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日常に潜む影



朝露が太陽の光を受けて輝く。

もうすぐ5月。新緑の季節だ。環境が変わってからもう1ヶ月が経とうとしている。

朝の通学時間、歩いて学校へ向かう途中の季節の変化にも気付くくらいの余裕は出来た。

同居人である向陽四季(こうよう しき)との生活にもようやく慣れてきた。彼の方もようやく級友達と馴染んできたようでクラス内でも会話をすることが増えたように感じる。

わけあって一つ年上である四季はそれ故に最初は敬遠されていたが、美都や和真と親しげに話すところを見てクラス内の雰囲気も変わっていった。

今ではほとんどの生徒が彼の事を呼び捨てにしている。もちろん親しみを込めてだ。当の本人はサッカー部に入部し、残り少ない部活動生活を満喫しているようだ。今日も朝早くから家を出たところをみると朝練だろう。

しかし彼のバイタリティには頭が下がる。

しっかりと食事当番をこなし、授業の予習復習も欠かすことなく、そして守護者の任務も全うする。文武両道を超越しているなあと感心してしまう。

考えながら歩いていると、そよ風が美都(みと)の頬を撫でた。

(わ……)

季節はようやく暖かな時季に移行しようというときだ。心地よい風に心も弾む。

すると少し離れたところから自分の名前を呼ぶ声がすることに気付いた。

いつの間にか学校の近くまで来ていたらしい。声のする方へ思わず駆け出した。

「おはよ、凛」

自分を呼んでいた金髪の少女──夕月凛(ゆづきりん)と朝の挨拶を交わす。

この生活になってからは学校近くで合流することが決まりとなってきた。

「今日は時間通りね」

「そんなにいつも寝坊しないよ」

おどけた様子で凛が言うと美都も苦笑した後すぐにはにかんでそれに返答した。

2人はどちらから言う事も無く自然と学校に向かって歩き出す。

「あっという間に1ヶ月かあ。すぐ中間試験だなあ……」

慌ただしく過ぎていた4月もまもなく終わる。開けた空を見ながら美都がおもむろに呟いた。

世間的にはこのあと長期連休が待ち構えているが受験生にはあってないようなものだ。たださすがに連休中の祝日は校舎は開放していないらしく、市の図書館が混むことは必至だろう。

受験生だという自覚をすると一気に眉間にしわがよる。

「勉強付き合えなくてごめんね」

「ううん。凛の方こそ気を付けて行ってきてね」

凛の家族は毎年この時期になるとフランスへ行く事になっている。

彼女の祖母に会いに行くのだ。気候的にもちょうどいいタイミングらしい。

凛の祖母は生粋のフランス人で、クォーターである凛は祖母の遺伝子が強く出たらしい。隔世遺伝と言うのだそうだ。しばしばその外見に悩まされてきたようだが、さすがに最近は周囲の目も落ち着いてきた。

「わたしが1週間も美都と会えなくて大丈夫かしら…」

「え、そこ?」

他愛ない話をしていると──凛にとっては他愛なくは無いが──まもなく校舎の入り口まで到着した。

ちょうど部活動の朝練が終わるのと同じタイミングだったらしく靴箱付近は生徒で賑わっている。すれ違う友人らと挨拶を交わす何気ない日常風景だ。

上履きに履き替えた後、すぐに出るエントランスも生徒か点在し、廊下では談笑する声が響く。

その一番近くにある教室が凛のクラスである4組だった。

「凛は今日は部活?」

「えぇ。一緒に帰れるかしら」

「タイミング合えばね。わたしのが長引きそうだけど」

4組の教室の前でしばし立ち止まり何気ない会話を交わす。そのあと教室に入る凛を見送って、自身は廊下の一番端の7組に向かうのがいつもの流れだ。

ちょうどその時、廊下でふざけ合っている男子生徒が一人の女子生徒にぶつかった。その衝撃で女子生徒はふらついて美都の方へよろけてきた。

「大丈夫?」

咄嗟に美都は女子生徒の肩を支える。

「ごめんなさい、ありがとう」

謝罪とお礼を言う為に顔を上げた女子生徒を見て、美都は思い出したように声を漏らした。

眼鏡をかけて長い髪を2つのおさげに結んだ女の子。

確か新学期始まってすぐのときだ。凛とすれ違っていたときに伝達役を買って出てくれた少女だった。

少女の方も美都だとわかると表情を明るくした。

「この間はありがとう。えっと……」

平野衣奈(ひらのえな)よ。どういたしまして、月代(つきしろ)さん」

すっかり名前を訊くことを失念し言い澱んだ自分に対して、衣奈と名乗る少女は笑顔で名を呼んでくれた。

同い年の、しかも女の子に敬称を付けられるのはなんだかむず痒い。

四季の気持ちがなんとなく解った気がする。

「衣奈ちゃん、でいい? 私も名前で呼んでほしいな」

そう言うと少女は快く承諾し、すぐさま名前で呼び返してくれた。

その様を見ていた凛は不思議そうに二人の間に入った。

「2人とも知り合いだったの?」

「前に一度ね。そのときは用件だけになっちゃってたけど……よかった、改めて話せて」

美都の言葉に衣奈もにこりと微笑んだ。

美都たちの中学校は複数の小学校の生徒が持ち上がりで通っている。クラスも7組まであるため卒業まで顔と名前が一致しない生徒も出てくる程だ。

衣奈とは小学校が違う。それに同じクラスになったことがなかったためこれまで接点がなかった。

「わたしも美都ちゃんと話してみたいなって思ってたの。凛ちゃんとも仲良いし、ほら美都ちゃん有名人だから」

「え? なん……あ、あー……」

有名人と言われた瞬間に疑問符が付きそうになったがすぐさまなぜなのか理解し、その内容に思わず苦虫を噛み潰したような顔をした。

おそらく四季とのことだろう。

新学期早々四季が自分と親戚だと触れたことはクラス内どころか学年中、引いては学校中の話題になったようだった。

たかたが血縁関係でそこまで騒ぐ理由は、おそらく四季だからなのだろう。

昨年の冬に転校してきた彼は年が一つ上なのもあるが、その端麗な容姿から注目の的となっていた。しかし寡黙な雰囲気から誰も積極的に話しかけようとはせず、そのまま春休みに入ったのだ。

美都が四季と会ったのはその間だ。紆余曲折を経て同じ家で住むこととなった。もちろんそのことは公にはしていないが、守護者として動く際に親戚という体の方が動きやすいのではないか、という弥生の助言によりお互いの共通認識として周囲に通すことにした。

なのでもちろん四季との間に血縁関係は無い。それを早々にばらしたのは、後々ばれて噂になるよりも新学期の慌ただしさに紛れさせた方が良いとの彼の判断だった。

実際ひと月経った今、クラスメイトは慣れてきたようで茶化されることも減りつつある。茶化されたところで何も出てはこないが。

そんなことで有名になりたくない、否、そうでなくとも心穏やかに暮らしたいと思いを巡らせていた美都が顔をしかめていると衣奈がクスクスと笑った。

「でもその前から話してみたいなとは思ってたの。なんだか目を惹くなって」

「そ、そうかな……」

思いがけない言葉に少しだけ動揺して顔を赤らめていると、隣で凛が大きく頷いた。

凛は身内贔屓のところも少なからずあるだろう。

「だからこれからも仲良くしてくれると嬉しいな」

「もちろん。よろしくね衣奈ちゃん」

優しく微笑む衣奈の言葉に、美都も相応の表情で返した。

まだ彼女のことを知ったばかりだが、新しい友人ができるのはやはり嬉しい。それにクラスが違うとなるとまた新鮮さが増す。凛と同じクラスならば三者間で話す事も増えるかもしれない。

話が一段落すると衣奈は会釈をして自分の席へと戻っていった。

そんな2人の会話を見ながら凛が少しふてくされたように口を挟んだ。

「やっぱり美都は誰とでも仲良くなれるのね」

「いや、誰とでもってわけじゃないと思うけど……」

「だって衣奈ちゃんってすごく警戒心が強い子なのよ」

凛が周囲に気遣うように少しだけ小声になる。その言葉に驚いて「そうなの?」と疑問符を投げる。

初対面のときから決してそのようには見えなかった。むしろ困っている自分に彼女の方から声をかけてくれたのだ。

それを凛に伝えるとむしろその対応に驚いたようだった。

「もちろん私も話すけど、基本一人でいることが多いの。頭の良い子だから普段は予習復習してて声をかけるタイミングが難しいっていうか……。だから美都が普通に話しててびっくりしちゃった」

既に自分の席についてノートを開いている衣奈を再び覗き見る。

確かに真面目そうな子だ。凛の言うように相当頭も良いのだろう。ただ、警戒心が強いという言葉に違和感を覚えた。おとなしそうには見えるが今までの自分との会話を遡って考えてみてもそうは思えない。おそらく自分の空間をつくるのが得意なのだろう。だから周囲が気遣いすぎているだけなのかもしれない。

「お願いしたら、勉強教えてくれるかなあ……」

気さくに話しかけてもらえて嬉しかった。もっと彼女と仲良くなりたいと思うのは必然だ。

ぽつりと呟いた美都の言葉にすかさず凛が反応する。

「勉強だったら私も教えられるわ!」

「だって凛、しばらくいないでしょ」

「……やっぱり、残る」

「こらこら。だめだって」

しばらく日本を離れる凛に、美都がおどけるように切り返すとやはりといった反応が返ってきた。

肩を落として眉を下げる凛を冗談交じりで宥める。

ちょうど朝練が終わった生徒たちがそれぞれの教室へ向かってくるところに春香も現れ、「なに朝からいちゃついてるの?」と声がかかった。

彼女の言葉選びに苦笑しながら否定すると、そのまま凛に別れを告げ春香のあとに続くように自身の教室へ向かった。

予鈴が鳴るまであまり時間がないものの、たった今朝練から帰ってきた生徒たちとあわせて教室内は賑わっていた。

入ってすぐすれ違うクラスメイト達と挨拶を交わし席へ向かった。机に鞄を置くなり、隣の席で慌ただしく着替えていた和真から声がかかる。

「連休、ちょっとくらい戻ってくんだろ」

唐突に出た彼の言葉に目を丸くした。

「全然考えてなかった」

「お前なあ。こっちはおふくろの機嫌がかかってんだぞ」

「そんなこと言われても……」

和真の言うことには、彼の母親である多加江が会いたがっているとのことだった。

目の前に差し掛かろうとしている大型連休。基本的に部活と勉強で大方過ごす予定だった。

言われてみれば新しい生活を始めて1ヶ月、全く常盤家には帰っていない。

自分なりの考えがあってのことだったが確かに今まで定期的に顔を合わせていた円佳はもちろん、彼女の夫である司にも連絡が出来ないままでいた。

そのことを考えると一度帰って現状報告をした方のかもしれないが、自分の中の決め事に逆らうような気がして腑に落ちない感じもする。

だがやはり会いたい気持ちは十分ある。そことどう折り合いをつけるか、うーんと頭を悩ませた。

「とりあえず前向きに検討する」

「政治家かよ。頼むぜまじで」

和真から秀逸な突っ込みが入ったところで予鈴が鳴った。

美都はそのまま自分の席へ座り、教材を鞄から取り出しながらそういえばとふと思った。

四季は連休どうするのだろう。もし自分が一時でも帰るのならば彼に言わなければならないだろう。

もともと何かあったときのためにすぐ助け合いが出来るように、というための同居なのだ。ちらりと横目で窓際の四季を見るが、前の席の男子生徒と談笑している様子だった。

帰ったら訊かなければと頭に刻むと間もなく担任である羽鳥が教室に入り本鈴が響いた。

号令がかかりホームルームが始まる。出席確認や連絡事項を羽鳥から伝えていく。滞りなく話が進み、淡々と進んでいたところに恐らく今日の重要事項が彼女の口から述べられた。

「それから、今日から音楽の先生が変わることとなった。荒木先生が産休に入る代わりに高階先生が担当となる」

瞬間女子生徒らから黄色い歓声があがる。美都はその反応の意味がわからず首を傾げる。

そうなるだろうと予測してか、羽鳥はすぐさま雰囲気をいなした。

「はい静かに。まあ1ヶ月しか経ってないから他のクラスと大差はないだろうけど、高階先生も急なことだからあまり迷惑かけないようにね」

羽鳥の言葉に生徒たちの間延びした声が響く。

美都は繰り返される教師の名前を頭の中で反芻すると、記憶の中でその名前にたどり着いた。

新学期初日、2階の中央階段付近で落とした楽譜を拾い手渡した教師。確かそんな名前で呼ばれていた気がする。だとしたら女子生徒たちの反応も納得できる。元々生徒たち、特に女子生徒の間で評判だった教師だ。

そう考えている間にホームルームが終わると後ろの席に座るあやのがすかさず声をかけてきた。

「美都ラッキーじゃん、音楽委員!」

「ラッキーなの?」

「だって高階先生だよ! いいなー、話す口実があって」

各教科の委員は担当教師の補助をすることが決まりとなっている。

補助と言っても直接的に授業内で何かをするということは無く、次回授業時の持参物の確認が主な委員の仕事だ。それでも毎授業担当教師と話すことになるのだから、一般生徒よりは会話する機会が増えるだろう。そのことを羨んでいるようだ。

美都にとってはあのときのただ1回会話したきりで特段どんな教師なのか知らない。

昨年赴任してきたばかりの男性教諭。

知らずと集まってきたクラスメイト達に印象を訊いてみた。すると。

「めちゃくちゃかっこいい」

「目の保養」

「優しいんだよねー」

と口々に絶賛する声があがる。

肝心の授業内容に関してはわからないがやはり生徒たちの間では好印象のようだ。

早速4限目に音楽の授業がある。突然の担当教師変更に緊張したが杞憂になりそうだ。

同じく傍に来ていた春香が美都に話しかけた。

「そっか。美都は去年先生の授業受けてないんだっけ」

「うん。でも人気なのは充分わかった」

「良い先生だよー。ピアノも上手だし当たり前だけど音楽に関して知識豊富だし」

そうなんだ、と頷いた。春香の言葉からようやく有益な情報を得た。教え方も上手いようだ。

様々な情報からなんだか授業が楽しみになってきたところで春香がおもむろに口を挟んだ。

「それにしても四季といい高階先生といい、美都ってそういうセンサーでもついてるの?」

「どんなセンサーなの……」

2人に共通していることを考えると春香の言わんとしていることはわかるが、なんとも言えず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「冗談よ。そう言えば美都ってまだ探偵の真似事してる?」

「? 何のこと?」

「ほら、前にバスケ部の人数訊いてきたでしょ」

そう春香に言われて記憶を辿る。はた、と思い出した。

確かに訊いていた。ちょうど美都が守護者の力を得る前だ。あの時は春香、あやのと立て続けにバスケ部の生徒が宿り魔に狙われたため、それとなく探りを入れたのだ。もしかしたら共通項が見つかるかもしれないと思い訊ねたものだったが、次に襲われたのが凛だったため『バスケ部』という共通事項は崩れた。

彼女は美都が何気なく訊いたことを覚えていたのだ。さすがに記憶力が良い。

「もう大丈夫。ありがとね」

「どういたしまして。結局何だったの?」

「え、えーと……部員の数によってクラス分けって決まるのかなあ……って」

苦し紛れの言い訳を探す。さすがに真実を言う事は出来ない。

春香は美都のさもあらんといった回答を聞いて納得したように頷いた。

実際その問題については解決していない。

昨日も宿り魔の襲撃があった。襲われたのはバレー部の女子生徒。面識はあるが特別仲がいいというわけではなかった。いよいよ法則がわからなくなってきたところだ。

宿り魔が出現すれば気配でわかるようになった。指輪も反応する。だがそれがどこまでの範囲まで通じるのかは不明だ。

ようやくまともに戦えるようにはなってきたものの、対象者の保護については後手に回っている。こればっかりは仕方がないと四季も弥生も言っていたがなんとかならないものかと頭を悩ませてしまう。

「眉間にしわー」

「……ありがと」

相当難しい顔をしていたようだ。春香に眉間をぐりぐりとほぐされた。

新しい生活には慣れてきたものの、考えることは山積みだ。





案の定、4限目は騒がしくなった。主に女子生徒からの歓声で、だ。

「今日から皆さんの音楽を担当することになりました、高階律(たかしなりつ)です。急な変更となりましたが、よろしくお願いします」

そう簡潔に自己紹介を済ますと、彼はゆっくり丁寧にお辞儀をした。

一つ一つの所作が洗練されている。容姿だけでなくその動きの美しさに見惚れてしまう。

爪は短く切られており、清潔感がある。そう言ったこまごまとしたところも目を惹く理由の一つなのだろう。

生徒たちからも簡単に自己紹介をすることとなった。基本的には名前だけだ。

高階は名簿を見ながら顔と名前を確認していく。女子生徒たちは落ち着かない様子でいつもよりも溌剌とした声で名乗っていった。

当然美都にも順番が回ってきて前の女子生徒が着席するのを確認して立ち上がり名前を言う。

名乗りはじめのときに名簿を見ていたため気付かなかったのか、改めて美都の顔を確認すると高階は一瞬何かを思ったように目を見開いてそれから間もなくニコリと微笑んだ。

(わ……)

春の陽射しのような温かい笑みに思わず顔を赤らめる。

確かに同級生が騒ぐのも無理はない。ほぼ初対面に近い自分でも心を掴まれてしまいそうだ。

その上授業の質も悪くなく、それまで面白く感じていなかった男子生徒をも納得させる程だった。

授業が終わるとあっという間に女子生徒に取り囲まれ質問攻めにあっていた。そう言う姿を見ると別に委員と言う名の口実もいらない気がするなあと、波が引くまで遠目から見ることにした。

零れてきた内容を整理すると、歳は26、昨年新任でこの第一中学に来たらしい。大学ではピアノを専攻していたが特にピアニストを目指していたというわけではないとのことだ。

次の授業が無い4限目ということでしばらく待つな、と確信して他の生徒より1歩引いて成り行きを見守った。ようやく落ち着いた頃、委員として挨拶に向かうことが出来そうだと見て彼の元へ向かう。

もう一人の音楽委員の生徒は給食当番のため早めに教室に戻らねばならず、やむを得ず美都ひとりとなった。

グランドピアノの横に立っている高階と対面する。

「このクラスの音楽委員です。よろしくお願いします」

「お待たせしてすみません。君は……あのとき楽譜を拾ってくれた子、ですよね」

「! はい、そうです」

「その節はありがとうございました。えっと……月代さんですね。よろしくお願いします」

あんな一瞬のことを憶えていてくれたのかと感心する。

何せ1ヶ月程前のことだ。何百人といる生徒の顔と名前を一致させるのだけでも大変だろうに、あの数秒のことを記憶しているとは思わなかったのだ。

自己紹介のとき目を見開いたのはそのことだったのだろう。何にせよ憶えていてもらえて嬉しく感じる。

「次の持ち物は教科書だけで大丈夫ですか?」

担当教師に持参物を訊きクラスに連絡することが委員の役割だ。

美都がそう訊ねると高階は頷いて口を開いた。

「そうですね。それでお願いします」

「わかりました」

そう言って業務的な会釈をし、踵を返した。

椅子に置いたままにしていた教科書と筆記用具を取りに行く間、高階がピアノの前に座ったのが横目で確認出来た。

何か弾くのだろうか。だとしたら邪魔にならないように早く去らなければ。

なるべく音を立てないようにと思いながら扉へ向かう。そのとき。

背後からピアノの旋律が溢れだした。その旋律に足止めを食らう。気付いたときには振り返っていた。

「この曲……! ──っ」

無意識に声が出た。その声の大きさに自分で驚いて慌てて口を塞ぐ。

ピアノの音は8小節もいかないうちに終わった。高階が美都の声に反応して手を止めたからだ。

そして彼もまた驚いたように椅子に座ったまま身体を捻り美都を見た。

「す──……すみません……! 突然大きな声を出して……」

恥ずかしさで顔を赤らめ俯いた。更に演奏の手を止めてしまった申し訳なさで気後れする。

自分でも自身に驚く行動だ。

しかし高階は気分を害するでもなく、ただ先程と同じ空気感で美都へ言葉をかけた。

「いえ、構いませんよ。それよりもこの曲がどうかしたんですか?」

柔らかい口調に安心してそっと顔を上げる。

高階の質問に答えるべく美都はおどおどと口を開いた。

「あ……えっと……。この曲、わたしの家の近くでよく聴くんですけどずっと曲名がわからなくて……」

突き詰めて言えば今はそこには住んでいないのだが、わざわざ話をややこしくしないために敢えてそう言った。

いま高階が演奏していた曲は、あの教会付近でたびたび耳にする曲だったのだ。

美都の回答を聞いてなるほど、といった風に頷いた。

「この曲は、『愛の夢第3番』。作曲者はフランツ・リストです」

「あいの……、ゆめ──」

高階の言葉を小さく復唱する。頭の中で漢字を記した。旋律も美しいが曲名もそれに劣らない。今までずっと耳にしていた曲のタイトルをようやく知ることが出来て感慨深く息を吐いた。

高階は美都の反応を見るとふっと笑んでピアノに向き直った。

「リストだと、他にはこんな曲がありますね」

なんだろうと無意識にピアノの方へ吸い寄せられるように足が動く。

彼がそう言うと、細くて長い指が鍵盤を叩き始めた。

瞬間音に包まれる。少し暗い音がするものの躍動感のある曲だ。

先程聴いた『愛の夢』とは全く雰囲気が違う。

だがこれもどこかで耳にしたことがある曲だと思って記憶を辿る。

「コマーシャルの曲だ……!」

「正解です」

そうだ、よくテレビから流れてくる旋律だ。

思い出せたことが嬉しくなって表情を明るくする。

高階のしなやかな指の動きに感嘆し、それを真横で見つめた。彼はきりの良いところまで弾き終えると鍵盤から指を離し美都の方へ向き直った。

美都は思わず拍手する。

「すごい……!」

「ありがとうございます。この曲は『ラ・カンパネラ』。同じリストでも全然違いますよね」

高階の言う事に同意し頷いた。

確かに『愛の夢』の繊細で穏やかな印象に比べ、今の『ラ・カンパネラ』は重々しく旋律が響くようだった。

同じ作曲家でこんなにも作品の色が違うということに素直に驚いた。

「今の曲のように、クラシック曲は意外と自分たちの周りに溢れているんですよね」

「確かに……! クラシックってもっと難しいんだと思ってました」

「そんなことはありませんよ。普段現代音楽に触れていると気付きにくいですが、親しみやすい曲も多いんです」

言われてみれば、普段から何気なくクラシックを耳にしているのかもしれない。

今まで然程気にしたことは無かったが、急に興味が湧いてきた。

「『愛の夢』は誰もが知っている、という曲ではありませんが耳に馴染みやすいですよね。僕も好きな曲です」

そう言いながらピアノを触る高階の表情は、授業中に比べ更に柔らかくなっていた。

よほど音楽が好きなのだろう。その姿を見るとこちらも自然と顔が綻ぶ。

「他にもお気に入りの曲とかあるんですか?」

「えぇ、もちろん。たくさんありますよ」

「今度よかったら教えてください。もっといろんな曲聞いてみたいです」

ようやく曲名が判った『愛の夢』の他にも、素敵な曲が見つかるかもしれない。それにあの教会の近くではそれ以外の曲も耳にすることがあった。クラシックなのかは判らないがどれも聴き心地の良い曲だ。もちろん、圧倒的に聴くことが多かったのは『愛の夢』だが。

美都がそう言うと高階は一瞬驚いたような表情を見せ、何かを考えるように顎に手を置いた。

何かおかしなことを言っただろうかと美都が小首を傾げると、高階は手を離しまた柔らかく微笑んだ。

「よかったら、クラシック曲のCDをお貸ししましょうか?」

「え、いいんですか!?」

突然の高階からの提案に思わず声を上げる。願ってもないことだ。

「教材という名目なら大丈夫でしょう。何曲か収録されているものがあるので次回お持ちしますね」

「わあ……! ありがとうございます!」

思いも寄らぬ嬉しい出来事に表情が明るくなる。

今まであまり触れてこなかった分野なだけに新たな発見があるかもしれないと思うと楽しみになってきた。

美都の笑顔につられて高階も一層穏やかな笑みを浮かべた。

「君みたいな若い子がクラシックに興味を持ってくれると嬉しいですね」

高階のその言葉に美都は一瞬面食らって苦笑する。

確かに年下の自分が言う事ではないかもしれないが、彼は十分若い。年齢のことを言うならもちろんその通りだし何より見た目も若く見える。26歳であれば美都たちの年齢からすると一回りは違うのだが、それでも彼の外見には少年のような幼さが残っているように感じる。恐らくそれが生徒たちと距離が近い理由だろう。

「すみません、引き留めてしまいましたね」

「いえ! こちらこそ急にすみません。ありがとうございました」

高階がふいに壁の方を見て美都に謝罪する。恐らく壁にかかっている時計を確認したのだろう。授業が終わってしばらく経っている。美都もようやくハッと気が付いた。

お礼を伝え会釈すると同じように彼も返してくれた。

今度こそ扉に手をかけ、退室の挨拶をして音楽室を後にした。

一連の流れで心が温かくなり思わず顔が綻ぶ。軽やかな足取りで教室までの歩を進めているとガラス張りの渡り廊下に差し掛かった辺りで、前から歩いてくる人影に見覚えがあり思わず立ち止まった。

「四季?」

彼のいるところは暗がりではっきりと顔はわからなかったが、声をかけると面食らったように息を吐いた。

とっくにお昼休憩が始まっている時間で、なぜ彼が一人歩いているのか不思議で思わず駆け寄った。

「どうしたの?」

「遅いから見て来いって言われたんだ」

四季にそう言われてはた、と気づいた。

確かに今しがた自分が思った通り、とうに給食の時間が始まっている。なのに一向に帰ってこない自分を誰かが気にしてくれたのだろう。

わざわざ様子を見に来てくれた四季に申し訳なく思いながら謝罪する。

「ご、ごめん……。でもなんで四季が?」

「……なんでだろうな」

そう言って遠い目をした後すぐさま踵を返し、教室の方へと歩き始めた。

クラスメイトの誰かに何かを言われたような反応だ。帰ったらこっそり春香に成り行きを訊いてみようと思い、彼の半歩後ろをついていく。

「なに話してたんだ?」

「えっと、クラシックのこと」

「へぇ、好きなのか?」

意外にも四季の方から話題を振ってくれたことに驚き、ありのままに答える。

そう言えば家ではあまりこういう話をしない。お互いまだ遠慮しているのか、過干渉を避けているのか、自分たちのことについて良く知らないところも多い。

何気ない会話もコミュニケーションとして必要なのかなと思いながら四季の質問に答える。

「あんまり詳しくはないの。そう話したら今度先生がCD貸してくれるって」

「……すごいな、お前って」

小さく相槌を打った後、感心したように呟いた。

何のことかわからず小首を傾げるとその気配に気づいたように、美都が疑問を投げる前に四季が続けた。

「誰とでも気兼ねなく話せるところ。よっぽど人当たりがいいんだな」

「それ凛にも言われたなあ。誰とでもってわけじゃあないんだけど」

ほぼ同意語を今朝凛に言われたことを思い出した。

確かに人見知りはしない方ではあると自負しているが、誰彼かまわず話せるとは思っていない。

うーんと美都が唸ると先を歩く四季が階段を下りながら口を開いた。

「実際お前の周りにはいつも誰かしらいるだろ。それって一種の才能だと思うよ」

「あー……まあそれで八方美人って言われちゃうこともあるんだけどね」

美都はそう言いながら苦い笑みを浮かべる。

直接的に言われたことはないが、やはりそう言う噂は耳に入りやすい。

もちろんその気は無い。しかし周りから見た評価というものはどうしても気になってしまう。普通に接している態度でそうとられてしまうとどう改善していいかもわからず悩んだこともあった。

自分で口にした事に思わず溜息を吐く。

「ほっとけばいいさ、そんな意見」

「え?」

「一部の奴らが好き勝手に言ってるだけだろ。そんなんで自分の良さを潰してどうする」

意気消沈していた美都を気遣ってか、四季がフォローするように自論を述べた。

彼の言葉に伏し目がちにしていた顔を上げる。

「そう言う人間は、大体自分が上手く立ち回れないからって他人を貶すんだ。気にしてたら思うツボだぞ。お前は向こう見ずくらいでちょうどいいんじゃないのか」

「これは……わたし褒められてるの?」

「褒めてるよ。要は気にするなってこと」

向こう見ずという言葉が果たして褒め言葉なのかどうかはさておき、四季は四季なりに励ましてくれているようだ。

元々確かに褒められていた。しかしその事に対してネガティブに持って行った自分を叱咤することもなく、再度気持ちを上げてくれる術にはこちらが感心してしまう。言葉遣いは素っ気なく聞こえるが、彼の主張は至極心に響く。なかなか他人に面と向かって言ってもらう機会がなかったため、彼の言葉は一層すんなり受け入れられた。

彼なりの褒め方が少し可笑しくて美都は顔を和ませた。

「うん、そうする。ありがとう、し──……!」

「!」

お礼を伝え、続けざまに四季の名前を呼ぼうとした瞬間、背筋に違和感が走った。

同じく前を歩いていた四季も何か感じ取ったようでちょうど足を付けた踊り場に立ち止まる。

一間無言の時間が出来たのは、お互いに一瞬この違和感の正体が何かを考えるところがあったからだろう。

スポットが出現すれば双方判る。だが、確実にスポットではない気配を2人は察知したのだ。

きょろきょろと辺りを見渡すが、特に変化は見られない。それに既に気配は消えていた。

「──気づいたか?」

「うん。なんだったんだろう……」

一呼吸置いたのち四季が静かに声を発した。

宿り魔が出現したわけではないようだ。しかし守護者が2人揃って異変を察知したのならそれに近い何かなのかもしれない。明言が出来ないだけに困惑する。

給食の時間の為、廊下に出ている生徒はほとんどいない。一番近くの教室ではいつも通り談笑が聞こえている。

やはり変化は見られない。だからこそ先程の違和感が不気味でもある。

「……前から思ってたけど、やっぱりこの学校は妙だな」

「そうなの?」

難しい顔をして腕を組んでいた四季がやっと口を開いた。

妙とはどういうことなのだろう。2年間通ってきたが特に不思議に思った事はなかった。だが四季は途中でこの学校に来たため、何か違う気配を感じ取ったようだ。

「校舎なのか土地なのかはっきりしたことは解らない。でも明らかに近隣の中学とは違う気が流れてる。それも、あまり良くないものだ」

四季が言うには、この第一中学の周りだけ流れる気が違うのだという。彼はそういった普通の人では勘付かない気に敏感なのだろう。

良くないもの、という言葉が引っ掛かって美都は思わず恐る恐る口に出した。

「それって、その……霊、的な……?」

美都の発言に四季は眉を顰めて息を吐いた。

素っ頓狂な質問をしているのは重々承知だが、得体の知れないものはやはり怖い。

もしそうであるならせめて心構えをするために予め知っておきたいのだ。

「当たらずしも遠からずだな。近いうちに弥生さんたちに訊いてみるか」

意外と質問の意図は外れていなかったらしい。四季が苦い表情を見せたのはさもありなんという意味だったのだろうか。

実は否定を期待していただけに、四季の曖昧な回答で余計に恐怖心が増してしまった。

先程の不気味な気配の正体も解明できていないだけに、本当にそう言う目に見えないものの仕業だったらどうしようと項垂れている美都と反対に、四季は至って冷静に彼女に言葉をかけた。

「とりあえずこの話はまた夜だ。ひとまず教室に戻るぞ」

「はあい……」

明らかに覇気の無い返事をしそのまま歩を進める四季に続く。

宿り魔のときもそうだったが得体の知れないものほど怖いものはない。ようやく宿り魔にも慣れてきたところなのにこれ以上の厄介は勘弁してほしいと心から願う。

我ながら気持ちの浮き沈みが激しいなと思うが、こればかりはどうしようもない。

なんとか楽しいことを考えてまた気分を上げよう。そうだ、連休のことも四季に訊かなければ。

なんにせよこれもまた帰ってからだなと考えたときには教室にたどり着いていた。

そして案の定、クラスメイトからの茶々が入ったのは言うまでもなかった。








というわけで2作目です。初っ端から長くてすみません。1作目で出てきた人たちに名前がつきました。どうぞよしなに。

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