとー? クラスと名前は?」
「……7組、向陽です」
「あぁ。噂の」
聞き覚えのある名前だったのでつい反応してしまった。噂の、という単語を聞いた男子生徒は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
季節外れの転校生。そして先程話していた羽鳥からもその名前は耳にしていた。
「で、背中だっけ。傷診るから後ろ向いて座って」
そう言うと四季は渋々と傍にあった丸椅子に座った。
恰好からサッカー部と判断できる。
どうやったら背中を負傷できるんだと思いながら手を消毒し、彼の背後に腰かけた。
一言断ってから上着をめくると、衣服と擦れて炎症を起こしているかのような傷が垣間見える。だが新しい傷とは言えない。それに丁寧に手当された跡がある。つまりは部活中に出来たものではないのだろう。
「どしたの、これ。部活中じゃないでしょ」
「……狐に引っ掻かれました」
「はぁ?」
またわかりやすい嘘を吐く。引っ掻き傷ならもっと線が入るはずだ。それに抑々なぜ狐が出てくるのか。
内山は四季の返しに呆れるよう息を吐いた。
まあ年頃の男子は言いたくないこともあるか。仕方ないから今回ばかりは意思を汲み取ってやろう。
そう思って追及することなく救急箱から消毒液を取り出す。
ガーゼに染み込ませながら先程走り去った少女の表情を思い出すとおもむろに口を開いた。
「向陽さー」
「なんすか──っ……てぇ……!」
「月代みたいないたいけな少女を弄ぶのやめなさいよー」
「もてあそんでなんか……!」
消毒液が滲みたのか痛みに声を上げる四季を余所に助言を呈す。
するとすかさず彼が反論した。その反応に少しだけ目を丸くする。
「あら本気なの。ならいいけど手出すなら校外にしなさいねー。校内で誰かに見られても言い訳なんて出来ないんだから」
「…………」
一応保健教諭である手前教育的指導はしておかなければならない。
だが恋愛に関しては本人たちの自由意思だ。それを禁じる事は出来ないししたくない。
教師の中には頭の固い者もいるのでそういう者にとやかく言われる前に牽制しておく方が良いだろう。
「さっきは見てないから大丈夫よー。月代の反応見てそうかなって思っただけ」
「……手、は……出してないです」
「あ、そう。まあせいぜい頑張んなさいな、少年」
処置を続けながら少年に声をかける。
途中の間が気になったがまあ深く突っ込むところでもないだろう。彼の言葉を信じよう。
いつも模範的な少女が珍しく動揺していたのはなんとも初々しい。今度ジュースを驕る名目でそれとなく聞いてみようと老婆心が動いてしまう。
思春期の子どもたちにとって、傍にいてくれる人がいることは悪いことではない。そうして大切なものを学んでいくのだ。
自分は保健教諭として彼らを見守る義務がある。学生でいられる期間は短い。だからこそ学校生活において様々なことを学んでほしい。そう思うばかりだ。
◇
走り出した足はなかなか止まらなかった。
しかし走ることよりも呼吸をするのが辛くなり、校門を出たところでゆっくりと足を止めた。
「……、──っ……」
荒い呼吸が続く。鼓動が早い。
全力で走ったから当たり前なのだが走る前から鼓動が早く鳴っていたのを知っていた。
顔も火照っている気がして自分の手を頬に当てる。
────びっくりした。
呼吸を整えながら先程の出来事を思い返す。掴まれた腕の感触がまだ残っている。
振りほどけない程強くて。引き寄せられれば抗えない。
(……男の子、なんだな──……)
身体も、力も。明らかに自分と違うことを認識して改めて思い知らされる。いつもより近い距離にどうしていいかわからなかった。
彼の真直ぐな瞳から逃れられないような気がして。まるで金縛りにでもあったような感じがした。
内山が来てくれてよかった。でなければ動く事も出来なかっただろう。
逃げるようにあの場を去ったのは、動揺を悟られたくなかったからだ。だんだんと早く大きく鳴っていく鼓動を。鏡で確認していないからわからないが、おそらく顔も相当赤い。
美都はその場で深呼吸した。
(静まれ心臓──……)
正直なぜあそこまで動揺したのか自分でもよくわからない。ただ何かいつもと雰囲気が違った気がした。
抑々どうしてあんなことになったんだっけと思い返す。
些細な食い違いだった。頼ってもらえないのが悔しくて。ちょうど一刻前に考えていたことを口にしてしまったのだ。
四季は違うと否定していたがその言葉を更に否定してしまった。
(……そりゃ顔も赤くなるはずだ……)
なんて子どもっぽいことを。美都は自分の言動を省みて呆れて肩を落とした。
恥ずかしさと居たたまれなさで帰ろうとしたところ、急に四季に腕を掴まれたのだ。
そういえばその後四季はポツリと何か言っていた気がする。自分も感情的になっていたのでよく覚えていないが。
美都は目を細めて再度先程の状況を脳裏に浮かべた。四季のあんな表情、初めて見た。だから動揺したのだ。
直後にハッと思い出した。
(っていうかわたし、怒ってたんじゃなかったっけ!?)
すっかり動揺して忘れていた。そうだ、自分は怒っていたはずだ。何に対してと言われれば総じて四季の態度によるものだが。それなのに結局彼のペースに持って行かれてしまった。
さしずめ最後のは蛇に睨まれた蛙と言ってよいだろう。言い得て妙だ。自分が蛙か。せめてもう少し可愛い動物になりたかった。
いやそう言う事ではないんだけど、と一人で考えていた所走る際にポケットに入れたままだったスマートフォンが振動したためおもむろに取り出した。
画面に表示される見慣れない名前に瞬間小首を傾げるが、メッセージを開いてようやく差出人がわかった。先程連絡した衣奈だ。
【連絡ありがとう。美都ちゃんの都合の良い日で大丈夫だよ】
とのことだ。衣奈の優しさに心が洗われる。
ひとまずまた帰ってから返事をしよう。そう思って美都はそのまま帰路についた。
少しずつ変化していく。




