運命と約束
かつての世界、すでに死んだ世界で。
星をくまなく覆うまでに至った電子の網は、文明の極致と思われていた。
しかしさらにその先に、人は、世界を織りなす真理を見出す。
森羅万象を形づくる情報そのものにして、すべての本質たる領域。
――それは、『霊子界』と名付けられた。
* * *
* 真世歴1253年 四元素の月二日 夕方
ミルドアーク教国領北東部
――地図にもないその村は、文字通り隠れ住むように山間にひっそり息を潜めていた。
総戸数は百どころか十もない。いきおい、住人は二十人を上回ることもないだろう。
残り続けようが、滅びようが、誰にかえりみられることもない僻地――。
そんな場所であるから、国の正規兵の一団が訪れるなど、本来あることではない。まして、その陣頭に立つのが、爵位をもつほどの貴族ともなればなおさらだ。
しかし、老人ばかりの村人たちは、特別驚く様子もなく兵士たちを迎えた――このときが来るのを知っていたかのように。
そして今村人たちは、数人の部下を従えて村の中央に毅然と立つ若者――ユタン・ロエル伯爵を遠巻きに見つめている。だが、彼らの瞳が真に映しているのが自分ではないことを、当のユタンは理解していた。
ユタンという存在を通し、彼らは別のものを見ているのだと。
しかし、それは不快ではない。むしろ誇らしいと――年若い伯爵はかすかに口もとを歪める。
やがて、今にもつぶれそうな他のものよりは、いくらか大きく立派な一軒の家から出てきた、鎖かたびらと胸当てを着込み、長槍を手にした兵士が、主君ユタンのもとへ真っ直ぐに駆け寄る。
だが、彼が報告しようとするより先に、ユタンの方が口を開いた。
「いたのか?」
一礼して返事とすると、兵士は半歩下がって出てきた家への道を空ける。
ユタンはその兵士には目もくれず、一人足早に家へ向かった。
静寂に沈む村に、道代わりにならされた砂地を軍靴が踏みしめる音が――続いて木製の古びたドアを開く、きしんだ音が響く。
家の中にいたのは、一組の老夫婦。そして――
「これが……」
奥のベッドに横たわる、年の頃十歳前後の幼い少女が一人。……それだけだった。
少女はよく眠っているらしく、突然の闖入者にも目を覚ます様子はない。
一方――ユタンの前にひざまずいた老夫婦は、労苦がしのばれる深い皺の刻まれた顔に、悲痛な想いを必死に抑え込んだような、そんな表情を浮かべていた。
「なるほど……やはり面影がおありになる。来てしまったのですな……そのときが」
「その通りだ。お前たちに預けていたもの、返してもらう」
「もとより、わしらに拒む権利はございません。ですが……どうか若様、考え直していただくわけには参りませぬか」
老婆の言葉に、ユタンは一瞬だけ視線を上げ、奥の少女を見た。
身につけているのは老夫婦と同じ、くたびれた木綿の衣服ながら、それでも精一杯良く見えるようにと、端々に手を入れられているのが分かる。
丁寧に櫛が入れられた長い髪に映える赤いリボンとともに、何もないこの地での、老夫婦によるせめてもの心遣いだろう。
「どうか、若様……どうか……!」
「……情が湧いたか。母上の懸念なされた通りだな、愚かしい」
足にすがり付く老婆を忌々しげに振り払ったユタンは、外の兵士を呼びつけ、少女を運び出すように指示を出す。
そして、兵士がいまだ眠ったままの少女を軽々と抱き上げて外へ出るのを見送ると、顔を伏せる老夫婦に、
「役目、ご苦労だった。お前たちのこれまでの忠節に感謝する」
それだけを告げ、兵士の後を追って家を出た。
周囲に居並ぶ、他の村人たちの様子に変化はない。ただ、一様にその視線は運ばれる少女を追っていた。
「閣下。この村の処遇はどうなさいますか」
他の兵士と違い、精緻な装飾の入った胸当てを着込む副官らしい男が、低く静かな声でそっと問う。
それに対し、ユタンは村を振り返ることもなく淡々と答えた。
――すべては決められていたこと。
「焼き払え。後に必ず教国の害となる、一人として生かすな」
「――承知しました」
その苛烈な答えも、副官にとっては充分に予想しうるものだったのだろう。わずかなためらいもなく、ただちに部下へと指示を飛ばす。
(もっとも――)
騒ぎ立てることもなく、命令を忠実にこなす兵士たちを――そして、村に火が放たれているにもかかわらず、感情をもたない人形さながらに、大人しくその様子を見守る村人を順に見やり、ユタンは鼻を鳴らした。
(逃げる者も逆らう者も、誰一人としていないだろうが)
なぜならば、そこまでがすべて、約束されたことだからだ。
――誰でもない、両者の間……その運命の中に。
* 真世歴1253年 四元素の月三日 昼
アザンティ王国領北西部
――砂漠が近いせいだろう。雑草すらろくに生えていない荒れ地を抜けた先、赤茶けた岩山の麓に、目指す霊廟は存在した。
馬を降りた兵士たちは、今にも崩れ落ちそうなほど古びたその入り口へと向かう。
それを一人馬上から見ていた、若き騎士オルフェ・イレンス子爵は、崩壊著しい霊廟と周辺の光景に『過去』という単語を連想し、思わず下唇を噛んで頭を振った。
――それは、あってはならない迷いだ、と。
「若様、いかがなされました?」
「ああ……すまない。何でもない」
霊廟前に陣取った兵士の声に、オルフェは手を挙げて応え、馬を下りる。
「そのままお待ち下さっても……」
「別に他意はない。気にするな」
それだけ言って、オルフェは引き連れてきた兵士たちの作業を見守る。
どこを突いても崩れそうな入り口周りにあって、そこだけはいまだに頑丈な鉄扉――その錠前を、部下の一人がくすんだ色の大きな鍵で開いていた。
――その鍵はほんの数刻前、墓守を名乗る小集落を殲滅することで手に入れた、血塗られた鍵だ。
「では、若様。我々はこれより……」
「まずは魔物の掃討を優先しろ。それから、目標が抵抗することは万に一つもないだろうが、無理に連れ出そうとしないように。発見次第、私に報告に戻れ。――以上だ」
オルフェの指示に姿勢を正して答え、兵士たちは霊廟の中へと踏み込んでいく。
荒れ地の行軍を考慮して、彼らの装備は普段とは勝手が違う軽装だが、構造も歴史も取り分け深いわけではない小さな遺跡に巣くう魔物ごとき、障害にはなりえない。すぐにでも制圧は完了され、目標発見の報が入ることだろう。
(――しかし)
ぽっかりと口を開けた霊廟に背を向け、オルフェは季節柄まだましだとは言え、それでも容赦ない日射しを降り注ぐ空を見上げる。
(いっそ見つからなければ良い、と思う自分がいるのもまた確か、か――)
「くそ、女々しいことを……。これでは使命を果たすことなど出来はしない、忘れるな、母上の子としての使命を……!」
自分を叱咤し、オルフェはまぶたを閉じる。
――すべては、約束されたことなのだ。世に生まれ出る前より、その運命の中に織り込まれた使命。ならば――
(そうだ。迷う余地はない。あってはならない。使命は……果たされなければならないのだ。彼とともに、約束のままに)
オルフェは決意を新たに開いた目を、遙か遠く、西方の空へと向けた。
* 真世歴1253年 四元素の月八日 夜
ミルドアーク教国領某所
「あれ? お客さん……」
――夜も更け、酒場の賑わいもそろそろ折り返しに向かおうという頃。
隅の小さなテーブルを片付け終えたウェイトレスは、新たに店を訪れた客のもとへ小走りに近寄り、そして小首をかしげた。
腰の両側に二振りも下げた長剣の厳めしさにそぐわない、どこか子供っぽい穏和な顔立ちをした客――その長身痩躯の男に、彼女は見覚えがあったのだ。
宮仕えの騎士や兵士には見えず、かと言って商人といった風でもない。恐らくは冒険者で間違いないだろうが、しかしどこか他の同業者とは、雰囲気からして違っていた。
「お客さん、確か夕方頃にもお越しでしたよね? 忘れ物はありませんでしたけど……」
ウェイトレスの問いに、男――カロン・マティウスはいやいや、と手を振った。
「口うるさい連れが寝たんでね。ちょっと飲み直そうかと思って」
「あ、そうなんですか。どうもありがとうございます。え……と、席は今あのテーブルしか空いてないんですけど、いいですか?」
ぺこりと元気良く頭を下げたウェイトレスは、たった今片付けたばかりのテーブルを示す。カロンはもちろんと笑顔で答え、案内されるまま席に着いた。
「でもちょっと残念だなぁ。寝ちゃった、ってあのお弟子さんだって言ってた男の子ですよね? あのコ可愛かったから、また一緒に来てくれたら良かったのに」
カロンの人当たりの柔らかさを受けて、ウェイトレスも夕方のことを思い出しながら気さくに話しかける。
夕方にこの店へ来たとき、カロンは年の頃十代半ばの一人の少年を連れていた。
明らかに無理に連れてこられたと分かるその少年は、師匠と呼ぶカロンに対しては日も沈まない時間から酒場に来ることについて色々と苦言を呈していたが、反面、彼女ら店員には礼儀正しくまた愛想良く応じていた。
そんなところが、あどけなくも端正なその顔立ちと相まって、可愛らしいと彼女は好感を抱いていたのだ。
「うーん、女性の相手は苦手なくせにモテるんだよねえ、あの子」
「あ、やっぱり苦手なんだ。あのコ、あたしと話すときちょっと恥ずかしそうだったし。いや、でもそんなところがまた可愛いんですよ〜」
「なるほど。でも悪いね、今夜のところはこのオジサンだけで我慢してもらえないかな」
「お師匠さんだって充分カッコイイですよ! 優しくって気さくだし。他のお客さんも、みーんなお師匠さんみたいな人だったら仕事しやすくていいんですけど――って、あ、ごめんなさい、ついつい話し込んじゃった! ご注文、どうします?」
カウンターの向こうから主人に声をかけられたウェイトレスは、あわてて本分に立ち返る。
「そうだね、じゃあ夕方にも頂いた香草焼きを。あれは絶品だった。酒は……うん、一番高いやつと一番安いやつ以外で、料理に合うものを、適当に」
「はーい、ありがとうございますっ。少々お待ち下さーい」
元気に一礼し、ウェイトレスはテーブルの合間を縫ってカウンターへ駆けてゆく。
その姿を見送っていると、ウェイトレスと入れ違いに、そばのテーブルで一人で飲んでいた男が、ボトルと杯を手にカロンのテーブルにやって来た。
一見して行商人風のその男は、特にカロンに断ることもなく、真正面に腰を下ろす。
「手紙はご覧いただけたようですね。当代最高峰の『剣聖』にお会いでき、感激の極みです、カロン・マティウス殿。どうぞ、まずはお近づきの印に」
男は持参した杯にボトルの葡萄酒を注ぐと、スッとカロンの前に差し出す。
カロンは、ウェイトレスに向けていたものとはまるで正反対の厳しい表情で葡萄酒を一気にあおると、杯を押し返した。
「で? ロシュリムほどの大国のご使者が、僕のような一介の冒険者に何の用件かな?」
「ええ、先の手紙にしたためましたとおり、貴殿にお願いしたいことがありまして」
ふん、とこれ見よがしにカロンは鼻を鳴らす。
「冒険者への依頼なら、協会を通せばいい。貴国は協会の自国内での活動を公に認められた後援国家、帝都には見事な造りの協会支部があったはずだけどね?」
「もちろん、それが正式の手続きとは承知しておりますが……それをまげてこうしてお願いにうかがったことから、どうか察していただければと」
「……いったい、何をさせるつもりなのやら」
「仕事をお引き受けいただけるなら、お話しいたします」
カロンは大きくため息をついた――バカバカしい、話にならないと突っぱねる代わりに。
宿に預けられていた、この呼び出しの手紙を見たときから悪い予感はしていたが、どうやら間違いではなかったらしい。
これは依頼という言い方をしているが、実質的にはほとんど脅迫だ。使者の男もそれを理解しているからこそ、態度は慇懃無礼そのものなのだ。
ここで意地になって断ったりすれば、一国、それも強大にして老獪な大国の不興を買う羽目になるだろう。それは、どんな災いとなって降りかかるか分からない。
それでも、自分一人なら何とでもなるという自負が彼にはある。だが――今は、弟子として面倒を見ている少年が一緒なのだ。そちらを標的にされてしまえば、いかに彼とて手に余るのは明白だった。……相手がまさに、それを承知してこの話を持ちかけてきているということも。
「……分かりましたよ。僕ごときがお力になれるなら、それはもう喜んで」
ふてくされた子供のように、皮肉たっぷりにそう言うカロンだったが、男はまるで気にする素振りも見せないどころか、微笑みすら浮かべていた。
「感謝しますよ、剣聖殿。では――三日後、城塞都市サイメルにて、もう一度お会いしましょう。仕事の詳細はそのときに」
一方的にそれだけを告げ、二人分の酒代のつもりだろう、数枚の金貨をテーブルに置いて男は席を立つ。
「……ちぇっ、どうせなら一番高いやつをありったけ頼んでおけばよかった」
金貨から視線を移し、男が店を出たのを見届けると、カロンは眉間に皺を寄せたまま男の残していった葡萄酒を杯になみなみと注ぎ、
「にしてもまぁ、何とも厄介な……」
憂鬱な気分を押し流すように、一息に喉の奥へと流し込んだ。
* 真世歴1253年 四元素の月十日 昼
城塞都市サイメル南方
――吹き抜ける風に乗って運ばれてくる細やかな砂が、また、目の中に飛び込んだ。
目を擦らないよう言われていたケイナは、さっきと同じように異物感に耐えながら何度もまたたきを繰り返し、あふれ出る涙で洗い流されるのを待つ。
旅用マントを頭からすっぽり被った連れの小柄な少女が、そうして足を止めたことに気付くと、ワイズもまた立ち止まった。
「……ごめんなさい、お待たせしました、マスター」
溜まった涙が自然と頬を伝い落ちたのを機に、ケイナはマントでそっと目もとをぬぐった。
「この地域、この季節に吹く風は、ネシュター山脈を越えた北東の砂漠から、砂を多分に運んでくるからな。そうなるのもしかたない」
「けれど、マスターは」
言って、ケイナはワイズを見上げる。
いかにも旅人らしい、裾の長い丈夫なコートを羽織ったその髪の長い細面の青年には、他の何をさしおいてもまず目に付く特徴があった。
目が不自由なのか、目隠しのようにぐるりと巻かれた布の帯である。
ケイナの言わんとしていることに気付いたワイズは、目を覆う帯に手をやりながら唇をわずかに持ち上げてみせる。……笑ったらしい。
「私はこれだからな、さすがに目に入ることはない。――どうだ、お前も?」
「わたしでは無茶です。マスターのように世界を認識することはできません」
「元来、人間とはそういうものだがな。今の『彼ら』にしても然りだ。
――いや、しかし……お前相手にこの表現はいささか的外れか?」
「そうですね。ですが……」
「ああ、そうだな。その通りだ」
一人納得したようにうなずいて、ワイズは首を道の先へと向けた。
雄大な河に沿って上流へと伸びる広い道は、黄色がかった彩りの草原の果て、河を挟んで東西に広がる長大な城壁へと続いている。
城壁の向こうには、いくつもの尖塔や砦の上部がのぞき――さらに、石造りの橋が架けられた、大河の中洲にたたずむ記念碑めいた巨大な存在は、かつてこの地の王が君臨した王城の亡骸だ。
「あれが、城塞都市サイメル……ですね」
「今はそう呼ばれているな。数十年前まではテメニアという王国の王都だったが。
しかし……どれほどの時間、代替わりを続けて歴史を重ねてきたものやら。当初はただの護り人程度だったのだろうが……ここまで上塗りが過ぎるとは、『奴』とて予想だにしなかったかも知れないな」
「それで、かのXナンバー……どうなさるんですか、マスター」
ケイナの真摯な視線を受けたワイズは、また口もとに笑みを作って答える。
「さて、な。しかし奴め――神を謳って世界すべてを改変するならば、あんな存在こそ一番に削除するべきだろうに」
「だからこそ、危険を考慮してうかつに手を出せなかったのでは……」
そう考えを述べたケイナの頭に、ぽんとワイズは手を置いた。
「正論だな。そして、まさしくその通りだろう。
もっとも――奴に勝手に手を下されていたとしても、それはそれで気にいらないが」
* 真世歴1255年 四元素の月十三日 夕方
ジルカ王国領 貿易都市ルルノイア
どうも、酒場が絡むと厄介事に巻き込まれる気がする――。
「……よっぽど相性が悪いのかな」
人気のない裏通り。
水路を渡る石橋の上で、二人の屈強な巨漢に挟まれた少年――アルファートは、緊迫した空気の中にありながら緊張感なく、その女性的ですらある端正な面立ちをわずかにしかめながら、困ったようにため息をついた。
知人に頼まれて、酒場へ葡萄酒を買いに来た――ただそれだけ、ただのお使いだったはずだ。それが気が付けば、こうして荒くれ者と一触即発の状況になっている。
(確か、ついこの間も似たようなことがあったっけ。いや、それを言うなら二週間ぐらい前にも……)
「おいボウズ、詫びる気になったのか? ああ?」
男の一人が、考え込んでいるアルファートにドスの利いた声で脅しをかける。
男のどちらもが、鋲の打ちつけられた革鎧に、無骨で仰々しい長剣という、冒険者よりは山賊と名乗る方が正しいような身なりと雰囲気をしていた。およそ、どんな街でも歓迎されないだろうたぐいの人種だ。
(詫びる? そもそも、詫びなきゃならないようなことはしてないハズだけど)
そう思ったアルファートだったが、バカバカしくて口には出さない。どうせこの手の輩は実力に訴えなければ引き下がらないだろう、と。
ただ、わざわざ自分から口火を切ることはしない。
腰の二振りの剣に頼らなくとも、『貌霊』を顕現させなくとも充分あしらえる相手だ。先に手を出すなどそれこそバカバカしかった。
「その、柄じゃなく鍔ンところにも握りがある枝分棍みてえな変わった剣――双剣ってやつだな。へっ、ガキが見てくれだけマネして、あの剣聖カロンにでもなったつもりか?」
「……まさか。剣聖になんて遠く及ばないよ、何せ見てくれだけだから。
ただ――少なくとも、あんたたち二人よりはマシだと思うけど」
その一言が男たちの、もっとも火が付きやすい感情に触れたのは確かだった。
放たれる敵意が、明らかな一線を踏み越える。
「おーおー、オレたちぁそういう冗談が一番キライなンだよ。なあおい?」
「ああ。ちょっと生意気が過ぎたなぁ、ボウズ。しょうがねえからオレたちが礼儀ってやつを教えてやる――よッ!」
髭面の男が、言いざま拳を繰り出してくる。
予想よりも速いな――そう感じたときにはすでに、アルファートの体は動いていた。
距離を測るための一撃目をかわし、さらに続く勢いの乗った第二撃に対しては拳の外側に回り込むと、その腕を内へと押し出してやる。
すると直線的に向かっていた力は、勢いを損なうことなく円を描くように流れ――男はたたらを踏んで、側面にいる敵に背を向ける格好になる。
瞬間、アルファートは男の膝裏を鋭く蹴り、本人もそれと意識しないうちにひざまずかせながら、男がベルトにさしていた短剣を引き抜き……ちょうどいい高さに下がった髪の毛を引っ張ると、反らされて露わになった男の喉元に、奪い取ったばかりの短剣を突き付けた。
「え、あ――あ?」
「この手の礼儀ならもう間に合ってるよ」
ほんの一秒あるかないかのうちの出来事に、理解がついていかない髭面の男。そこで状況をさとすように、アルファートは短剣の刀身で軽くその顎を数回叩いてやる。
「もういい? ぼくはあんたたちほどヒマじゃないんだ」
「くそったれ、ナメたマネしやがって!」
残った禿頭の男は、自らの動揺を押し殺すためか威勢良く怒鳴りながら剣を抜いた。
「見て分からないの? ヘタに動くと、あんたの仲間は――」
「ヘッ、どうせハッタリだろうが!」
「……まぁ、そうなんだけど」
アルファートは短剣を水路へと投げ捨て、空いた手で髭面の男の肩を掴むと、自分の重心を移しながらの最小限の動きで、勢いをつけて男を背中側から地面に叩きつける。
受け身もとれない状況でいきなり後頭部と背中を硬い石畳に打ちつけられた男は、一言うめいて気を失った。
「おらあぁっ!」
そこへ剣を振りかぶってもう一人の男が走り来る。
迎え撃とうとアルファートがわずかに腰を沈めたその瞬間――
「えいっ!」
可愛らしい気合いに続いて鈍い打撃音が響いた。
――気付けば、男の禿頭の頂点に、棒術に使う長棍の先端がめり込んでいる。
よっぽどの衝撃だったのか、男は声にならない声を一つだけ吐き、白目をむいてばったりと倒れる。
その背後には、大上段から長棍を叩きつけたままの格好で、アルファートと同じ年頃の小柄な少女が立っていた。
「つ、つるつるの頭にはちょっと強過ぎたかな……。ま、いーよね」
「え……え?」
荒くれ者たちのいかなる言動にも動じなかったアルファートが、少女の出現には目を白黒させる。彼女は、彼の通う学院でともに学ぶ級友だった。
「どうして君がこんな所に……」
「ん、あたしもちょっと用事があってそこの酒場行ったんだけど、そしたらウェイトレスのお姉さんから、アルが山賊みたいな連中に絡まれて裏通りに連れて行かれたって聞かされたから。
アルのことだから大丈夫だとは思ったけど、万が一ってこともあるから、こうやって助けに来たわけ」
長棍を慣れた手つきでくるくると回し、少女はにっこりと笑う。
釣られてアルファートも笑顔で応えた。
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして。――あ、そうそう」
ふと何かを思い出したらしく、少女は服のポケットを探り、取り出した物をアルファートに手渡した。
――それは、少し色褪せた赤いリボンだった。
「それ、アルのでしょ? さっき、そこで落ちてるの見つけたから」
アルファートは渡された物を見、続いて腰の両側に帯びた剣を見る。
片側の剣の柄からは、確かに結びつけていたはずのリボンがなくなっていた。
「いつの間にかほどけてたのか……。ありがとう、もう少しでなくすところだったよ」
心底安心したと言わんばかりに大きく息をつき、手の中のリボンをもう一度見下ろす。
「そうか……酒場が絡むと、巻き込まれるのは厄介事ばかりだって思ったけど――」
リボンをぎゅっと握り締め、アルファートは視線を上げる。
それが向けられたのは、水路の上流――その遥か彼方、北の空だった。
(君に会った縁のようなものもあるのか。あれからもう――二年になるよ)
地平線に向けて傾き始めた太陽、その赤い光に包まれながら、彼は目を細める。
――記憶の中の懐かしい笑顔へと、思いを馳せて。
「……ピュティア」




