十年後:女神の微笑み 前編
重たい荷物にきしみそうになった腰を叩くと、自分以外にもポンポン叩いている気配がしてキリエは振り返り、顔をゆるめる。
「手伝ってくれるの? ありがと」
「……んー」
もうすぐ三歳になる娘は、反応があると機嫌よさそうに笑い、ぴょこぴょこと長い耳を揺らした。
種族の違う亜人同士で結ばれた場合、子どもはどちらの要素を継ぐのか半々程度だが、彼女は母親の方に似たらしい。口数が少ないように思えるのは父親似なのだろうか? 万歳をして手伝いたがっているのを見て、キリエは山の中から適当なものを渡した。
「上手に運んでいってね」
軽く注意してはみたものの、そこは母としてぬかりなく、最悪ぐしゃぐしゃにされても大丈夫だと思う物を預けてある。
……今回は転ばなかったようだ。
干し竿まで素早くたどりついた娘が、得意げに胸を張っている。
「上手ね、ノーナ」
成果をたたえてやれば、娘はぴょんぴょん跳ねた。キリエはとろりと顔をゆるませかけたが、まだまだ今日はやることがたくさんあったのを思い出して顔を引き締める。
娘は可愛いのが過ぎて、両親共に甘やかしすぎそうになってしまうのだけが問題だ。
デレデレしているだけというわけにもいかない。
毎日を生きていくためには、人を養っていくためには、することがたくさんある――。
洗濯物を干すところまで手早く済ませると、今度は家の掃除を開始する。真似したがりの娘に小さなはたきを持たせてやると、嬉々として埃を散らせたが、さりげなく時々誘導し、上手にできたところを褒めてやる。
子育てはできるだけ肯定の言葉をあげることが重要だ、いい言葉をかけられた子はいい子に育つ、と教えてくれたのは村の女衆だ。
あてもなくさまよう、身寄りのない、得体の知れない夫婦を、この村は何も聞かず優しく迎え入れてくれた。
来る者拒まず去る者追わずなゆるい雰囲気のこの村に、なんとなく二人で居座って、定住して、もう五年になるだろうか。
――あの頃からは、十年。
長いような、あっという間だったような。
女服がすっかり身に馴染むようになり、落ち着くところなく逃げ回っている間は考えられようもなかった家庭すら持つようになって、時折自分が夢を見ているのではないかと錯覚を覚えそうになる。
風の噂で、知り合い達の末路を聞いた。
レィンは――少年王イライアスは、真面目なムロフェリによってその死後辱められることなく、希望通り祖母と両親の眠る墓に共に丁重に葬られた。
ヤザンは、レィンの死から数日後に大規模な反乱を起こし、最期は焼かれて死んだ。
忌まわしき監獄に閉じ込められていた者達は全員釈放されたが、その多くが直後の革命の混乱に巻き込まれて暴徒に襲われ、一足先に逃れた者も一年後にはひっそり隠居先で息を引き取った。
革命を起こしたムロフェリは、その後立て続けに襲う外部からの侵略と内政の崩壊の立て直しが間に合わず、無責任な私刑を受けて志し半ばで果てた。
王都には記録的な虫の群れが襲来し、空は荒れ、地はうねり、華々しき栄華はどこへやら。
異常気象に奇妙な符号を勝手に感じた民の群れは、死の蔓延する都で逃げ惑い、自ら討たんとした神の末裔に、いやかつてこの地に絶大な悦楽をもたらした猫神に魂をかけて祈りを捧げた。
――バスティトー、おお、猫の子よ! 我らをお許しください! お助けください! 我らが女神よ!
もちろん、残酷で苛烈なことに定評のあった雌猫が、自らに背信した愚民共を許すはずもない。
生きていた頃、彼女は生者を串刺しにして野に並べた。
死して尚、彼女の道には死者の山ができあがった。
かつての楽園は数年で、互いに屍肉を争って貪り合う生ける地獄に様変わりした。
誰もそれが女王の怨念のせいであることを疑わなかった。
気まぐれな女の築いた絢爛豪華な石畳は、いつでも赤く染まり、鉄のにおいがこびりついていたので。
王都は荒廃し、かつての見る影もなく落ちぶれたと聞く。
革命時、そして革命軍に怒りの矛先を向けたとき、市民は王宮に暴徒として押し寄せ、荒らし回った。
ただ、猫の神の名を持つ女王の墓のみは、女王の香りが色濃く残る部分のみは、臆して手を出さなかった。
あの後、かつての帝国領土は周辺国家によって飲み込まれ、分割されたが、王都のみは中立地帯とし、今の王達も残された墓に我先にと供え物を送りつけて死者にご機嫌うかがいをしているらしい――。
そこまで振り返って、ふっとキリエは自分の口から自嘲なのかため息なのかがもれたのを感じる。
誰も彼も、いなくなってしまった。
けれど、残ったものもある。
少し遠くの作業場からは、今日も規則正しい金属の音が響いていた。
――もう少ししたら、お昼ご飯を持っていってあげないと。
料理のことを考えていると、ふと食材のことにも気が向く。
――そろそろまた、粉ひき屋に行く頃。この村はまだ混乱してた場所に比べれば奇跡的にのどかな方で、皆とても気前のいい人達だけど、やっぱり国がまだ落ち着かないせいか、食料品の材料もしばらく高いままが続くだろう。鍛冶屋は生活に絶対に必要な職業だもの、食いっぱぐれることはないだろうけど、自分達で畑を持てないとちょっと心細い……やっぱりこの間作ってもらった罠を試してみようかしら? 小動物の駆除が目的なら、私たちも森にしかけることができる――。
「……? どうかした、ノーナ」
いつの間にか手を止めて物思いにふけっていた母親の服の裾を、くいくいと娘が引っ張っている。
指さす方から誰かが呼んでいるようだった。礼を言い、頭を撫でて出てみる。
「ああ、奥さん」
「こんにちは、どうかなさいました?」
家の入り口から声をかけていたのは知っている村人だった。キリエもバダンも何度もお世話になっている、村のまとめ役、村長に近いような人だ。
「いてくれてよかった。ご主人はまだこの時間だと作業中かのう?」
「ええ、いつも通り。……何かご注文ですか?」
バダンは口数が少ない――というか、喋れない割にあの見た目だ、かなり威圧感がある。
そんな男が真剣に金物と向き合っている昼の仕事場に、村人達は踏み入って荒らすのを遠慮する。
かわりにキリエが窓口になるので、バダンの作業中に注文を受けることもしばしばあった――というか最近ではそれが当たり前にすらなっていた。
「ああ、いや、その、今回は私じゃないんだ。その、前に短剣を作ってもらっただろう? ほら、普段使いではなく、儀式用の」
「ええ……それがどうかしましたか?」
キリエ達が村に馴染む前、最初の仕事だった。年に一度のささやかな、けれど大事な収穫祭の日が近づいているというのに、儀式用の剣が折れてしまったのだ。
ボロボロでやってきた夫婦を迎え入れ、飯と寝床を与えてくれた村人達のために、バダンは初めて鎚をふるった。もともと手先がかなり器用な人だったし、数年前に死んだ老爺のものだとかいう鍛冶場があったのが幸いした。
乏しい素材からできあがった思いがけない芸術品に村人達は大喜びし、そしてバダンに言ったのだ。
――あんた達、落ち着く場所が特にないと言うなら、よければこのまま暮らしていかんか。またどこかに行ってしまうとしても、出て行くまででいいから。
キリエの頭にふと不安がよぎり、まとわりついていた娘を引き寄せる手に力がこもる。
――まさか、誰かが、あたしたちのことを――。
「あの短剣がな、巡り巡って、その――ええい、言ってしまえ! 実はの、あれを見た、その、領主様がな、若君のために、お前さんの旦那さんに、同じような守り刀を作ってほしいと――そのう、おっしゃられているようなのじゃが」
「……はあ?」
キリエはつい、ものすごく冷たい声を上げてしまった。はげ頭の目立つ男は、慌てたようにどもりつつも説明をしてくれる。
――どうも、バダンの作った物を、村長が別の村との集会の時か何かで自慢したら、評判が口づてで広がり、領主の耳に入るところにまでなったらしい。で、本人達にとっては過大すぎる評判を鵜呑みにした領主が、あろうことか是非作ってほしいものがあると言ってきて――。
「……って事らしいんだけどさ。どうしよっか?」
お昼ご飯を届けながらキリエは眉を下げ、夫に相談する。
もくもくとパンをかじり、耳を娘に引っ張られながら、牛は考えている。
「あたしたちのことを追ってきたとか、勝手に居座ったのを罰するとか、そういうんじゃなさそうだけど……やっぱり断っておく? 一応、なんていうかその、あたしたち、まだどうなるかわからないし、目立たない方がいい……よね。あーでも、角が立っちゃうのかなあ。どうするのがいいだろう」
パンを飲み込んだバダンが、ひょいと娘を抱え下ろし、歩いて行って小枝を拾うとさらさら地面に文字を書く。
(もう少し、下手に作った方がよかったか?)
大まじめな顔をして最初に書いた言葉がそれだったので、キリエは思わず吹き出して、夫の太い胴に腕を絡ませた。
「ああいうときに、こうなるかもしれないってわかっててちっとも手抜きできない、そういうあんたが好きよ」
牛男はかたまってからぶっきらぼうにキリエの腕を撫でた。
十年間連れ添っても愛撫の下手くそな男だ。キリエはますます力を込めた。
――自分が蚊帳の外に置かれた事に不満を募らせた娘に突撃されるまで、夫婦はしばし寄り添って目を閉じていた。
そんなこんなで、一介の流れ者には荷が重すぎる、他にもっとふさわしい人がいるはず、と村長に伝えて一月ぐらいした頃だったろうか。すっかり日常に戻って油断していたキリエとバダンの平和な家が強襲されたのは。
「ごめんくださいまし」
ふらっと家の中に入ってきた人に、いつも通り何気なく出て行って応じようとしたキリエはびしっと自分の表情も体も凍り付くのを感じた。
何せ、その頃にはとんと縁の切れていた、うっすら品良く立ち上る香、繊細な刺繍と美しい染料に彩られた布、身動きする度にしゃらしゃらと鳴る装飾品の数々――そういったものを身につけた女が、ぞろぞろと数人供らしき者達を引き連れて、場違いに庭先に立っているのだ。
卒倒しなかっただけ偉いとキリエはとっさに自分を自画自賛する。
いや、このぐらいならむしろ全くの許容範囲内だ。
久しく忘れていたが、彼女の元主人にいやと言うほど鍛えられたのだ、どっきりには慣れきっている――。
と、いったんは落ち着きかけたのだが、キリエは連れの中にいる子どもを見かけてもう一度失神するかと真面目に思った。
美しく輝く、二つの銀色の瞳――。
キリエは最初、自分は幻視を見ているのだと信じて疑わなかった。
なぜなら、その子どもはあまりに彼女の知っている人物に似ていたからだ。
女の足下に隠れてまごついていた子どもは、キリエが呆然と目を向けると、おずおずとはにかむように微笑んだ。
この光景を、覚えている。忘れるはずがない。
――レィン様。
のど元から出て行きかけた言葉を飲み込み切れたのは奇跡だったと、キリエは思った。