距離の探り合い
まだ部室に残って談笑していた部活仲間たちに早々に別れを告げた後、さらに自分を待っていた凛に旅の無事を祈ってから袂を分かつと美都は一人帰路を駆けた。
スポットから出た後は平気そうな顔を見せていた四季だが、攻撃を受けた際は痛みで顔が歪むほどだった。傷が確認できていないだけに、どれほどの威力だったかが計り知れない。
不安な気持ちのまま道を疾走していると、間もなくマンションの近くの曲がり角というところで肩掛け鞄を背負った四季と思しき人影が見えた。
「四季!」
背後からいきなり名前を呼ばれて驚いたのか、瞬間肩を竦ませると立ち止まって美都の方を向いた。
やっとのことで追いついた美都は、足を留め荒い呼吸を整えるため膝に手を当てる。
走ってきたことに少し呆れ気味な顔で美都の動向を待っていた四季だが、彼女の息が整う前に彼の方から口を開いた。
「高階とは話せたのか」
「え?う、うん……」
頭上からする声に応じるため顔を上げた。やはり四季は去り際に高階の姿を確認していたようだ。何かを言いかけようとして止めたのはそれが原因か。気を利かせてくれたのだろうか。
四季は美都の反応を確認するとまた何事もなかったかのように歩き出した。
「じゃなくって!」
「いっ……! お前は、また──……!」
「あ、ごめん……!」
歩を進めようとする四季の鞄の持ち手を後ろから掴む。驚きと痛みからか少し顔色を悪くしながら四季が美都を窘めた。
ぱっと手を離し互いに姿勢を整えると、美都が四季の様子を見ながら呟いた。
「やっぱり、痛いよね……。ごめん……」
言いながら顔を俯かせる。明確な言葉にはしていないが、深手だったに違いない。それでも平静を装おうとするのは気を遣ってくれているからなのか。
明らかに覇気のない美都を見て四季はふっと息を吐いた。
「そりゃ痛いか痛くないかって言われれば痛いけど、あれはお前のせいじゃないだろ?」
「そう……かもしれないけど……──でも、怪我……」
四季からのフォローが入っても尚落ち込んで煮え切らない表情をする美都に、彼は再び息を吐き項垂れたままの頭にコツンと握った手の甲を置いた。
「!」
「なんか変な責任感じてるなら、食事当番を代わってくれるくらいでいい」
「それはもちろんだけど──……!」
それだけ言うと四季は再び歩き出した。今度は美都も引き留めることはせず彼の後に続く。マンションの近くなので話すなら家に向かいながらの道中でも問題なかった。
四季はお前のせいじゃないという雰囲気を醸し出しているが、対象者を抱えていた自分を庇ったことになるのでどうしても責任を感じざるを得ない。
「怪我……どれくらいなの?」
「見てないからなんとも。皮がめくれてそうな気はする」
半歩前を歩く四季に様子を窺うと想像を絶する答えが返ってきて美都は青ざめる。言葉を聞くだけでも痛そうなのにしれっと平然と歩けているのは、やはり気を遣ってくれているためだろうか。
答えてからまずいと思ったのか半ば慌てて言葉が付け足された。
「練習してても同じくらいの怪我することもあるだろ」
「でも! だって四季明日試合だって……!」
「公式じゃないだけまだいい」
部活後に和真と会話したことで、サッカー部が練習試合だということは認識済だった。たとえ練習試合と言えど、残り少ない3年生の部活動だ。その期間中の一つの試合というものは貴重なはずだ。それは選手として自分もよくわかっている。怪我のせいでプレーに影響が出る可能性があることも。
四季がマンション入り口の鍵を解除するのを朧げに見ながら、美都は自分に出来ることを模索する。
恐らくあまりつついてもこれ以上は鬱陶しく思われてしまいそうだ。エレベータに向かいながら頭をフル回転させる。
「ご飯頑張って作る……」
「……パスタじゃないやつな」
「うん。それから……あとでちゃんと傷見せて」
「薬でも塗ってくれるのか?」
「うん。あと包帯も」
「……真に受けるなよ。大丈夫だって」
考えたことをそのまま言葉にして呟いていたら律儀にも四季はちゃんと返答してくれた。後半は冗談で返したつもりだったのか美都の本気を垣間見て逆に一瞬怯んだ姿が珍しく拝めた。
そんな会話を繰り広げながらエレベータを待っていると背後から馴染みのある声が耳に届く。振り返ると弥生と那茅の姿が見え、幼子の方は勢いよくこちらに駆けてきていた。
美都はとっさにまずいと思い、屈んで自分の方へ誘導した。
「なっちゃんストップ! 四季お兄ちゃん今怪我してるからお手柔らかにね」
「かに?」
怪我をしている四季に那茅の突撃は多少なりとも響くだろう。
那茅を抱き留め経緯を説明したが、難しい言葉を使ってしまったがために少女には理解できていないようで小首を傾げていた。
遅れて弥生が歩いてきて美都の説明を聞きながら心配そうに四季に訊ねる。
「あらそうなの? 後で瑛久を遣りましょうか?」
弥生の言葉に2人して目を丸くした。そう言えばこんなに身近に医療従事者がいたのだった。灯台もと暗しだった。
「助かります」
「……わたしには大丈夫だって言ったのに」
「プロと素人は違うだろうが」
四季のあっさりとした診療依頼に横目で少しだけ不服そうに呟くと、至極真っ当な意見を返された。
那茅から身体を離し立ち上がると、到着したエレベータに4人で乗り込む。
公園で遊んでいたところ四季と美都の姿を見つけて駆けてきてくれたのだそうだ。
「でも怪我って何かあったの? 部活の練習中?」
弥生にそう問われて思わず顔を見合わせる。
スポットでの出来事をどう話そうかと言った風だ。何から説明すべきか決めあぐねていたところ四季が口を開いた。
「弥生さんはスポットの中でキツネ面の女に会ったことありますか?」
「キツネ面……? いいえ。記憶にないわ」
彼女の回答を聞いて、思わず肩を落とす。ということは弥生たちの代では現れなかった人物であることに間違いない。彼女たちが知り得ない全くの新情報ということだ。
「宿り魔と戦ってたら急に現れて、襲われました」
「!? そのキツネ面の子に?」
正しくは、と思わず訂正する。自分が対象者となった少女を介抱して動けなかったところを攻撃され、四季に庇ってもらったのだ。そのときに受けた傷である事を説明した。
弥生は難しい顔をして顎に手を置いた。美都がキツネ面の少女の特徴を付け加える。
「あの子……、黒い羽織の下にうちの制服を着てた」
「在校生か……もしくは卒業生、かしら」
「それってやっぱり人間ってこと?」
不安な面持ちで弥生の呟きに訊きかえす。
確かに菫と話したとき対するは“人間に憑いた宿り魔”だと言っていた。しかし彼女からは宿り魔の気配がしなかった。もし生身の人間であったとしたら納得は出来るが、実際はそうは思いたくない。
なぜならいずれ対峙するときに剣を向けなくてはならなくなるかもしれないのだ。
「実体はあったんでしょう?」
「暗くて少し距離はありましたが、幽霊ではないようでした」
「なら、人間でしょうね」
限りなく人間の線が濃厚だと見て、顔を伏せる。すると、美都の前にいた那茅が不思議そうに見上げてきた。会話についていけずきょとんとしている。心配させないように微笑んで幼子の頭を撫でた。
ちょうどエレベータが目的の階に止まり、那茅を先頭にそれぞれドアを出る。四季と弥生の会話もそぞろに、頭の中で考えを巡らせる。
人間に憑いた宿り魔。この言葉の意味について、菫に訊けないままだった。あのとき菫は突然の来訪者を、人間と似て非なるものという表現を用いていた。あれはどういう意味なのか。彼女はどういう意味で言ったのだろう。
ぐるぐると考えているとあっという間にそれぞれの家の扉の前まで来た。
「それじゃあ瑛久に伝えておくわね」
「ありがとうございます、お願いします」
四季と弥生は、瑛久のことについて話をしていたようだ。どうやらあとで傷を診にきてくれるらしい。
美都も弥生と那茅に手を振ると、2人はそのまま自宅に入っていった。
家の鍵を手に取って、開錠しながら尚も考える。
キツネ面の少女が言っていた『あなたたちの好きなようにさせないわ。これからもね』という言葉が脳裏を過った。
あれは確実に相対する者の言葉だ。今後、退魔のたびに少女が介入してくるのだろうか。在校生にしろ卒業生にしろ自分とそう歳も変わらない少女。
「──あの子も鍵を狙っているのかな……」
扉を開けながら心の声がポツリと漏れた瞬間、四季が怪訝そうな顔でこちらを見ているのに気付く。
「……も、ってなんだ」
「え?」
「まるで他にもいるみたいな言い方だな」
そう言えば彼に伝えそびれていたことを思い出した。
美都は彼に先に入るよう促しながら視線を上に向けて考える。
「いる……んだと思う」
四季に続き自身も玄関に入る。彼が靴を脱ぐのを待っている間、美都は扉に鍵をかけた。
隠しているわけでもないので以前あったことを話そうと振り向く。そしてそれは玄関に向かって律儀にも靴を揃えた四季が立ち上がるのと同時だった。
「──っ……!」
「四季!」
屈んだせいで背中に負荷がかかったのか、四季が顔を歪ませるようにしてよろめいた。
咄嗟に彼の身体を前から支える。四季は体勢を崩しながらもしっかりと壁に片手をついて、全体重が美都に乗らないようにしていた。
「やっぱり痛いんじゃない……!」
「……擦れただけだ」
「やせ我慢して……」
「うるさい。それより今の話は──……」
「もう! とにかくソファーに行くのが先!」
美都の身体で四季を支え続けるには限界がある。
今まで平静を装ってきたのが一気に崩れたことの気恥ずかしさからか、互いにいつもより気を遣うことなく話せている気がする。
美都はまず第一に彼の身体のことを考え、尚もしっかり支えながら自身の靴を脱いだ。こういうとき脱ぎやすいローファーで良かったなと感じる。
四季は大きく息を吐くと体勢を整えて美都の支えを解いた。
「平気? 歩ける?」
「歩けるよ。この距離だし」
そう言うと四季はくるりと背を向けリビングへ歩を進めた。平気と言う割には先程の痛みを引きずっているようでいつもよりも芯がなさそうに見えた。
後ろから心配そうに彼の後をついて行く。
たどり着いたリビングの床に鞄を雑然と置くと、四季はそのままソファーに俯せに倒れ込んだ。
美都はそのままキッチンに直行し、コップに浄水を注ぐとリビングのテーブルまで持って行った。
「はい、お水」
「……さっきの話」
「話すってば。先に着替えてくるから待ってて」
項垂れながらこちらを見る四季に対し、半ば強制的に水分を取らせる。
その間に美都は一旦自室に戻り制服を脱いで部屋着に着替える。そして再びリビングに戻った。
今まで張っていた緊張の糸が切れたかのように四季はソファーに身を預けていた。やはり相当我慢していたのだろう。あれほど気の緩んでいる彼は珍しい。痛いというと自分が責任を感じると思って言わない様にしていたのかもしれない。
はたと思い出して彼の元に駆け寄った。
「……なに?」
「あの……庇ってくれてありがとう」
「──どういたしまして」
傍にきた美都を横目で捉えた四季に、彼女は先程庇ってくれたお礼を伝える。
怪我をさせてしまった申し訳なさで謝ってばかりいたがお礼をしていないことに気付いたのだ。一瞬面食らったようだったが、四季もそれを素直に受け取った。
なんだかんだ気を遣ってくれているところを見ると、良く思われていないかもというのは杞憂なのかもしれない。そう思い直して立ち上がった。
「ご飯作りながら話すね。実は守護者になった日なんだけど──……」
キッチンに向かいながら、あの夜のことを回想しながら話す。
凛を送ったあと立ち寄った教会で菫と話をしていたときのこと。突然の来訪者に対して彼女が強い言葉を使っていたこと。そして“人間に憑いた宿り魔”という言葉の意味。
かいつまんで要点を話すと四季は尚も項垂れたまま息を吐いた。
「人間に憑いた宿り魔──……あのキツネ面もそういうことか」
「どういうこと?」
合点がいったような四季の呟きに思わず美都が問いかける。
「宿り魔が憑くのは無機物だけじゃないってことだ」
端的な説明すぎて理解が追い付かず小首を傾げた。
反応がなかったことでその気配を察したのか四季は更に言葉を付け足した。
「キツネ面にしろその来訪者にしろ、そのどちらの人間にも直接宿り魔が憑いている……ってことだろうな」
「──……! そんなこと有り得るの?」
「有り得なくはないだろうな。俺たちが勝手に無機物に憑くものだと思い込んでるだけだから。ただ問題は──……その人間の意志があるかどうかだ」
四季が考えられる疑問を言いにくそうに口にした。
彼は頭の回転が速い。自分より1歩も2歩も先の事を考えている。
ようやく先程のことが咀嚼出来たかと思えばまた新しい疑問を頭で考えねばならない。うーんと唸っていると再び四季が助け舟を出してくれた。
「ただ単に憑いた宿り魔に操られているだけって言うならまだいい。それを祓えば話は終わる。だけど厄介なのは、もしそこに『憑かれた人間の意志』が関与しているなら、という話だ」
「……関与してたらどうなるの?」
美都の問いにいつもはすぐに回答する四季がおもむろに口を噤んだ。どう説明すべきか悩んでいる間なのだろうか。
一呼吸のち、考えがまとまったのか再び言葉を繋げ始めた。
「2パターン考えられる。1つは宿り魔に憑かれたことによって意志自体がそっちよりに持って行かれている。だとしたらこれはさっき説明したものと一緒だ。祓えば正気に戻るだろう。もう1つは、自らの意志で宿り魔を動かしている場合だ」
「自分の、意志で……」
「人間の意志程厄介なものはない。自覚がある分話が出来てしまうんだ。後者の場合、その人間は自分がしていることを理解している。理解していながらその行為に及んでいるということだな……」
顔はよく見えないが、四季の言葉の端々から苦々しさが伝わってきた。
今の話を自分なりに考える。しかしどう考えたところで良い話には落ち着かない。
「……それって、自分がやっていることが誰かを苦しめているのを知っていながら続けている……ってことだよね?」
あまり口に出したくはなかった。それが現実味を帯びてしまいそうだからだ。
出来るなら四季に否定してもらいたかったのだが、彼はその通りと言わんばかりかさらに自分の解釈を添えて美都の言葉に付け足した。
「そうだろうな。この世の万人が善人なわけじゃない。性善説なんてものはおとぎ話だ。目的の為なら犠牲も厭わないって奴なんだろ」
四季は背中の痛みが引いたのか、言いながら身体を起こしソファーにもたれかかった。
彼の背中を一瞬見た後、自分の手元に目を落とす。思わず調理をしていた手を止めた。続けざま、今度は彼が静かに美都に問う。
「……たとえばキツネ面がそうだった場合、お前はあいつに剣を向けられるのか?」
美都はその問いにすぐに答えることが出来ず口を噤んだ。
核心をつかれてしまった。もし宿り魔であったなら迷わず切っ先を向けなければならない。
だが、その実体が人間ならば? 宿り魔にしか通じない剣だとして、自分は人間にその剣を向ける事は出来るのだろうか。
四季は躊躇うことなく銃口を向けていた。恐らく彼は既に割り切っているのだ。
しかしもし自分がその立場になった場合、果たして同じ事が出来るのだろうか。
「わたしは──……」
自分はただの人間で。そんな自分が、同じ人間に剣を向けることが赦されるのか。
どんな状況であれ、自分が人を傷つける理由などあってはならない。ずっとそう思っている。だからどれだけ反芻しても正しい答えが解らない。
美都は眉間にしわを寄せたまま、小さくポツリと呟いた。
「──……難しいことは、わからないよ……」
美都の回答を聞くため座りながらも半分顔を彼女の方に傾けていた四季は、再び正面を見ると呆れ気味に息を吐いた。
彼の望んだ回答でない事は解っていたが、自分の中ですら答えが出ていないのだ。そう簡単に口にすることは出来ない。
するとそのとき静まった空気を切り裂くようにインターフォンが鳴り響いた。同時にその音に反応すると、ちょうど手を留め立っていた美都がいち早くモニターに駆けつける。小さいモニターに映った人物を確認するとそのまま玄関まで走って鍵を開けた。
「やあ、美都ちゃんこんばんは」
扉を開くと、瑛久が窺うように立っていた。恐らく弥生に事の顛末を聞いたのだろう。
「瑛久さんこんばんは。お待ちしてました、どうぞ」
そのまま瑛久を迎え入れ、リビングまで案内する。とはいっても1本道である上に櫻家と間取りもそう変わらないのでただ先を歩くだけだ。
リビングに到着すると四季が座っているソファーの方へ手を向けた。
「よ、四季。具合はどうだ?」
「瑛久さんわざわざすみません」
四季と瑛久のやり取りを耳にしながら、美都はキッチンに戻り来客用の茶器を棚から取り出す。
続いて電子ケトルに浄水を注ぎ、急須に茶葉を入れた。
「俺も専門じゃないからあまり期待はするなよ。さて、自分で脱げるか? 脱がしてやるか? それとも脱がしてもらうか?」
「俺で遊ばないでくださいよ……自分で脱ぎます」
キッチンとリビングはそれなりに距離があり、なおかつ水の沸騰する音であまりよく聞こえなかったが、瑛久が何かを言った後呆れ気味に四季が上半身を脱ぎ始めるのが見えた。
学生服、カッターシャツと脱いでいきやがて地肌が垣間見える。
瑛久は自身で携えた治療箱をテーブルに置き手の消毒を終えると、ソファーに片膝をつき四季の背中を真剣に見ながらポツリと呟いた。
「こりゃ痛いだろ。ちょっと触るぞ」
「──って……ぇ……!」
直に傷に触れられたことにより、四季が初めて痛みを口にした。
瑛久は医師らしく背中に出来た傷をまじまじと診る。
その様子をハラハラしながら見つつ、汲んだお茶を瑛久の元へと持って行った。邪魔にならないようリビングテーブルの端に置く。
しばらく後、瑛久は息を吐いて治療箱に手を伸ばした。
「軽い炎症を起こしてるな。風呂は滲みるぞ」
「……そんな気はしてました」
「塗り薬とそれから……ガーゼか。美都ちゃんちょっと」
少しだけ遠目で様子を見ていた美都は、名前を呼ばれ何か手がいるのかと思って小首を傾げながら瑛久の元へ近づいた。
「やれるように見ててくれる? たぶん自分じゃ手が届かない範囲だから」
「! わかりました」
そう言うと瑛久は手際よく、しかし見ている美都にわかりやすいように処置を施していく。
四季は冗談で言った事が事実になってしまい、なんとも複雑そうな雰囲気を醸し出している。
しっかりと瑛久のやり方を凝視していると、手を動かしながら瑛久がおもむろに口に出した。
「しかしまあ、そのキツネ面の女ってのは容赦ないな。美都ちゃんに当たらなくてよかったよ」
「でもその代わりに四季が……」
「男の方が頑丈だから大丈夫だよ。なあ四季?」
「──……そっすね」
自分を庇って傷を負ってくれた四季に対して責任を感じざるを得なく恐縮していた美都に、場を和ませるように瑛久から助言が入った。おとなしく処置を受けている四季からも同意の声があがる。
半ば無理矢理言わせたような気がしなくもないがそのすぐ後瑛久が目配せをしてくれた。
その後も雑談を交えながら瑛久は処置を行い、話題は再びキツネ面の少女に戻ってきた。
「美都ちゃんはそのキツネ面の女に心当たりはないの?」
「今のところはなんとも……。顔も見えなかったですし……」
「まあそうか。判ってるのは鍵の守護者と敵対する者ってとこか」
うーんと唸りながら瑛久が一通りの処置を終えた。
治療箱に手を伸ばし、選ぶようにしてテーブルの上に置いていく。
「炎症した箇所は熱を持ちやすいから、これが痛み止めな。食事のあとに飲むこと。で、向こう3日分のガーゼと防水フィルム、それと薬」
「お医者さんってすごい……」
「ははっ、研修医だけどね。俺もまだまだインターン中だよ。悪いけど貼り換えは美都ちゃんにお願いできるかな」
「はい!」
あまりの手際の良さに美都が感嘆の言葉を漏らすと瑛久は笑って謙遜した。専門でないとは言っていたがさすが本職だと思う。
瑛久が治療箱を片づけ始めると四季も再びシャツを着直した。
「四季、お前どうせ明日から部活三昧だろ」
「そうです」
「だと思ったから止めはしないが、安静にしてた方が治りは早いぞ」
「肝に銘じますよ。ありがとうございます瑛久さん」
四季からのお礼を受け取り治療箱を閉じた瑛久は、温くなった茶に手を伸ばした。
瑛久のおかげで四季の顔色もだいぶ良くなった。何より彼は話が上手い。インターン中だと謙遜していたがきっと患者受けする医者になるんだろうなと今からでも予想はつく。
「──しかし、人間に憑いた宿り魔……だっけ? キツネ面の女に宿り魔が憑いてるってことか」
「どう思いますか?」
「四季の言うとおり、なくはないだろうな。問題はそうだとしたらなぜ宿り魔の気配がしないかだ」
先程の処置の間、四季は雑談を交えながらキツネ面の少女についての考察を瑛久に話した。それを受けての回答だ。瑛久の言うとおりそこが疑問でもある。
本来、無機物を憑代にするときは守護者は本能的に宿り魔の気配がわかる。しかし図書室で遭遇した彼女からは全くその気配は感じられなかった。
瑛久は難しい顔で茶器に口をつけながら何かを考えているようだ。
「一番最悪なパターンは彼女自身がただの人間でしかないときだ。宿り魔も憑いていない、な」
「──!」
その言葉に目を見開く。確かにそうだ。宿り魔が憑いている前提の仮定だった。万が一彼女に宿り魔が憑いていなかったらという可能性を排除していたのだ。
瑛久の言うとおり、それが一番最悪なパターンになるだろう。
「宿り魔なら身体のどこかに刻印がある。それを探してみるのも手かもしれない。何にせよまた接触する必要があるけどね」
言ってお茶を飲み干すと茶器を置き、瑛久が立ち上がった。
「ごちそうさま。それじゃ俺は戻るから」
「あ、はい」
「ありがとうございました」
2人の返答を聞くと治療箱を持って勝手知ったるがごとく玄関に向かった。
遅れて美都もついて行き、さらにその後方に四季が続く。
靴を履きながら二人を背に瑛久が言う。
「また何かあったら呼んで。四季、お前は意地張らずにちゃんと手伝ってもらうこと。いいな?」
「……はい」
釘を刺され、苦い顔で四季が返事をする。お医者様の言う事は絶対だ。
瑛久にお礼と就寝の挨拶をして彼が扉から出るのを見送った。
「……だそうなのでお手伝いしますね」
「……」
斜め後ろにいる四季に言葉をかける。
その言葉に再び苦い顔を見せると何か言いたげに目を細めて彼女を見つめ、しばらくして大きく息を吐きリビングへと踵を返した。
「お前、実家帰るんじゃなかったのか」
「そうだ連絡しなきゃ。でも帰るにしても連休後半だから大丈夫だよ」
「……そうですか」
美都の回答を聞くと四季は再び息を吐いた。
逆に今四季に言われるまですっかり忘れていたので思い出させてくれてよかった。円佳と和真に連絡しなければ。
キッチンに戻って再び手を動かし始める。
「明日試合なんでしょ? わたしも部活だし何かあったらすぐ駆けつけるから。むしろ宿り魔が出たら一人でも退魔しに行くし」
「心強いことで。それよりも晩飯はいつできるんだ」
意気込んで言う美都の言葉を受け流すように四季がさらりと心にもなさそうな一言を放つ。
すわりが悪いのか何か話題を変えようとしているようだ。途中で手を留めていた事を知っているからわざとだろう。
手ごたえのない回答に少し膨れながら美都は彼を見た。
「もうすぐ出来るもん」
「パスタじゃないのに早いんだな」
「オムライスだから」
メニューを耳にして鞄を持ち上げようとしていた四季が一瞬硬直する。
その反応に小首を傾げた。
「嫌いだった?」
「いや。ただ……」
「ただ?」
嫌いじゃないという割に言い淀む彼に再び疑問を投げる。
「結局主食なんだなと思って」
その回答にはたと目を瞬かせる。その背景にはパスタとオムライスの画が浮かびそうな程だ。
次の瞬間には少し顔を赤くした美都が抗議を口にした。
「もう! ご飯はご飯だもん! ちゃんとサラダもつけるよ!」
「……明日は俺が作る」
大きな息を吐いて今度こそ脱いだ学生服と鞄を持つと、一言残し部屋へ去っていった。
遠まわしにレパートリーを指摘されて美都も少し考える。
確かに言われてみれば主食メインだ。でも作るのにてっとり早く時間もかからない。
そもそも。中学3年にしてはちゃんと作れる方だと思う。レパートリーは確かに少ないが。いや、四季が料理に拘りがあるのだ。そうに違いない。
美都はキッチンで一人百面相をしながら思考を回転させた。そして思わず息を吐く。
(お休み中、どこかで弥生ちゃんにお料理教えてもらおうかな……)
さすがに自分の中の女子力が可哀想になってきた。おかずメインの食事を教えてもらおうと、一人静かに決意したのだった。
◇
処置を終えてすぐ隣の自宅へと戻ると、扉を開けた瞬間小さい足音がこちらへ向かってくるのがわかった。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
溌剌とした娘の那茅の出迎えに瑛久は顔を綻ばせ、幼子の頭に手を乗せて優しく撫でた。
正式には本日2度目の出迎えになるのだがこの笑顔が見られるのなら何度でも嬉しいものだ。
靴を脱ぐと治療箱を片手に那茅を抱きかかえそのままリビングへ歩く。
「おかえり、ありがとう」
キッチンで手を動かしていた弥生が瑛久に目を留め、礼を伝える。
帰宅するや否や、一息つく暇も無く四季の怪我の様子を見に行ってくれと彼女に頼まれたのだ。何があったのかと訊くとどうやらスポット内で見たことない女に襲われたらしいとのことだった。
耳にしたときは四季がヘマするなんて珍しいと思ったが美都を庇ってと聞いて納得した。
「四季君大丈夫だった?」
「まあ痛そうにしてたけど大丈夫だろ」
怪我の様子を見ていないだけに弥生が心配そうに瑛久に声をかけた。
予想よりは若干酷かったものの、あまりそう言ったことは伝えるべきではないと考慮し当たり障りのない回答をする。
治療箱をリビングテーブルの上に置きながら那茅をその場に下ろすと、会話を聞いていた幼子がおもむろに疑問を口にした。
「しきくんいたいの?」
「那茅も怪我には気を付けるんだぞー」
「うん! きをつける!」
そう言った途端、弥生の元へ駆けていったので一体あのお転婆さはどこから来たのかと思わず苦笑してしまった。ちょうど走り回る時期なので常日頃意識を持ってほしいという意味を込めたのだが、那茅にはまだ理解できなかったようだ。
治療箱を片していると、出来上がった料理の盛り付けをしながら弥生がいつもより明るい声で言葉を発した。
「ね、あの二人どう思う?」
「ったく、おせっかいだなー」
「だって気になるじゃない」
あの二人というのは固有名詞を出さずとも誰のことかわかった。お互い共通して解る二人と言うのは最近では先程会ってきた彼らしかいない。
弥生はその状況を楽しんでいるようだった。
「まあ面白いんじゃないか。噛みあっていないところが」
先程のことを思い出す。
自分のことを庇って怪我をした四季を心配する素直な美都と、そのことについて心配かけまいとして強がる意固地な四季。怪我の様子から見て相当我慢していたようにも思える。
よくあれだけ耐えたものだと感心したが、彼女に気を遣ってのことだったのなら納得は出来る。
その割に美都に対して冷たく接しようとしているのは恐らく今の距離を測りかねているからだろう。
「あの年頃の男の子ってどうしても強がっちゃうのよね。素直になればいいのに」
「プライドとかな、いろいろあるんだよ男にも。特に四季なんて一つ上だし」
配膳された料理を弥生がカウンターにのせていき、それを受け取りながらテーブルへ回す。那茅は弥生から箸を並べるよう依頼されていた。
そうだ、彼らのちぐはぐな所は年齢のせいもあるだろう。四季が一つ上であるにも関わらず同じ学年、加えて同じクラスときた。
彼にとってはやりにくいに違いない。家でも学校でも気が抜けないのだ。恐らく無意識に、一つ上だという自覚から気取ってしまっているのだろう。
そう考えると四季に同情せざるを得ない。
「あの子天然っぽいしな」
「あら、美都ちゃんは天然じゃなくて鈍感なのよ」
距離を測ろうとする四季に対して、美都はただ感情のまま彼に接しているように思える。
だから自然と彼女からの距離が近くなるのだろう。無意識とは恐ろしいものだ。美都は四季に対して普通に接しているように見えるがあれは完全に無自覚なのだと思う。
対して彼は、何かを感じ取りつつある。だがそれに気づかないふりをしていると言った様子か。
一通り配膳を終えて各々席につく。那茅の「いただきます」という元気な合図とともに合掌した後テーブルに並べられた料理に手を付け始めた。
「良い感じだと思うんだけどなー、あの二人」
「自覚したらすぐなんだろうけど、どっちが先に自覚するかだな」
「どっちだと思う?」
先程脳内で考えていたことを再び呼び戻すが答えは明確だった。
「──四季」
「賭けにならないわ」
「賭けようとするなよ。うら若き少年少女だぞ」
こんなところで賭け事にされようとしているなんて思ってもいないだろう。可哀想に。
だが彼らの動向が気になるのは確かだ。弥生とはほぼ同意見で先に自覚した四季がどう出るかだと思っている。
「普通なら女の子の方がこの手の話には敏感なはずなんだけど……いたたまれないわね四季君」
「同情するよ」
「ま、手を出したらただじゃおかないけどね」
四季のことを庇ったかと思えば次の瞬間には針で風船を割る勢いで敵側に回るのだから恐ろしい。
咀嚼しながら苦い顔を浮かべる。
「お前はどっちの味方なんだ」
「美都ちゃんに決まってるでしょ。ねー那茅?」
「あ、ずるいぞ」
まだ物事の判別もままならない幼子を巻き込むとは。
那茅は食べながらきょとんとした顔をしたが次の瞬間にはパァっと表情を明るくさせて答えた。
「うん! みとちゃん!」
「そうよねー」
こうなっては完全に分が悪い。そもそも何も競ってはないのだが。
瑛久は再び苦い顔で息を吐く。
せめて俺くらいはあいつの味方でいてやろう。でないと本当にいたたまれない。不憫だ。
そう考えながら瑛久は目の前でタッグを組む母娘を見て心に誓った。
また長くなってしまった。櫻家の話がちょっと書けてよかったです。




