十年後:女神の微笑み 後編
それはまるで、霧が晴れて目の前に隠れていた大きな物の全貌が明らかになる――そんな感覚に近かった。
死を選んだ主。
牢の中の囚人。
籠の中の狂った鳥。
籠になろうとした男。
目の前の青い目の女。
目の前の銀の目の子ども。
すべて一つの線になる。
その男の人生を一言で表すなら波瀾万丈であった。
かつてアルトゥルース=ネィメンは川に流された子だった。
どこの誰とも素性が知れない、何もない、すべて奪われた哀れな赤子。
それが小領主オディロン=ネィメンとその妻に拾われ、実の子同様に慈しんで育てられた。
やがて父の死後領主の座を継ぎ、愛しき人と心を通わせ、周囲に祝福され婚姻に至った。
けれど彼が初子に恵まれ幸せの頂点にあるときに、運命は再び反転する。
冤罪で貶められ、地位も身分も剥奪されて奴隷にされた男がそのとき何を思い、何をしたのか――当人が死んでしまった今となっては答えをきくこともかなわず、憶測するしかない。
彼はどん底に貶められて尚、厳重なロステムの包囲をくぐって一度はリテリアの前に姿を現した程の男だ。
その強運も十分驚嘆に値するが、おそらく綿密な計画と人脈を駆使したのだろう。
ならば、それほどの彼ならば、自分と妻を無理やり引き裂き、冤罪で身分を奪った嫉妬深いロステムの尋常ならざる邪念が明らかになった段階で行動を開始した可能性が、あり得ないと言えようか?
妻を追う一方で、我が子の危険を予期し、万が一自分が失敗しても娘が安全であるために、密かに他人に託した可能性が、そしてロステムの目からかくまうために我が子の死を偽装した可能性が――どうしてあり得ないと言えようか?
他でもない彼自身が、一度親に捨てられた子で、それによって失われていたかもしれない人生をつないだ男なのだから。
箱の中の手紙と手記を、もう一度よく思い出す。
そこに、今までキリエが見聞きしてきたあらゆる経験を重ね、一つ一つつないでいく。
三人称の落ち着いた文体を装って語られる物語は、けして客観的な記録などではなかった。
リテリアの主観で終わった物語を、さらにレィンがなぞる手記。
そもそもレィン本人があれほど嘘つきな男だったのに。
リテリアは死の直前、本物のレィンは既に亡きものと思って死んだ。
彼女本人はすっかり信じ切っていたことだろう。子も、夫も、残忍な兄の手にかかっているのだと。
だが、冷静に思い返してみれば、それを客観的に裏付ける証拠など何一つないのだ。
事実、アルトゥルースは彼女の知らないところで生き続けた。
ならばもう一つの命の生存を、なぜないと断言できる?
死体を実際に確認したわけでもない、まして葬儀の場も、墓すら見ていない。
――一つの強固にねじ曲げられた前提が、そもそもちっとも保証されていなかったのだという事実に気がついてしまえばあっけない。
(ぼくは唯一の「レィン」になりたい)
(誰よりも無垢で美しい、理想の少女。本物の姉よりも、さらに完璧に、彼らとぼくが望んだとおりに――)
(俺は確かに罪を犯し、ここであがなっていくと決めた)
ああ、だから。
囚人四十九番は――アルトゥルース=ネィメンは牢に残ったのだろうか?
あがなうとは、贖罪とは――ようやく彼が何に罪の意識を抱いていたのか、その正体がわかった気がする。
そして、レィン。あたしの、レィン様。
死によって完成する、その言葉の意味がようやく理解できた。
あなたはそうでもしなければ、彼女を超えられなかったのですね。
「……あの、どうなさったの? ご気分が悪いの」
気がつけば、横のバダンが肩をつかみ、上品な婦人は困惑した声を上げていた。
キリエは自分の目から滝のように涙があふれ出していることを自覚する。自覚しても止まらなかった。むしろさらに悪化した。かろうじて声を上げることは耐えたが、関を破った洪水はとうとうとあふれ出して流れ出ていく。
は、と息が止まりそうになった。
すっと差し出された小さな手は、夫のものでも娘の物でもない。
母親の横にぴったり寄り添っていた少年が、キリエに向かって、自分のものだろうハンカチを出し、じっと見つめていた。
「よろしければお使いになって。……何か悲しいことがおありになったのね。わたくし、事情は理解してさしあげられないけど、でも……いいのよ、涙を無理やり飲み込もうとなさらず、吐き出しても」
奥方が重ねる。青い瞳と、銀色の瞳が、キリエをじっと見つめている。
受け取る手が震えた。あらゆる感情があふれて止まらなかった。
どうして、どうして、どうして――。
キリエは慟哭した。
何も知らない女の前で、すべてを知っていった少年のことを想い、大声を上げて泣いた。
心優しい領主夫人は、彼女の忠実な供も含め、キリエの癇癪のような号泣を責めることもなく、ただひたすら、落ち着くまで寄り添った。その息子も同様であった。いつの間にか駆けつけてきた娘にすらよしよし慰められて、キリエはしばらく久しぶりに感情をそのまま流していた。
気持ちが落ち着き、話ができるようになってからいくつか言葉を交わす。
その頃には、少年のために守り刀を作る事に、バダンもキリエも全く否定の意思はなくなっていた。
むしろ、作りたい、是非作らせてくれと自分達で言い出すぐらいだった。
領主夫人は快く了承し、よかったね、と少年を優しく揺すった。
彼は相変わらず母の影に隠れていたが、去り際までずっとキリエのことを心配してくれていたようだった。
何を彼女に言うべきか、迷いに迷ったが――何せ、キリエの中ではほぼ目の前の人物の正体について答えが出ていたが、これもまた真のレィンの生存説と同じ程度に、確たる証拠があるわけでもなく、ましてとても口に出せることではない。
――アルトゥルースとリテリアの子どもであることが真実なら、あのバスティトー二世の血をも受け継いでいるのだ。猫神の影響力は今も、良くも悪くも強すぎる。下手に明るみになったら、どんなことが起きるかわからない。
彼らは多くを語らず、二つ、領主夫人の優しさに甘え、守り刀を作るために尋ねておきたいことがあると断って質問してみた。
夫人と若君の名前はなんというのか。
今、幸せなのか。
彼女は青い瞳を穏やかに――そう、かつて牢の中で見た彼そっくりにゆるませて答えた。
「わたくしはネィリ。こちらはティト。ええ、とても幸せよ、いい人達に恵まれているから」
かつて最期まで嘘つきだった少年とは真逆に、真なる無垢な女性はなんの偽りもなく朗らかに笑ってみせた。
その答えに、キリエとバダンは満足し、帰路につく夫人達の背を見送る。
彼らは間もなく、守り刀と言う名の首から提げられる尖った形のお守りを二つ作り、領主夫人と若君に捧げた。
――その一方で、誰の目をもはばかりながら、二人で密かに、文字をびっしり刻んだ石版を作成していくことになる――。




