石版7
やだやだやだどうしてどうして信じない絶対信じるものか裏切り者帰して帰して家に帰るあたしの家に帰らなきゃそうだ帰って御主人様のお世話をするんだこんなところあたしのいる所じゃない離してよ卑怯者離せ離せお前なんか殺してやる――。
イライアス二世が毒を飲んで死に、王都では革命を起こした者が新しい国を作ろうとしている。
それを人々の話からようやく理解したとき、あたしは最初そんな風な言葉を口走りながら大暴れした。
半ば錯乱状態だったあたしはそこそこの人目を集めてしまったが、何人か寄ってきた奴らも、バダンとやりとりを交わすと消極的に散っていく。
バダンは一目でわかる獣よりの亜人だったから、金で買われたあたしが駄々をこねている、そんな風に彼らは解釈したのだろう。あたしたちの身なりはいかにもみすぼらしい旅人という感じだったし、あたしはともかくバダンは健康的で筋骨隆々していて、色々な場所を出歩いていたせいか貫禄じみたものがあった。
もしもこのとき、あたしに同情してバダンを通報した奴がいたらと思うと――それで万が一、あたしたちの正体が割れていたらと思うと、心底ぞっとする。けど、平常心を保てているときのバダンは独特の静けさがあり、それが絡む人を減らすことに一役買ったのかもしれない。あたしが相変わらずの従者服だったせいでパッと見は男の子に見えたのも、結果的に良い方向に働いた。何より――バダンがヤザン達の力を借りて一足先に王都から離れていたこと、人相や特徴を書いた手配書が回らなかったこと、これが一番大きかったと思う。それから、あたしがイライアスの名前を口走らなかったことも幸いした。
あたしたちはとびきり運が良かった。
国が王のいない方向に変わっていこうとしているときに、国王の側近みたいなものだったことがわかっていたら――さすがに二人とも、無事ではいられなかっただろうから。
バダンは暴れるあたしの手をつかんで離さず、ひたすら耐えた。あたしが落ち着くまでじっと堪えた。ぶたれたり蹴られたりしても何も言わず、癇癪が過ぎるのを待った。思えば二年の付き合いだ、あたしの扱い方というか、短気だけど結構すぐ冷める性質なことは十分心得ていたのかもしれない。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになったあたしの顔にそっと布を押しつける。
それで彼は、再び人のたくさんいる場所からあたしの手を引いて街道を少し離れ、誰も来ない事を見計らってからそっと荷をといた。
中身は旅に必要な一式と銭やおそらく換金のための装飾品だったが、その中で一つ他と毛色が違う物があった。
箱だ。やたらと装飾が美しい、一際繊細に作られたらしい、箱。
見覚えのないそれに首をかしげかけたあたしは、あっと声を上げた。
――あ、これ頼まれてたもの。
気絶させられる前、ヤザンがバダンに渡していた小包から出てきたものだ。
牛男はあたしの手にそっと箱を押しつけて、自分の胸元の辺りで手振りをしてみせる。
あたしはそれが、あたしの首に掛かっているお守りを取り出せということなのだと気がつき、引っ張り出してみて硬直した。
こうして見れば、間違えようもない。
あたしがレィンに渡されていた首飾りは、鍵だった。
吸い込まれるように箱の穴にそれを刺して捻ると、かちりと音が鳴る。
そうしてあたしは、あいつの長い長い手記を読むことになった。
誰に宛てたのかもわからない、おそらくは自分の気持ちを整理するためのもの。
一面綴ってあるのはリテリアのことばかりで、自分のことも、あたしのことも、バダンのことも語ろうとしない。
アルトゥルースの事が書かれている部分で、あたしは息を漏らした。ようやく切れていた糸が一本につながったような感覚。
――囚人四十九番の瞳は青く、彼には片手がなかった。レィンの分身の一人、ノードルはいつか言った。
「おとうさんにあいたい」
どんな気持ちで牢に通い詰めていたのだろう。ああ、確かに、恋人の死と息子の裏切りに失望して現実から逃避した男より、よほど名もなきめくらの囚人の方がきっと少年を深く理解し、受け入れ――愛していたのかもしれない。
彼は言った。この牢であがなうと。あれは一体、誰に対する償いだったのだろう。
彼は知っていたのだろうか。誰が囚人を見舞い続けていたのか。
……知っていたことを、あたしは願った。どんな思惑が根底にあろうと、知っていて優しくしてくれていたことを、御主人様のために願った。
そのときにも、リテリアの心情をつづった文の時にも堪えられた涙が、最後の最後に隠すように残してあったそれを読んだことで完全に決壊した。
本当にひどい男だ。
ああそうだ、きっと何もかも皆お見通しで、お見通しのつもりだったに違いない。
最後の手記だけは、宛先人が明記されていた。
あたしは泣いた。大泣きした。何度も罵声を上げた。――ふざけるな。
それがあいつに対してなのか、あたしに対してなのか、それとももっと別のものに対してなのか、わからなかった。
バダンがずっと側にいてくれた。ずっと、じっと、言葉の喋れないあいつはあたしの横にただただ座り続けた。彼はじっと待っていた。今までそうしていたように、じっと。
一通りの感情を爆発させ終わって、もうこれ以上考えられることなんてないほど空っぽになったあたしに、小枝を拾って地面に書いたのだ。
――一緒に行こう。ひとまず、都から遠いところに。
「行って、どうするの?」
――生きていこう。
「……あんたと?」
――不満だろうか。
「……ううん」
膝を抱えたまま、あたしは短く答えた。バダンは筆談でも多くを語らない男だった。
あたしは考えてから、ぽつりと一つ確かめてみる。
「あんたも、レィン様のことが好きだったんでしょ」
小枝の動きが止まり、彼は黒い目でじっとあたしを見た。答えはない。
「あたしのこと憎んでる?」
これには結構すぐ返答があった。
――そうだったら、こんなことはしない。
あたしは目を腫らしたまま、笑いかけた。
「あたしもあんたのこと、嫌いじゃないよ」
そうしてあたしたちは、二人で生きていくことにした。




