願いと誓い
* 真世歴1253年 四元素の月十四日 昼
城塞都市サイメル 宿屋『月砂亭』
――いつのまにか、自身でもよく分からないうちに開いていた眼。
その瞳が映したのは、ランプが下げられた天井とその木目、そして陽光を照り返してそこに映る、風に踊る街路樹の影だった。
「おや、目が覚めたみたいだねえ」
のんびりとしたその男の声が、師のカロンのものだと気付いた瞬間、アルファートは反射的に上体を起こすが、途端、全身を襲った激痛に耐えかねて、すぐさまベッドに逆戻りする。
「あ〜、無茶はいけないよ。相当に身体を酷使したみたいだから、もう少し大人しくしていないとねえ。
ま、医者も特別異常はないって言ってたから、しばらく休めばすぐに元気になるよ……何せ、こんなオジサンと違って若いんだし」
首だけ動かして声をたどり、部屋のドア近くで苦笑を浮かべて立っているカロンの姿を確認したアルファートは、自分が今いるここが、宿屋の一室であることに気付く。
「ここ……宿屋、ですよね。ぼくは……」
「うん、丸二日間ほど昏倒してたのさ。
いやあ、気を失った君をあの地下深くから連れて帰るのは大変だったよー? 何せ、君と違って、こちとらもう若くないオジサンだからねえ」
言って、わざとらしく首や肩を回してみせるカロン。
ようやく意識がはっきりと覚醒してきたアルファートは、そんなカロンの発言に記憶を刺激されたのだろう、先と同じ過ちは犯さないよう、身体の様子を確かめながら上体を起こし、食ってかからんばかりの勢いで早口に質問を浴びせる。
「『悪行』は――! 止められたんですか!」
カロンは、少しばかり目を伏せてうなずいた。
「ああ、見事に弾けて消えたよ。あの厄災が世に出ることは、二度とないだろうさ」
「そう――ですか。良かった」
ほっと安堵の表情を浮かべたかと思えば、次の瞬間には言葉とは裏腹に、つらそうに眉間に皺を寄せて視線を落とすアルファート。
そんな弟子の姿に心中を察したのだろう、カロンはいつもの軽口を叩くでもなく、サイドテーブルの引き出しを開けて何かを取り出すと、毛布の上で固く握られていたアルファートの拳を開き、それをそっと押しつけた。
「君の目が覚めたら、真っ先にそれを渡さないといけないと思っていたんだ」
「これ……は……」
自分の手の中を確かめたアルファートは、そうつぶやいただけで言葉を失う。
……カロンが手渡したのは、中心から綺麗に二つに分かれた、真っ赤なリボンだった。
「君はそれをずっと握り締めていたんだ。絶対に離すまいとするみたいに、ね。
……それじゃ、確かに返したよ」
穏やかにそう告げると、カロンはアルファートの肩をぽんと一度だけ叩き、後は何も言わずに部屋を出る。
そして、ドア越しにかすかに伝わる嗚咽に背を向け、その場を後にした。
*
宿屋を出たカロンは、強い陽射しに目を細めながら、大通りが交わる中央広場へと足を向ける。
そこにはいくつもの露店が出ていたが、そのうちの一つ、装飾品を扱っているらしい小さな店に彼は顔を出した。
主人は愛想良く挨拶するのも一瞬のこと、現れたのがカロンだと気付くと、笑顔は崩さないままに刺すような目を向けて一言、「ご苦労様です」と表面上は丁寧にねぎらう。
話の口火を切ったのはカロンだった。
「恩着せがましいことを言われる前に、先にこちらから礼を言っておくよ。
遺跡の入り口に、サイメル議会が兵を配置しないよう働きかけていたのはあなた方だろう? おかげさまで、トラブルもなく速やかに撤収できたよ。おかげさまでー」
「さて……それについては、単に議会の決定だと聞いていますが」
主人の堂に入ったとぼけ具合に、カロンはそれ以上追求せず、鼻を鳴らすにとどめた。
「ところで剣聖殿。首尾はいかがでした?」
「いかがもいかがわしいもないね。秘宝とやらはそりゃもうひっどい欠陥品だったよ。
テメニア王家の復讐を望んでいた、ミルドアークとアザンティ、両国の当事者を巻き込んで盛大に大暴走さ。どうしようもないからブッ壊した。
ま、もっとも……暴走うんぬん以前に、実物を見たなら、怖い物知らずな帝国のご母堂様でも、廃棄処分即決は間違いないシロモノだったけどねえ」
カロンは大げさに肩をすくめる。
無論、正確には破壊したのはアルファートになるが、そんなことを教えれば、アルファートが帝国に余計な興味をもたれることは間違いない。そしてそれが、彼の今後にとって決して良いものにならないことを、カロンは承知している。
「では……秘宝は失われ、当事者であるユタン・ロエル、オルフェ・イレンス、両人ともに死亡した、と?」
カロンはきっぱりとうなずいた。
「そういうこと。かの帝母様にとっては、さぞつまらない結末だろうが――ね」
* 真世歴1253年 四元素の月十二日 早朝
城塞都市サイメル 地下遺跡深奥
――時間にして二日前。
揺籃の正面――湖のほとりへと駆け戻ったカロンは、そこで、ユタンに肩を貸して立つオルフェと出会った。
右腕を根こそぎ失い、一目で助からないと分かるユタンの様子に、カロンは複雑な表情を見せたが、すぐに気を取り直してオルフェに声をかける。
「オルフェ子爵、聞いていますよ。あなたが、僕の弟子……アルファートを手助けしてやってくれたそうですね」
「! 貴公は確か先程、ユタンが……」
「初めまして……ですかね、一応。カロン・マティウスです」
「カロン――まさか、あの剣聖か? なるほど、道理で……」
何かを納得したように苦笑しながらうなずくオルフェに、カロンはアルファートの所在について尋ねる。揺籃の中にまで追いかけては来なかったか、と。
「彼なら――あの中だ」
「……まさか――」
「違う、食われたというわけではない。飛び込んだのだ、自ら――これを止めると、そう我々に言い置いてな。
理由は分からないが……確かに彼の貌霊だけは何か、『悪行』を相手にできる要素があるようだ。
あれに攻撃されたのを払い除けようとしたユタンは見ての通りのありさまだが、彼だけは、食われることなく見事にそれを退けたのだから」
「……そうですか」
「だが……彼が飛び込んでから、もうそれなりの時間になる。もしかしたら、すでに……」
オルフェが絶望を言葉にしようとした、まさにそのときだった。
なおも膨張を続けていた『悪行』の動きがぴたりと止まった――かと思うと、中心を縦に真っ直ぐ白い閃光がはしる。
そして、そこから割れるようにして、まるで凝り固まった構成真理が一斉にほどけるように……光り輝く細やかな水滴となってあたりに飛び散ったのだ。
一粒一粒は細やかとは言え、もとが相当な大きさであるため、辺りは一瞬豪雨と見紛うばかりに激しく地を打つ水滴に襲われる。
それが治まってのち、水滴の影響でさらに濃さを増した霧の中には、もはやあの禍々しいばかりの虹色の輝きは、どこにも存在しなくなっていた。
「おお……ユタン、見ろ! ユタン!」
オルフェは事態の収束を伝えようと、必死にユタンの名を呼ぶ。
しかし、それに対して答えが返ってくることはもはやなかった。
「……ユタン……」
それでもなお目を見開いていたユタンのまぶたを、そっと閉じてやるオルフェ。
その様子を無言で見守るカロンは、湖のみぎわに人影があることに気付いた。
「――! アルっ!」
急いで駆け寄るカロン。やや遅れて、ユタンを地面に横たえたオルフェもそれに続く。
果たして、波打ち際には、半身を水に浸けて気を失ったアルファートが倒れていた。
――そして、もう一人。
不安に怯える瞳をした黒髪の少女が、そのかたわらに立ち尽くしていた。
「……ピュティア……?」
オルフェは、信じられないといった面持ちでその名をつぶやく。
服装からして、その少女が、彼がアザンティの霊廟から連れ出してきた方のピュティアであることは間違いなかった。
「もう一人の子は……」
カロンはすばやく周囲を見渡すが、他には誰一人、気配すら感じられなかった。
一方、所在なげに視線をさまよわせていたピュティアは、オルフェの姿を認めると、その側に駆け寄り、まるですがるものはこれしかないとばかりに、ぎゅっとその服の裾を掴む。
「そうか……そういうことだったのだな」
その姿にオルフェは、いたわるように少女の頭に優しく手を置き、自嘲気味に笑った。
「――剣聖殿。私は、今になって分かったことがある」
「……分かったこと?」
「私の母は、いまわの際『己に従いなさい』と、そう言い遺された。それは、私の血に託された王家の宿願のことだと、そう信じ込んでいた。
だが……違ったのだな。
母は、私に宿願を託す一方でもう一つ……そのままの意味で、自分の思うままに生きるという選択肢も、残して下さっていたのだ。
――今さらそれに気付くとは、何と愚かしいことだろうか」
「それで……あなたは、これからどうなさるんです?」
アルファートを助け起こしながら問うカロンに、オルフェは少女の頭をなでて答える。
「償いを……しようと思う。
ユタンとともに、私は――いや、私たちテメニア王家は、償いきれないほどの罪を犯したのだろうが……せめて、この娘にだけでも。
我らが歴史に汚名を刻むことになるのを防いでくれた、その少年のためにも……彼が望んだように、この娘に人としての命を与えてやりたい。長い年月を王家の使命に縛り付けられ、決して得ることのなかった、幸せや、生きる喜びといったものを。
……こうして私を頼るのも、かつての刷り込みのせいだろうが……今度こそそれに、真っ当な形で応えてやりたいのだ」
「では……この場で、アルに約束して下さい――」
カロンは、アルファートの握り締めた拳の中に、見覚えのある赤いリボンを見つけていた。
そして――理解した。二つに断ち切られたそれが、どんな意味を持つのかを。
「その子が再びアルと出会った、そのとき――彼とともに、失った姉妹のために涙を流せる心を与えると。
そして、その姉妹の命に、笑顔で応えられるだけの希望を与えると」
「……約束する。残された命すべてを費やしてでも、それらをこの子に与えてみせると。アルファート君、君に――約束しよう」
意識のないアルファートの手を、貴人を相手にそうするようにして取り、オルフェは力強く約束の言葉を口にする。
それを見届けたカロンは、腰のポーチからメモと小さなペンを取り出すと、何かを走り書きしてオルフェに手渡した。
「……これは?」
「反逆者となるあなたはもう国元には帰れない。流浪の身となる他ありませんが、ほとぼりが冷めるまで追っ手から逃れ、身を隠すためにも、先立つものが入り用でしょう?
数日中に、エルカド銀行のその口座に、500万カウントが入金されることになります。それをそっくりそのまま差し上げますから、役立てて下さい」
「……いいのか?」
「この上なく胸クソ悪い悪銭ですから、遠慮なくどうぞ。
――ただし、くれぐれも、この子に約束したことを忘れないで下さい? もし、違えたときには――」
「……ああ。違えはしない――貴公らの恩に報いるためにも、この約束は、絶対に」
オルフェはそっと、少女の手を取った。
「これは、私の……私自身の、宿願でもあるのだから――」
* 真世歴1253年 四元素の月十二日 夜
城塞都市サイメル近郊
――平原を渡る涼やかな夜風を感じながら、ワイズは立ち止まって後方を振り返る。
さえぎるものもない平原のはるか彼方では、サイメルの夜の灯が、つい数時間前まで存続の危機にさらされていたことなどまるで感じさせない、いつも通りの美しさでまたたいていた。
「まったく、忙しい一日だったな」
ワイズの一言に、ケイナは素直にうなずく。
「断罪騎は……あのまま放っておいていいんですか? 監視下におかなくても……?」
「――ケイナ。私はこの現在の世界に関して、その歴史がどういった方向に転がっていこうと、極力傍観者に徹するつもりだ。それは断罪騎についても同じ。
アイオンに対抗するための手段として組み上げたのは確かに我々九賢人だが、逆に言えば我々は組み上げただけで、今、それを宿しているのはあの少年だ。
この先どういった道をたどるのかは、彼の運命に任せることにしようじゃないか」
「運命……ですか」
ケイナは首をかしげる。
これまでもワイズは幾度となくその言葉を使ったが、かつて進化の新たな局面を切り開き、世界の真理を手にするに至った賢人の言葉としては、それはいかにも安っぽく、薄っぺらで、到底ふさわしいものには思えなかった。
しかし、ワイズはそんなケイナの疑問を見透かしたのか、彼にはめずらしく、さも愉快そうに声を上げて笑う。
「私は当初、ここへは、Xナンバーとミカの様子を見に来ただけだった。
それがどうだ、その解放を求める者たちが現れるばかりか、魂まで得たミカのコピーたる擬人形、さらにはそれらが導き出す結果に幕を引くためか、断罪騎まで集まった。
我々もまた要素の一つに過ぎず、そこには、私であっても予測や計算を入り込ませる余地のない何かがあったのだ。
――我々は確かに世界の真理を識った。そして、その世界を統制し、神を名乗る存在すらも創り上げた。
だが……そこまで至ってもなお、その上をいく何かがあるのだ、確かに。いかに陳腐で安易であろうと、私はそれを語る言葉を、『運命』しか知らんよ」
「……マスター」
「そしてそれがあるからこそ、世界が変わろうとも、人の世は面白いのだろう。でなければ権力にも名誉にも興味を持てない私など、とうの昔に生きるのに飽きていただろうな」
ワイズはきびすを返し、ケイナを促した。
「さて……楽しみな要素が増えたところで、次はどこへ向かうとするか」
「マスターの向かう所なら、どこへでも」
一歩遅れて付き従うケイナ。
その頭上越しにもう一度だけサイメルの灯を振り返り、目を覆う帯の下で、ワイズは柔らかく微笑んだ。
(控えめだったお前の弔いとしては、その灯は少し派手に過ぎるかもな。……ミカ)
* 真世歴1253年 四元素の月十四日 昼
城塞都市サイメル 宿屋『月砂亭』
「……っ――」
ぐっと唇を噛み締め、アルファートは首を反らして天井を見上げる。
ひとしきりむせび泣いたことで落ち着いたのだろう、あらためて客観的に自分を見つめ直した彼は、手の中のリボンを持ち上げて、いまだ瞳に残る涙とない交ぜに苦笑した。
――またピュティアを困らせるな、と。
「妹に似てるなんて、兄面していたくせに……逆にどれだけのことを教えられてるんだか」
目もとを少し乱暴にぬぐったアルファートは、ベッドの脇に彼の双剣が立てかけられていることに気付く。
そしてふと思いつき、双剣をベッドの上に引き上げると――。
その柄にそれぞれ、二つに分かれたリボンをぎゅっと結びつけた。
「これで……忘れずにいられるかな。――ピュティア、キミが教えてくれたことを」
確かめるように、結んだリボンをそっとなでる。
「……キミはぼくにお礼を言ってくれた。
でもぼくは、心だけじゃなく、キミの命も救いたかったんだ。
――だから、誓うよ。もっと強くなるって。
今度こそ、誰かを守り、助けられる……悪い運命なんて断ち切る、立派な剣になるって」
自らの傷だらけになった掌を見、そしてぐっと握り締める。
ほんの数日前にカロンに指摘された『剣を振るう理由』が、今ならばはっきりと見える気がした。
本当の強さがどれほどのものかまでは分からなくとも、それを目指そうとする、その理由だけは。
そのとき――。
控えめに数度ドアがノックされたかと思うと、カロンが顔を覗かせた。
「あ、師匠……」
「ふむ。落ち着いたようだねえ」
アルファートの様子を確かめてから、カロンは部屋に足を踏み入れる。
「その……ご心配をおかけしました」
「なに、いいんだよ、それで。
君は大人びたところがあるし、現に大人であろうとしてきたけど、実際はまだ子供なんだ。たった一日だけでも心を通わせた人との別れに――しかもカワイイ女の子との別れに涙して、何が悪いことのあるものか、ってね。
……だけれど――」
ベッドに近寄ったカロンは、手を伸ばしてアルファートの頭をくしゃりとなでた。
「なるほど、子供はきっかけ一つ、ほんの一瞬で大きくなるって話は本当だったねえ。
――ホント、いい顔になったよ」
「ありがとうございます。……でも本当に、ぼくはまだまだ子供ですよ」
悪戯っぽく笑うカロンに釣られて、アルファートも照れたように微苦笑を浮かべていたが、やがてふと、カロンを見上げる。
「そうだ師匠、決めたことがあるんです」
「うん、なんだい?」
「ぼくは……グローレイ姓を名乗るのを止めて、母さんの旧姓を借りようと思います」
「ふむ……また、どうして?」
アルファートはついと視線を移し、陽光に満たされた窓の外を見やった。
「臆病な未練でしかないって気付いたからです。
家を出るのはぼくが決めたことなのに、母さんとの約束、アネットとの繋がり……それらを失うのが怖くて、ぼくは家名にすがり付いていた。
でもそれは、自分を縛り付ける未練の鎖でしかなかった。そんなものが無くてもぼくはアネットの兄であることに変わりはないし、母さんとの約束通り一番近しい存在として、あの子が求めるなら、それに応じて助けてあげることができるはずだって気が付いた――いいえ、教えられたんです。
だからぼくは、もう後ろを振り返らないように、そして正しいかどうかは分からなくても、これが自分の選んだ道だって誇れるように――グローレイの家名を、きっぱりと捨て去ります。自分なりの、ケジメとして」
「……そうか」
カロンはどこか嬉しそうに優しく笑って、また、アルファートの頭を乱暴になでる。
「だから――」
くすぐったそうにしながら、アルファートは言葉を続ける。
「この間師匠が言ったように、ぼくは戦技訓練校に通おうと思います。もっと色んな人と会って、もっと色んなことを学ぶために。
冒険者になって、より多くの世界を見て、より多くのことを識るために。より自分を高めるために。そして――」
ベッドに重ねて置かれた双剣の上に、彼はあらためて、自らの手を重ねた。
「ピュティアへの誓いを、守り続けられるように」
そのとき窓から吹き込んだ、ゆるやかな風に乗り――。
赤いリボンはアルファートの手の上で、楽しげにくるりと踊ってみせた。




