2.師弟の夜
――サイメルに何軒も存在する酒場の一つ『ネミの沈み魚』は、その夜もいつもと変わらない喧騒の中にあった。
しかし、店のホールを切り盛りする二人のウェイトレスは、今が稼ぎ時とばかりに客の追加注文を取りに回るはずが、今夜は手の空いた時間を使ってはカウンターの端で、興味深げに何ごとかを囁き合う。
いや、彼女らだけではない。
普段のこの店の光景を知る常連なども、やはり時おりテーブルに身を乗り出して潜めた声を交わす。その言葉の内容こそそれぞれ違ったが、彼らの好奇心の方向は皆、同じだった。
店の隅、小さなテーブルで向かい合う二人――。
同じような装備に身を固めた、親子と言えなくもなさそうだが、それよりは兄弟と表現する方がしっくりきそうな、そんな二人組の方向だ。
そして、そうした好奇の視線に気付いている当の二人組の幼い方――アルファート・グローレイは、やはり視線に気付いていながらも、まったくの無関心で葡萄酒に口をつける年長者を、恨みがましい目で睨め付ける。
「師匠……ぼく、もう帰っていいですか?」
「おや。今日の夕食はここで、って言ったじゃないか、アル。今さら意見をひるがえすってのは、男子としてどうかと思うなあ」
弟子の不平満々の発言を、カロン・マティウスは能天気な笑顔で受け流す。
「今さらも何も、ぼくはその瞬間から反対してましたけど。……ああもういいです、夕食なら宿に戻って、残った携行食でもかじってますから」
ため息一つ、それじゃあと立ち上がりかける弟子を、カロンはなだめて押しとどめる。
「まあまあ、まあまあまあ。……ほら、前から言ってるだろ? 君ももう十四だ、そろそろ酒場ってものにも慣れておいた方がいいって」
「それは確かに師匠の言う通りですけど……。でも、もう二、三年してからでもいいじゃないですか。……どこの酒場でも、食事が主な昼はまだしも、夜になると毎回『子供が来る場所を間違えるな』みたいな目で見られるから、いい加減うんざりしてるんですけど」
言って、アルは視線はカロンを見据えたまま、注意だけ店内を巡らせる。
案の定、好奇の目はまだあちこちから向けられていた。
「だからこその場慣れなんだけどね。……でもなぁ、僕が言うのも何だけど、二、三年じゃあんまり変わらないと思うよ、アル。君の場合」
微苦笑を浮かべるカロン。
彼自身も、三十代半ばとなった今でも二十代に見られるような童顔だが、そんな彼に負けず劣らず、アルファートもまた容姿は幼い。
さらに、傷一つない非常に端正なその顔立ちと相まって、女装でもすれば違和感がないばかりか、もてはやされるのは間違いないほどのものだ。そして、それがまた人目を引く要因でもある。
「……気にしてるんですけど、ぼくだって」
「いやいや、そこはむしろ得だと考えてもいいんじゃないかな。
――ほら、この店でもそうだけど、ウェイトレスさんには可愛いって評判だし。ムサい野郎どもなんか無視してればいいんだよ。絡んできたところで、酒場の酔っ払い程度、返り討ちにできるだけの技術は叩き込んだワケだしねえ」
「居心地悪いのには変わりないですよ。それにヘタにケンカしたら店を追い出されちゃうかも知れないじゃないですか。あと――」
アルファートはそこまで言って、本当に困ったといわんばかりのため息をついた。
「むしろ、女の人の『可愛い』っていうのが一番つらいんですけど。一応は褒めてくれてるんだから邪険にも出来ないし」
「嬉しくないの?」
「嬉しくないです。男ですよ? ぼく」
「何それ、ゼイタクな悩みだなぁ。……まぁいいさ、とにかくこういうのは慣れるのが一番。僕は師匠兼保護者として、これからも君を夜の酒場に連れ出すから、そのつもりで」
カロンはにっこり笑って、アルファートの前に置かれた空のグラスに、少しだけ葡萄酒を注ぐ。
「……分かりました……ガマンします」
基本的に人当たりが良く、怒ったりすることなどまずない、穏やかな人物であるカロンだが、同時に一度言ったことは冗談でなければ絶対にひるがえさないことをアルファートは心得ている。こうまで言われては、しぶしぶながらも納得するしかなかった。
「さて、それはそれとして、だ。アル」
受け取った葡萄酒に、なめるようにちびりと口を付けたアルファートに、カロンはめずらしくあらたまった口調で「二つほど話がある」と告げた。
「あ、はい――。何でしょうか」
「うん。実は、そろそろ君には僕のもとを離れて、学校にでも通ってもらおうと思ってるんだ。――もちろん、冒険者協会を支援しているような国の主要都市には大体ある、戦技訓練の専門校だよ」
それは予想だにしない話だったのか、アルファートは困惑した様子で、どんと荒っぽくグラスを置いた。
戦技訓練校は、戦技と銘打ってはいるが、戦闘技術のみならず、魔物や遺跡についての知識、薬草の見分け方や扱い方、食料や水の確保など、主に探索・生存技術に重きをおいた授業を行う学校だった。
冒険者や、それを経てどこかの国への仕官を目指そうという者が主な生徒だが、街を離れればどうしても魔物や野盗の危険が付きまとうとあって、ごく普通の商家や職人、さらには貴族の子女にも通う者は少なくない。
「どうしてですか、師匠。冒険者として登録されるには、協会の試験に合格しなければならないだけで、別に訓練校を出る必要はないはずです。
そして、試験に合格するだけの――いえ、それ以上の知識と経験が、師匠といれば身に付くじゃないですか。なのに……!」
「……ん。では言おう。――アル、僕は君を弟子にしてからの数年……特に、こうして一緒に旅をするようになってからの二年の間に、もう教えられることはだいたい教えたんだよ。双剣術に関してはもう免許皆伝と言ってもいい。のみならず、それこそ訓練校に通うだけではそうそうできない経験も多く積んだだろう。
正直言って、君はもう、今すぐ協会に行って試験を受けても合格できるぐらいなんだ」
感情的なアルファートとは対照的に、カロンは落ち着き払って葡萄酒を口に含む。
「そう言ってもらえるのは嬉しいです、でも……! ぼくはもっと師匠から色々なことを学びたいんです。だいたい、双剣術は皆伝だなんて言いますけど、まだ模擬戦で師匠から一本取ったことすらないじゃないですか!」
「あっはっは、そりゃそうさ。技術としては皆伝だけど、それだけで越えられるほど僕も甘くはないよ。ダテにあの罪賢戦争を戦い抜いたわけじゃないさ。
――でもね、そうやって君に僕を越えようという向上心があるからこそ、なんだよ。君にあらためて学校へ通って欲しいと思うのは」
カロンは口もとに微笑を浮かべる。
真意をつかみかねて、アルファートはただ師の次の言葉を待った。
「まあ、何と言うかな。君の剣が、ただその技術のみを追い求めるものなら、僕とともにあるのもいいだろう。……だけど、そうじゃないはずだ。
――気付いてるんだろう? 強くなればなるほど、自分が剣を振るう理由を求めていることに。でも、まだ明確な答えにたどり着いていない。冒険者になると言っていながら、それからどうしたいって目標までかかげられないあたりが、その証拠だよ」
「……それは……」
「だからね、それを見つけるためにも、君はもっと色々な経験をするべきなんだ。訓練校には、君と同じ年頃で、君より技術も経験もずっと未熟だとしても――しかし君より遙かに明確に目標を見据え、研鑽を続ける人間もいるハズだ。
そんな人たちと交わり、互いに練磨しあうことが、君のさらなる成長に繋がると……僕はそう信じているんだよ」
「師匠……」
「それに、君が通うのは君の故郷ジルカ王国は貿易都市ルルノイアにある、王立総合学院だ。――そう、あの大陸有数の訓練校だよ。しかも僕に代わって君の身元を引き受けてくれる教師は、ただの引退冒険者なんかじゃなくて、かつての戦争をともに戦い抜いた僕の戦友だ。……僕の修行より楽だとか、学ぶことが少ないとか考えるのは大きな間違いさ」
「…………」
「まあぶっちゃけて言えば、君もこんなオジサンばかりじゃなく、もっと同年代の若い子たちとたくさん交流した方がいいってことさ。
そう、つまりは青春ってやつだよ青春!……いやあ、僕にはとんと縁のない言葉だったからねえ……せめて君には、って親心がねえ……」
シニカルな笑みを浮かべながら、遠い目をしてカロンは言った――かと思うと、超高速でグラスの葡萄酒をあおり、ダンとテーブルに叩き付ける。……イヤな思い出をそれで粉砕したのかも知れない。
一方アルファートは無言で、ただじっと手の中のグラス、その静かな赤い水面に目を落としていた。
しかしやがて、しぶしぶでも納得したのか、顔を伏せたままうなずいてみせる。
「……分かりました。言いつけに従います」
「うん。――まぁでも、今日明日の話ってわけじゃないからね、詳しいことはまたおいおい相談することにしよう。……で、もう一つの話だけど」
はい、とアルファートは即座に返す。
だがそれに反して、今度はよほど言いにくいことなのか、渋面を作ったカロンはすぐには答えない。
結局口を開いたのは、グラスに注ぎなおした葡萄酒を、ぐいと一気にあおってからだった。
「実は明日、僕は人と会う約束があってね」
「あ、はい。……仕事、ですか?」
「まぁ、そんなところだ。だけど先方の希望で君を同席させることができないんでね、君にはこの店で待っていてほしいんだけど」
「ええっ! ぼ、ぼく一人でここで、ですか? 宿で待機じゃダメなんですかっ?」
あからさまに顔をしかめるアルファートに、カロンはぴしゃりと「ダメだ」と告げた。
「ダメなんですか? どうしてです?」
「ここなら常に人目がある。――安全なんだ」
しぶしぶといった感じで答えるカロンだったが、その小さめの声は、ちょうど何かで盛り上がったらしい酒場の喧騒に掻き消される。
あわててアルファートは聞き返すも、カロンは同じ言葉を繰り返すことなく、ばつが悪そうに頭をかいた。
「あ〜……ともかく! この店で、僕自身が戻るまで待っていること。分かった?」
空のグラスを弟子の眼前に突き付け、ごまかすようにカロンは強く念を押す。その勢いに押されて、アルファートはこくんとうなずいた。
「よろしい。まぁこれも、詳しいことはまた後々――」
「すいませーん、お待たせしましたー!」
カロンの言葉に、元気な声が覆い被さる。
見れば、両手に湯気の上がる皿を持ったウェイトレスが、笑顔とともにやってきていた。
「やあ、やっと来たか。よし、それじゃとにかく腹ごしらえといこう、アル」
「はい! ぼくももうお腹ペコペコで――って。………何ですかコレ」
テーブルに置かれた料理を見たとたん、こんがりと焼けた肉や魚を想像していたアルファートは、大仰に顔をしかめる。
大皿の上で湯気を立てているのは、酒場で一般的に頼むだろうメニューとは、まさに一線を画すものだった。
色とりどりの野菜のソースの合間からカエルのものに似た、しかしよっぽど醜悪で巨大な足がのぞいていたり、オリーブオイルの光沢の中で、からりと揚がった親指大の黒い昆虫が群れ集ったりしている。ほのかに漂う香りも、臭い、というほどではないにしろ、どこかツンとくるようなクセがあった。
「はいこちら、ネミリシュケのテメル野菜ソース和えと、ネミスナカジリの踊り揚げです。どちらもこの辺りでしか採れない食材を使った珍味なんですよ。
――通ですねえ、お客さん!」
アルファートの「何コレ」を、言葉通りの意味に取ったウェイトレスはにこやかに料理名を答えると、「ではごゆっくり」と愛想良くあいさつを残して立ち去っていく。
「いやぁ、やっぱり珍味がいいねえ、酒がすすみそうだよ。……ん、アル?」
「そうですよね……そうでしたね……」
見るからにゲテモノ然とした料理を前に上機嫌なカロン。
反してアルファートは、力なくテーブルに突っ伏していた。
(師匠のこの悪食から逃げられるなら、学校もいいのかも……)




