song.2 魔王の城とアリス
「俺は、お前を助けに来た。行くぞ。そろそろ奴らが戻ってくる。」
息が止まる。
助けに来た?私を?
そんなはずはない。私はつい今しがたこの人と出会ったはずだ。
見知らぬ私を助けに来たなんて変だ。
きっと聞き間違えなんだ。
「さっきから何をしている。奴らに捕まりたくないんだろう?」
ダメだ。聞き間違えでも何でもない。
彼は私を本当に助けに来たと言ったのだ。
でも、そうだとしたらどうして?
私はこの森どころか、ローレン伯爵領から出たことすらない。
しかも、私は平民の出身で、カイリ様が出席されるパーティーに付き添ったことが数回あるだけ。
私を助けてくれる人なんているはずがない。
「あの…助けに来たって、どうしてですか…?」
震える声で問いかけると、彼はまた眉を顰めて、あぁ、と手を打った。
そして私を一瞥して、眼鏡の奥の目を細め、微笑んだ。
「それは、お前がアリスだからだよ。哀れな娘。」
また、体が竦んで動かなくなった。
さっきからずっとだ。この人に「アリス」と呼ばれると、体が固まってしまう。
しかも…
(アリスって何……?)
私の名前はリデル。家名こそ失ってしまったが、私にはリデルという名前がある。
アリスなんて名前ではない。
でも彼は、私の名前がアリスであって当然というように呼びかける。
「さあ、そろそろ行かないと本当にまずいぞ。行くのか、行かないのか?」
分からない。分からないけど、でも______
救いがあるなら。生き延びられるのなら。
「私、生きたいです。助けてください……連れて行ってください…!」
エメラルドグリーンの瞳が満足げに細められ、細く長い腕がこちらに伸びてきた。
思わず体がびくりと震えてしまった。
それに気づいた彼は、腕をもとの位置に戻して、片側の手で頬をかいた。
困ったように彼はこちらを見下ろす。
なんだ、怖い人ではないんだ。
少し笑みがこぼれる。
少なくともこの人は私に危害を加えるつもりはないんだ。
そう思ったら気が抜けてしまった。
私が少し笑ったのを見て、彼もまた微笑んでくれた。
そして、ゆっくり私に手を差し伸べて「立てるか」と声をかけてくれた。
私は彼の手を取り、立ち上がろうとした。
その瞬間足に激痛が走った。
森の中を走っていた時に切ってしまったのだろう。
逃げるときは必死で気が付かなかったが今になってじくじくと熱をもって痛む。
でも歩けないなんて言っている暇はない。
彼が言っていたように、追手が戻ってくるのは時間の問題だろう。
痛む足を、息を吐いて耐えながら立ち上がる。
すると、体が急にふわりと浮き上がった。
「きゃ…!」
「無理はするものじゃない。歩けないならば俺が直接連れて行こう。」
彼は私を軽々と抱き上げ、有無を言わさずそのまま歩き始めてしまった。
決して乱暴でも、雑でもなく、ただただ優しく抱き上げられ私は成す術もなく、ただ揺り落とされないように、彼の首に腕を回ししがみついた。
首に回した腕にすこし力をこめると、彼は驚いたように肩を少し揺らし、そうして嬉しそうに笑った。
彼に抱えられたまま進むこと約5分。
その間で彼はこの森のこと、今から向かう場所などを教えてくれた。
その中で分かったことは、彼の名前は「ルカ」と言い、この森に住んでいる「魔王」の従者だということ。
今から向かう場所はその「魔王」のお城だということ。
そして「魔王」は病弱で、最近ずっと眠っているのだということ。
(病弱な…魔王…?)
疑問に思わなくもないが、突っ込んだら負けなのだろう。
喉元まで来ていた言葉を飲み込む。
「さあ、ついたぞ。ここが、魔王の城だ。」
草木をかき分け、辿り着いた先は魔王の城というにはあまりにも、あまりにも美しすぎる純白の城だった。苔やカビなどは何一つなく、ただ真っ白な城壁。
「ここが、お城ですか…?」
「そうだ。予想外だろう?」
嬉しそうに微笑む彼は、そのまま城の扉に近づく。
すると、不思議なことに扉がゆっくりと開いたのだ。
驚く私を横目で見ながら、彼はそのまま歩き続ける。
「なんといっても、魔王の城だからな?」
驚きで目を見開いたまま固まった私を見て、くすりと微笑んだ。
「俺も、初めてここに来たときは驚いたよ。」
昔を懐かしむように目を伏せ、彼はゆっくりと立ち止まった。
顔を上げると、そこには大きく、豪華な装飾が施された扉があった。
初めて来た場所であってもこれはわかる。きっとここは……
「ここが、王の部屋だ、アリス。」
私の足が痛まないように、彼は私をゆっくり地面におろしてくれた。
やっぱり、そうなんだ。
この豪華な扉。その先に魔王はいる。
私はきっと今から魔王に会うのだろう。
(どうしよう。気に食わないとか言って頭から食べられたりとか…!)
恐怖で、自分で自分の体を抱く。
体は震えている。でも、もうここまで来たんだ。大丈夫。
(たとえ魔王に食べられたとしても…)
無罪の罪で裁かれるよりずっとまし。
「アリス、手を貸せ。王のもとに案内しよう。」
ルカ様は、また手を差し伸べてくれた。
その手をつかむと、彼の手の暖かさで震えが収まった。
「…ありがとうございます、ルカ様」
彼の眼を見つめて微笑むと、彼は驚いたように目を見開いて、それから「あぁ」と一言だけ返して、目を逸らしてしまった。
「王。入るぞ。」
その言葉を引き金に、ゆっくりと扉が開いた。
部屋の内側からは眩い光と風があふれ出てきた。
豪華な扉の内側は、魔王の寝室だったようで、部屋の中には天蓋付のベッドが置かれ、ベッドの様子は窺えないがきっとあの中に眠っているのだろう。
彼に手を引かれ、魔王の眠るベッドに近づく。
足の痛みなど消えてしまった。恐怖、畏怖、威圧。
いずれの感情にも当てはまらない、複雑な気持ちでベッドの横に立った。
「王。客人だ。起きられるか。」
ルカ様が声をかけてからしばらく。
なんの応答もない。
まだ眠っているのだろうか。
ルカ様は私を見て、首を横に振った。
「すまないな。王はまだ眠っているようだ。
先にお前の部屋に案内しよう。」
「私の部屋、ですか…!?」
思わず大きな声が出てしまい、口に手をあてる。
ベッドの中の魔王が動く気配はない。
ほっと息を吐く。
それよりも、だ。
今彼は「お前の部屋」と言った。
私は昨日の夜、夜会から逃げ出し今日の昼頃この森にたどり着いたのだ。
出会った時からあった違和感はきっとこれだろう。
彼は、いろいろなことを知っているように動くのだ。
逃げ出した私を助けに来る前に諸々の準備ができていたのでは?
だとしたら、私が婚約破棄、国外追放を宣告されて、この森に逃げ込むことを元から知っていた…?
「アリス?どうした。王に会う前に体を休めていたほうがいいと思うが。」
本当に、彼を信用していいのだろうか。
先ほどまでの彼の言動を思い起こす。
彼の微笑みに嘘があるようには思えない。
怯えた私に気づいて、手を差し伸べてくれたり、今だってそうだ。
私の体を案じてくれている。
たとえ彼が何かを知っていたとしても、それは私に危害を与えることはきっとないだろう。
彼の手をもう一度強く握りなおして、彼の顔を見上げた。
「いえ、大丈夫です。案内してください。ルカ様!」
彼は私を見つめ、安心したように笑い、私の手を引き魔王の部屋から出た。
「ここがお前の部屋になる。あまり広くはないが…」
「そんな!十分すぎます…!」
部屋と言われても、小部屋のようなものを想像していた。
だが案内された部屋を見てみればどうだ。
(こんなの、逃げてきた他人を休ませる部屋じゃない…!)
私一人にはあまりに広すぎる部屋。
そして豪華すぎず、しかし高級感を漂わせる落ち着いた家具。
窓際に置かれた鮮やかで甘い香りのする花瓶に活けられた花々。
(なんて素敵なの…!)
こんな部屋、カイリ様の婚約者として過ごしていた時にも見たことがない。
魔王とはいったい何者なのだろうか。
きらきらと目を輝かせながら、部屋を見渡していたが、ふとルカ様と手を繋いだままだったのを思い出す。
「あ、ごめんなさい、私手をつないだまま…」
私は繋いだ手の力を緩めると、彼は反対に繋ぐ手に力を込めた。
「構わない。落ち着くまで、いつまでだって繋いでいていい。俺は、お前に頼られている気がして好きだよ、アリス。」
空いたほうの手で、彼は私の髪に指を通す。
温かな人の体温を感じて、凝り固まっていた心と体からふ、と力が抜けていく。
そうだ。聞きたかったことがあるんだ。
初めは怖くて質問なんてできなかったけど、今なら聞ける。
「あの、ルカ様。ルカ様はどうして私のこと、アリスって呼ぶんですか?」
最初から疑問だったのだ。
「アリス」
何の疑いもなく、彼は私をアリスと呼んだ。
でも、私はリデルだ。アリスなんて名前はもっていない。
友人にも、家族にもいなかったように思う。
人違いかとも思ったが、あの時は私しかいなかったし、しっかり私の目を見て呼んでいるのだから、間違いなどではないだろう。
ならば、どうして?
ルカ様は少し考え込み、そして口を開いた。
「俺の住んでいたところでは、純粋で無垢な少女をアリスと表現するんだ。」
だからお前をそう呼ぶ。と答えた。
「純粋で、無垢な少女…ですか?」
彼は頷いた。
そんな、理由…?
そうか、そうだったのか…
彼を少しでも疑ってしまった私が嫌になる。
命を助けてくれた人なのに…。
「ごめんなさい、変なことを聞いてしまって。でも私、リデルっていうんです。だから…」
「だが、アリスはアリスだろう?」
彼は当然だとでもいうように、私を真っ直ぐ見つめ首を傾げた。
異論は受け付けないといった感じで、ほのかな威圧感を漂わせている。
あぁ、もうこれは…きっと何を言ってもだめだ…
「もう…アリスでいいです…」
王が目覚めたら声をかけるから、それまで好きなように過ごせ
といい、ルカ様は部屋を出て行った。
結局あれから30分程手を繋いだまま話をしてもらい、お城の構造を私に伝えてからルカ様は仕事に戻って行った。
魔王の従者をしていると言っていたから、きっと仕事がたくさんあるのだろう。
それを押してまで、私の傍にいてくれた。
どうして私にここまでよくしてくれるのだろう。
考えたって分からないことは分かっているのだが、疲れた体は動くことを拒否していて、唯一動く頭だけがぐるぐると考えを巡らせる。
横たわったベッドもふかふかで柔らかく、太陽のいい香りがした。
窓際の花は葉に落ちた水が光を反射してきらきらと輝いている。
(本当に、素敵な部屋…)
ベッドの上で体を起こし、窓から外を眺める。
外には木々しか見えないが、それでも十分に綺麗な景観だ。
もとより自然が好きな私には逆にありがたい。
窓を開けると、爽やかな風が流れ込んでくる。
深く息を吸い込むと、森の香りがする。
ふと、今は亡き母から教えてもらった歌を思い出す。
畑仕事が早く終わった時に、よく近くの森に遊びに行った。
森の中にある小さな湖の近くにシートを敷き、その上に座り母が唄ってくれたのだ。
幼い私を膝の上に座らせ、唄ってくれた歌。
(確か…)
記憶をたどり、母の歌声をなぞる。
優しかった母の声。あぁそうだ。この歌だ。
優しい日の中で、木々のさざめきと水の流れる音。
その中でこの歌が響いたんだ。
こんなに唄えたのって久しぶり…!
豪華で強固な扉の奥。
天蓋に囲まれたベッド。
その中心で眠る「魔王」は、病に伏し眠りについていた。
朝方、従者が開けてくれた窓から優しい風が吹き込み、カーテンを揺らす。
いつも静かな彼の部屋。
そんな部屋に、風と共に歌声が流れ込んできた。
歌声が耳に届いた魔王は、静かに瞳を開き、上体をゆっくりと持ち上げた。
「……歌?」
長く閉じられていた瞳を何度か瞬かせ、ベッドから足を下した。
近くのテーブルに、綺麗に畳まれておかれていたコートに腕を通し、彼は部屋から出て行った。
自らを目覚めさせてくれた、歌姫のもとへ。