蟲毒の鬼
1)
―どうしてこうなったのか
そんなことを考える余裕もなく、望月由利香は走っていた。
陸上部に所属していた由利香は当然足に自信があった。時刻は夕暮れを過ぎており、ここは人どおりのない田圃の畦道だ。街灯すらないこの道は、やがて小川のような農業用水路の上にかかっている橋を渡って住宅地へと続く。そこまで行けば助けを呼べるだろうと由利香は考えていた。
後ろを振りむく勇気はなかった。先ほど急に襲いかかってきた生き物は、間違いなく由利香の後を追っている。獣のうなり声のような声が聞こえる。怖い。怖くて怖くてたまらない。襲われた時に一瞬見た姿は、ただの犬に見えた。だが何か、悪意とか殺意とでもいうのだろうか、背筋が凍るものを由利香は感じた。
ようやく橋の上にたどりついた。後少しで住宅地に着く。これで助かるだろうと由利香は安堵した。勿論速度は緩めていない。
だが、次の瞬間両足に激痛が走った。焼けるような痛みを感じながら由利香は転倒した。すぐに後ろを振り返ると、例の獣がいる。
(あと少しだったのに)
なんとか立ちあがろうとするが、うまく立てない。腰が抜けて立てないとはこういうことかと、どこか冷静に考察している由利香がいた。幸いにも獣は唸り声を立ててその場にいる。なんとか逃げれば住宅地まで逃げ切れるかもしれない、そう思って立ちあがろうするが上手くいかない。由利香は足元をみた。
(なるほど)
由利香の足首から先がなくなっていた。もう失血死するのではないかというほどの量の血が橋の上を覆い隠していた。
(あぁ、これは無理だ)
がくりと由利香は横たわった。恐怖は全て絶望へと変換された。黒い獣は大きく口を開けた。間近でみて気づいたが、片目が複眼だ。その他にもところどころ昆虫のような部位が混じっている。
「あぁ、うぅ」
何とも間抜けな辞世の句であろうか。もうちょっとまともなセリフを言えたらいいんだろうか?次の機会があればもうちょっとまじめなセリフを考えておこう。でも今考えても無意味か。
混乱していた由利香の頭のなかは、そんな無茶苦茶な考えしかなかった。
眼前には黒い獣の大きな牙があった。焼けるような痛みが足から伝わってくる。足と同じように、私の全身はあの獣に食べられてしまうのだろう。肉の一片も残されずに。そうしたら私が死んだこともわからないだろう。そうしたら家族がかわいそうだと、変な考えが浮かび、胸ポケットにあった生徒手帳を放り投げた。これなら被害者が私だとすぐにわかるだろう、と由利香は思った。
その直後、鋭い牙が由利香の腹に差し込まれた。自分の骨がバリバリと砕かれる音を聞きながら、望月由利香は絶命した。
2)
望月由利香が行方不明になり、橋の上におびただしい血液と彼女の生徒手帳が落ちていたと聞いて、俺は歓喜にうち震えた。
成功したんだ。
呪いが成功したのだ。尊い偉業の第一歩は今、間違いなく踏み出された。
この世界は、今腐りきっている。多くの民衆が必死で働いているのに、一部の特殊な階級の奴等ばかりが能能と甘い汁を吸っている。このことに俺は大きく憤りを覚えている。誰かが革命を起こさなくてはならないのだ。
そんな折、俺は物置きで古い書物を見つけた。それは呪いに関する本で、『蟲毒』という呪いについて書かれていた。嘘だと思いつつも、俺はそれを試してみることにした。蟲毒とは、多種多様な蟲を壺に閉じ込めて殺し合わせ、生き残った一体を呪いに使用するというものだ。俺は試してみた。百足や蜘蛛を殺し合わせて、残ったのはオオスズメバチだった。だが、俺は同じ方法を五回繰り返し、生き残った蟲五匹を捕まえておいた野良犬にそれぞれ一匹づつ喰わせ、人が入らない山で殺し合わせた。逃げれないよう、後ろ脚は切断しておいた。
そうして生き残った一体の犬を殺し、その血で地面に呪いたい相手の名前を書けばいい。俺は望月由利香の名前を書いた。
望月は部活の後輩だ。元気のいい快活な娘で、ポニーテールがかわいらしい。俺は密に好意を抱いていた。何故彼女をテストに使ったかといえば、俺が『ヒーロー』になるためだ。革命をおこすものはヒーローであり、ヒーローは大切な人を失わなければならないからだ。彼女というものを自らの手で殺すことによって、俺の覚悟を強固なものにできる。
そして今日、呪いが成功した。彼女は尊い犠牲となった。もし俺の偉業を本か何かにするときは、彼女の名前も載せよう。
彼女の葬式に出て、泣いている人々を見ながら、俺は覚悟をした。
犠牲になった彼女のためにも、この偉業は達成してみせる
3)
私はまた逃げていた。大きな蜘蛛が私を食おうと追いかけている。必死に逃げていたがつかまり、ぐるぐる巻きにされてしまった。蜘蛛が牙を突き刺し、何かが注入された。体がむずかゆい。
蜘蛛は毒と一緒に消化液を注入すると聞いたことがある。つまり、私は今消化されているのだ。蜘蛛がまた食いついてきた。私の中身が吸い出されていく。こうして私は絶命した。
*
私は大きな蜂に襲われていた。刺されたら終わりだ。必至に抵抗しようと、私は牙を振りあげる。だが抵抗空しく、私は蜂に刺され、毒を注入された。そのまま蜂はその顎を使って私を肉団子にしようとする。ごりごりと砕かれていく。痛い。そのまま意識が遠くなる。
*
私は体を二本の棒で挟まれて固定されている。飛んで逃げることができない。そのまま、大きな口の中に入れられた。堅いものでガリガリと砕かれる。そのまま絶命した。
*
犬が目の前にいる。逃げようとするが、私には足がない。そのままかみ殺されてしまう。
*
目の前に男がいる。その男に私は首を切られて殺されてしまった。
*
長い悪夢を見ているようだった。殺されては別の者になり、また殺される。その繰り返しだ。殺される苦しみを繰り返し味わっている。もしかして、私は地獄とやらに墜ちたのだろうかと考え始めていたが、再び目覚めたときようやく私は望月由利香の姿に戻った。
あの橋の下である。用水路の水の上で浮いていた。胸に手をあてると、鼓動が聞こえてこない。やはり私は死んだのだろう。
私はほっとした
私が死んでしまったということよりも、先ほどまでの死の連鎖から抜け出たことの方が重要だった。とりあえず水辺から上がり、誰もいないことを確認してゆっくりと出てみた。
夜空が澄んでいた。橋の上には無数の花があった。ここで改めて、私がもう死んでしまったことを認識した。
(これからどうしよう)
よく分らないが、思ったほどおぼろげな存在ではないみたいだ。このまま人に見つかれば面倒なことになるだろう。とりあえず隠れられる場所を探すことにした。
橋から田圃の方向へ向かっていくと、小高い山がある。その中腹にほら穴があったのでとりあえずそこを当面のねぐらにすることにした。ひんやりとしていて、薄暗い。とりあえずこれからの展望とかを考えるのを後回しにして、腰を落ち着けることにした。
(怖い)
体がわなわなと震えてくる。先ほどまで繰り返された死の連鎖を思い出してしまったからだ。
(どうして…)
どうしてこんなことになったのだろうか?私は何もしていないのに…
無意識のうちに私は足くびを掴んでいた。血液が流れていないからか、ひどく冷たい。食いちぎられた痛みはもうないが、あの血まみれの切断面が思い出される。
怖い怖い
頭の中をドロドロと恐怖が流れていく。その中で、私はふと別の感覚を覚えた。
物凄い違和感を感じる。何か、重要な事を忘れているような気がする。いや、気づいていないような…
恐怖から気を逸らせたので、私はそのことだけを考えた。あの死の連鎖の記憶が思い出された。
最後に私を殺した人間に、見覚えがあった。そのことに気がついた瞬間、頭の中でドロドロになっていたものが像を結んだ。
(あいつ…)
陸上部の先輩だ。私に色目を使っていたあいつだ。なんであいつが…
…奴が
私がなんとか考えを纏めようとしているとき、頭の中に声が響いてきた。不気味な、憎しみに凝り固まったような声だった。
…奴が我らを殺し合わせた
(誰!?)
問うより先に答えがわかった。目の前に現れたのは、あの時私を喰い殺したあの怪物だった。
…我らは殺し合いの末、その魂魄を一つに束ねられた
獣は口を動かしていない。私の頭の中に直接語りかけてきているようだ。
…よって我らは蟲毒の鬼となった。これによって我らは奴に使役され、貴様を喰い殺した
(先輩が…?)
獣が話すことは理解せずとも頭の中に入ってくる。蟲毒という呪いを先輩が私にかけたこと、この獣はその触媒に使われた虫や犬達のなれの果てだということ。
(どうして?)
私は何か、先輩に恨まれるようなことをしただろうか?それも命を取られる程のことを。そう考えていた私の頭に、また映像が浮かんできた。
*
先輩は笑みを浮かべている。これはきっと、犠牲になったどれかが見ていた映像なのだろう。
「よし、これでいい。愛する人を失って初めて人はヒーローになれるんだ。最愛の女性を犠牲にしてでも貫かれる信念こそ、ヒーローに必要な正義だからな」
*
…そんな
そんな馬鹿げた理由で私は殺されたのか!?恐怖に怯えて逃げ惑って、骨を砕かれて殺されて、死んでなお死の連鎖の悪夢に苦しめられたのに?そんな自己満足な理由のために!?
先ほどまで感じていた恐怖を全て塗り替えるほどの憎しみが湧きあがった。それこそこの呪いだけで人が殺せる程の。
だが次の瞬間に、胸に何か冷たいものを注ぎ込まれたような気持ち悪い感触が広がった。
…今、貴様は憎しみに囚われ、我らとの融合を果たした
(え?)
なにをいっているのか、暫く理解できなかった。だが、その後私の体中を悍ましい何かが満たしていくのを感じた。
(つまりあなた達と同類になったってこと)
…その通り、貴様は我らの一員、蟲毒の鬼となった。よって我らと協力し、『蟲毒返し』を行え
蟲毒返しとは、その名の通り術者を呪い殺しかえすことらしい。それには呪われたもの、つまり私の憎悪が不可欠なのだそうだ。私が許すと思えば蟲毒返しは行われないらしい。そんなことがおこる訳ないが。
…奴を殺さねば我らはうかばれぬ
(いいわ。やってあげる)
どの道許す気など毛頭なかった。こんな目にあって許してあげるほど私は聖人ではないし、黙って悲劇のヒロインを演じられる程お人好しでもないからだ。
4)
―どうしてこうなったのだろうか
「油断しましたね先輩。先輩が読んでいた書物には蟲毒返しのことは載っていなかったんですか?」
いよいよ実践という時になって、突然望月由利香の亡霊が現れた。
「どうしたんですか先輩。せっかく会いに来て上げたんですよ。もっと嬉しそうな顔をしたらどうですか?」
望月由利香の顔は凄惨な笑みを浮かべていた。両腕はまるで昆虫のような腕に変貌している。
「抱きしめてあげますよ先輩。こうして欲しかったんでしょ?」
俺はたまらず走り出した。だが、すぐに追いつかれた。
「忘れたんですか先輩、短距離だったら私の方がタイム短いんですよ」
…嫌だ
ここで死ぬわけにはいかない。世界のゴミを一掃するまでは死ねない。ヒーローになるまでは。
「まて望月、俺はこれを使ってやがてヒーローになる。そうすればお前の名前も、偉大なる尊い犠牲として名前が残るんだぞ!?」
「…なるほど」
そういって望月は止まった。どうやら分かってくれたらしい。
「私のよりかはなんぼかマシな辞世の句ですね」
5)
結局私は成仏できなかった。憎悪の穢れが私の魂魄にしみついた所為だ。他の霊魂は無事成仏出来たらしい。
(これでよかったんだろうか)
蟲毒の鬼として過ごしている内に、私は望月由利香だという自覚が徐徐に薄れてきた。人間として暮らしてきた日々も、今や思い出せるのは自分が陸上部だったことくらいだ。初めは怖かったが、今はもう諦めてしまった。どうせ生き返ることなど不可能なのだから、もう役に立つこともないだろう。
(そう、選択の時は過ぎたんだ)
今の私に必要なことは何か、よく分らない。
帰る家も頼るべき家族のことも、今や忘却の彼方である。よいしんば覚えていたとしても、人ならざる身では何もできないが。
今の私からは恐怖も絶望も憎悪も消え失せ、虚脱感だけが残っていた。
(このままではいけない)
今の私に何ができるかは分からないが、それを探すだけの時間は無限にある。この虚脱感を忘れさせてくれるものを求めて、私は塒にしていた洞窟から去った。