別離4
「兄貴! 姐御! お久しぶりです!」
堀から再び四苦八苦しつつ人目につかないように上り終えると、少し横のちょうど周囲から見えないような暗がりになっている場所から、気持ち控えめながら威勢のいい挨拶が投げかけられた。驚きのあまり、キリエはうっかりもう一度堀の中に戻りかけてしまう。バダンに支えてもらってなんとか事なきを得た彼女は、声をかけてきた男を思いっきりにらみつけた。
「んもー。チミィ、だめじゃないかー、びっくりさせちゃ。キリエちゃん、それにバダン君。大丈夫?」
「ボス、申し訳ございませんっ!」
手招きされて入り込んだ先に、人相と格好が悪い割に行儀良く円を作って整列している見覚えのある男達と、その中心でチッチッチ、と指を振る、無神経な男をたしなめるボインボインの豊満シルエットが見えた。キリエは普段眠たそうとまで言われがちな目をこれでもかと言うほど開く。
「ヤザン……様?」
「久しぶりー。元気してたー? あ、これ頼まれてたもの」
ひらひら手を振った豚の亜人は、バダンに何やら小包を気前よくぽんと渡すと、キリエの胸元に視線を移動させると柔和な微笑みを凍らせる。それから肩をすくめ、がっくりと力を抜いた。
「うむー、そっかー……。だーれも来ないかと思ってたんだけど、それならそれで全然構わなかったんだけど、やっぱり君らが選ばれたんだねえ。でもま、最初に会った時からきっとこうなるとは思ってたのよ。うん、いーんだ。ボクちゃん逆に好き勝手できるし。ハノンたんはボクちゃんのことは呪ってくれなかったけど、かわりに自由にする権利はくれたんだもん。十分、十分」
でっぷり太った腹をゆすりながら言う男の言葉に、キリエはわかったようなわからないような感覚で首をかしげる。
連れの牛を振り返っても彼は喋らない。男達だけが心得顔で事態を進めてしまう。
「さあ、チミ達。最後の大仕事だぞう。これから――」
「ねえ、待って。一体何のこと? あんたたち何しようとしてるの? なんであたしたちを当然のように巻き込むの? さすがに馬鹿で鈍いあたしにも、おかしいことはそろそろ気がついてるよ。バダンは聞いても何も答えてくれないし、一体何なわけ?」
「……あれー?」
ヤザンもキリエの雰囲気に、何か勝手が違うと気がついたのだろう。周囲の部下達を制し、首をかしげてじーっと小娘をのぞき込んでくる。また、最初に会った時みたいな値踏みするようなまなざしを受けたが、キリエはぐっと堪えて見返した。
「ハノンたんは、チミになんて言ったの?」
「あたし、あいつにバダンをお見舞いしろって言われて、それでバダンが何か用事があるからって付き合ってるだけなんだけど」
「ふんふんふん……んー、なるほどねー。ま、らしいと言えばらしいか」
大きく息を吐き出した男は、豚鼻をいじりながら少しの間だけ物思いにふけっているらしい。
「ふむん、時にキリエたん。チミは自分のことを馬鹿とか言うけど、ボクちんからすればかなり頭のいい子だと思うんだ。あ、お勉強できるのとはまた別の賢さだよん。大人びていて、あんな環境で育った割にチミはとっても素直だし、驚くほどまっすぐな子だ」
丸い手が顎にのびて、そこを撫でながらのんびり男は言葉を紡ぐ。一体何の話だろう、何か関係があるのかな、と思いつつキリエが静観すると、豚は哀れみのような慈愛のような、なんとも奇妙なまなざしを向けてきた。
「一方、おじちゃんはたまたま運がよかっただけのお馬鹿さんだしね、大きな子どもなのだ。もう、とーっても心が狭いし、ちょー嫉妬深いの。ハノンたんはもちろんラブちゅっちゅ状態だし、キリエたんのことも結構好きだったけど――恋敵になんでもかんでもしてあげるほど、優しく物わかりのいい大人ではないのですぞ」
「……は?」
「頼まれたことは、ちゃんと守ります。でもそれ以外のことは、しーらないっ」
プイッと男が横を向き、なんだその態度はとキリエが突っかかろうとした瞬間、誰かが背後から飛びかかってきた。
一瞬で太い首がキリエの首に巻き付き、絞め上げられる。ついでに口に何か甘い香りのする布を押しつけられた。
(一体、何を――!?)
「それじゃ、二人とも、さようならだ。可能なら、良い旅を。ボクちんはそのときが来たら、夢を追いかけることにするよ――」
ヤザンの言葉を耳の奥に聞きながら、彼女の意識はふっと落ちていく。
裏切ったのか。まさか。どうして。そんな言葉を頭に浮かべながら。
あっけなかった、あまりにも。
油断していたのか? していた。だって彼女は素直だから、御主人様のことを信頼しきっていたのだ、きっと。
次に目が覚めた時、見知らぬ星空が目に入った。バッと起き上がると、焚き火をかき回していたバダンが振り返る。どうやら自分達は野宿をしていたらしいこと、ここはキリエの知らない場所らしいこと、ヤザン達に殺されたわけではなく、生きているらしいこと――バダンとのコミュニケーションを経て、ひとまず自分の状況を、身の安全? をキリエは確認する。
「……っていうか、夜!? 嘘、ちょっとぐーすかねこけてた場合じゃないって、ほら、今すぐ帰るよバダン――バダン?」
牛男はゆっくり首を横に振った。キリエは冷静になる。焚き火でお互いの様子がわかるとは言え、月が出ていても夜は夜。今いる場所は明らかに人の住んでいる所から離れたところだ、街道ですらない。夜道を歩くのは危険だ、朝になってから動こう。そういうことなのかと考えて、キリエはひとまず座る。
「それにしても――あの時変な風に襲われて、えーっと、ヤザン達から逃げてきたんだよね? ありがと。で、そりゃ命が助かって良かったけどさ、何もこんな辺鄙な所に来なくっても」
バダンはじっとキリエを見上げ、不意に手を伸ばすとぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「わっ――何? どうしたの?」
しばらくは髪の毛を荒らしているだけだったが、がばりと巨体が動き、キリエは抱きしめられる。困惑しつつ、彼女は男の背中に手を回してぽんぽん叩いてみた。
「……どうしたの? 怖かったの? 大丈夫だよ、バダン。もう大丈夫だ……」
物言えぬ牛は何も言葉にできず震えたままキリエをかかえていた。
ふと、見上げた星空を、一筋の光が流れていく。歓声を上げ、バダンをつついて空を指さしたキリエだが、一瞬の奇跡は二度は起きようとしなかった。それどころかバダンがますます動揺を深めているらしく、その晩は巨体をぶるぶるとふるわせて何かに怯えているような彼をなだめることで、キリエはずっと忙しく――ちらりと御主人様のことが頭をよぎったりもしたけれど、そのとき不安も感じたけれど、結局どうにもならなかった。
翌朝、存外近くにあった水場で顔を洗ったり喉を潤したりしたキリエは、改めてバダンが地面に枝で書く言葉を読む。
彼が御主人様から特別な任務を請け負っていたこと。そのためにキリエと一緒に都から離れた所に行く必要があること。しばらくは都に帰れないこと。
キリエは大いに驚き、そして怒る。
「あたし、何も聞いてないんだけど? しかもヤザンのあれは何? ただの嫌がらせとでも?」
バダンは困った顔をしていた。
するとキリエはいつも通り、怒らせていた肩を下げる。
「……あんたに言っても仕方ないね。いいよ、なんのおつかいか知らないけど、早く終わらせよう? で、ちょっぱやで帰ってうんと文句を言ってやるんだ。無茶ぶりにももう慣れたよ。ハイパー好意的に解釈してやれば、それってあたし達がとびきり信頼されてる証拠でもあるんだし、ね?」
牛男は昨晩のように深く思い悩むような素振りは見せなかったが、相変わらずどこか落ち込んだような沈んだ印象があった。それが、キリエが前向きな態度を示し歯を見せると、頭を振って立ち上がる。
それ以降、バダンはいつもの彼に戻っていた。
無言不動ながらも大層物思いに沈んでいた様子は一転し、物静かで落ちついた、けれどけして陰気ではない男となってキリエの旅の道連れを勤める。いや、キリエは旅の目的がわかっているわけではないからこちらの方が道連れなのだろうか。
まったく、脳天気で、愚鈍で、どうしようもない女だと、自分のことを、思う。
あたしはヤザンの一味に気絶させられてから、実は丸一日以上ぐーすかねこけていたことにもしばらく気がつかなかった。旅なんかしたことなかったから、どのぐらい王都から離れているのかなんてちっともわかっていなかった。
……あたしが、本当の事を知ったのは、さらに次の日のこと。
街道が騒がしかった。バダンは最初、街道を離れた所を歩きたがった。御主人様におうかがいを立てることに徒労を覚えていたあたしは、きっとそういう任務なんだろうってとりあえず納得して深い事考えようとしなかったけど、今思うとあんまり早いうちからあたしに事態を悟らせないためだったのかもって気がする。
街道に、出ると。
人が。たくさん走っていた。
物が、たくさん移動していた。
何か、とても騒々しかった。
お祭りか、事件でもあったのかと、あたしはそっと耳を澄ませた。
――ムロフェリが、ついにやったぞ!
何のことか、最初はわからなかった。
けれど、次々に言葉はつながれ、やがて一つの決定的な事実をたたきつけてくる。
――クーデター。
――否。
――革命。
――マリウス朝断絶。
――新政権樹立。
――少年王イライアス二世。
――崩御。
……もちろんそんなの、初めのうちは、聞き間違いか、何かの夢か、悪い冗談と、信じて疑っていなかったよ。
あたしは本当に、分からず屋で……何にも教えてもらってなかったし、結局何も知ろうとなんかしていなかったのかもしれないね。




