小鳥6
「お兄様が構ってくれなくなる?」
リテリアはきょとんと小さく呟いてから苦笑いを深めた。
「そんなの、元からいつかはそうなるってわかっていたことだもの。お姉様にわざわざ言われるまでもなく、当たり前の事でしょう?」
「じゃ、あんたはロスが誰とくっついてもいいってことね」
「まるで興味がないとは言わないわよ、もちろんどなたがいらっしゃるのかは気になるわ。でも、私がどうこう言っても仕方ないことだし、世情に疎い第二王女ごときが口出しすることじゃないでしょう? 私がいくらお兄様をお慕いしていようと、お兄様がいくら私を可愛がってくださろうと、それとこれは別の話。一応私だって王族ですもの、結婚のことについてはわきまえているつもり」
ララティヤはじっと瞬きもせずリテリアを注視していたが、はん、とわざとらしく鼻を鳴らした。
「実に模範的回答だこと、さすがは優等生。で、あんたはそんなことでいいの? わたくしはわたくしとルルセラの伴侶は自分で選ぶわよ。身分やしがらみなんて気にしないわ、ただ一つ、わたくしたちの出す条件を守ることができるなら」
姉の言い出したことにリテリアは思わず目を見張る。危うく間抜けにあんぐり口を開けそうになったが、そこはなんとかとどまった。
「お姉様、まさかルルと一緒に同じ人に嫁ぐつもり? しかも恋愛結婚ですって?」
「もちろん。可愛い妹を一人にはできないもの」
リテリアの耳には、その後ごくごく小さい声で「それにルルはわたくしがいないと何もできないし」と付け加えられたのが届く。
次女が驚いたのも無理はない。
亜人の世界では重婚は認められておらず、一夫一妻が基本だ。新しい妻を迎えるには、前妻が死別しているか、きちんと手続きにしたがって離婚を済ませている必要がある。もちろん、権力者が正式な妻の他に愛人を迎えたり、自分の奴隷に子を産ませることは許容されている。
けれど神や法の下に誓いを交わせるのは基本的に一人だけ。
バスティトー二世の世になってもそれは変わらない決まり事だった。
「女王陛下ならお許しになるわよ、きっと」
リテリアが迷い、躊躇しながらも口を開こうとすると、何かを察知するようにララティヤは先に言葉を上げる。
「だってあの人はわたくしのことを心配なんてしないもの。ルルセラもね。勝手にすればいいって思ってるんだから」
リテリアはララティヤのどこか有無を言わせない雰囲気に、それ以上何か言うことができなかった。
気まぐれで短気な長女は、自分で作り出したしんみりした空気をあっという間に体勢を崩して蹴散らしてしまう。
「あーあ、それにしても、せっかく少しは退屈しのぎになるかと思ったのに、こんな真相だったってわけね、つっまらなーい。ねえルル、あなたもがっかりよね? まさかまさかのロスの完全な独り相撲だもの。まあ、完全無欠でらっしゃるあの横顔の泣き面を想像してニヤニヤ笑ってやれる程度のネタにはなったかもしれないけど」
ララティヤがクッションを抱えてごろごろすると、上に乗っていたルルセラはさっとどいてこくこくうなずいている。妹は妹で一番触り心地のいいクッションを両手の中にちゃっかりキープしていた。
リテリアが姉はいちいち兄のことについて大げさに語ると思いながら再び楽器をもてあそび始めると、ララティヤはその様子をつまらなそうに横目に見つつふと表情を変えた。
「でもねリテリア。ロスのことならそうやっておすましもできるでしょうけど、本来縁談と言えば、わたくしたち兄妹の中で一番問題になるのはあんたなんだからね」
「どういう意味ですか?」
「女王陛下が一番可愛がってるのはあんただもの。ある日突然、これと決められた人が連れてこられて、有無を言わせず結婚させられるわよ。それもあんたに女の徴が来たら、すぐにでもね。わたくし、それで彼女がぼやいているの聞いたもの、この間。そろそろリテリアの婿を探さねば――って、ねえ、ルル」
姉に話題を振られると、妹はちぎれんばかりに首を振って肯定の意思を示す。
兄のことなら適当に流すことのできたリテリアだったが、母の事となれば途端に表情がこわばった。
「それは……つまり、お母様が私を離れさせたがっている、ということですか?」
「さあね。気むずかしくご高承な陛下であらせられるのだもの。何考えてんのかなんて頭の悪いわたくしにわかるはずがないでしょ?」
不安そうな妹にララティヤは皮肉っぽく顔をゆがめて言い捨てると、急に立ち上がり、前ぶれなく歩き出す。
リテリアは虚を突かれて慌てた。
「あ――お姉様、もうお帰りになるのですか?」
「飽きた。別の遊びを探しに行くわ。いらっしゃい、ルル」
「はい、ララ姉様」
気まぐれな長女のことだ。リテリアをからかってやろうと思って突撃してきたものの望む反応が得られず、本人の言うとおりあっさり飽きたのだろう。
嵐のようにやってきて風のように去っていってしまう。
ついでにさりげなく一つ座り心地のいいクッションが持って行かれたが、どうせ山のようにあるしいらないと言っても増えるものなので、リテリアも些細な事は気にしなかった。
それよりも彼女の心の中にぽつんと一つ闇を落としたのは姉の言葉である。
母が自分の縁談相手を探している。
成人の女の徴がきたらすぐにでも嫁がされてしまう。
――母が、自分を切り捨てたがっている、かもしれない。
幼いリテリアには相変わらず母親が何より大切で、母親に関する事が自分に関する事だった。
母は娘を狭い世界に閉じ込めて束縛したが、同時にそうされることでリテリアは母とのつながりを感じ、安らぎに似たものを感じることができた。
その母が、まさかあっさり自分を宮殿の外に出す計画を立てているだなんて。
(ちっとも、知らなかった)
さまよわせた指は手元の楽器に落ち着く。つまはじく弦がたわんでゆるんだ音を立てる。
――可愛い仔猫ちゃん。
母の甘い声を思い出す。
母の優しい手を思い出す。
けれど何故だろう、目を閉じればいつもニコニコ彼女を迎えてくれていたそれらが、今は早く出て行けと形の見えない扉を示す。
(他に行ける場所なんてないのに――)
リテリアははっとして頭を振った。
心に浮かびかけた邪念を振り払おうとする。
今までずっと、何があっても母の言うことを聞いて、母を信じて、母のために生きてきた。
それを――いけないことだ。どんなにささいなことでも、反抗心を、反発を覚えるだなんて。
ところが今までは少し浮かんでもすぐ振り払えば消えた黒もやのような感情は、いつになくまとわりつき、拡散してリテリアを覆っていく。
「仔猫ちゃん、今日は何をしていたの?」
いつも通り帰ってきた母に、次女はいつも通りの人なつこい微笑みを浮かべる。
「楽器の演奏を……」
「そう。楽しかった?」
少し前までは一生懸命一音たりとも漏らすまいと聞いていた言葉が今だけは少しふわふわ浮いて遠くに聞こえる。
リテリアはにこやかに母に応じていたが、気がつけばふとした瞬間に意識が母の胸元に逸れる。
そこにはじゃらじゃらと、色鮮やかな首飾りが揺れていた。
――首飾りの形をした、どこかの鍵が下がっていた。
脳裏に、彼女の絶対のルールであった、神であった女王に何度も繰り返し聞かされてすり込まれた言葉が蘇る。
(あなたの言うことならなんでも聞いてあげる。たった一つのこと以外は)
(駄目よ。それだけは、たとえあなただろうとも許してあげられない)
(宮殿の奥、神域に行ってはいけません。そこには神様がいらっしゃるのですから)
人はどうして、してはいけないと言われることに魅了されるのだろう。
ほの暗い気配のただよう秘密は、どうしてこんなに甘い香りを放つのだろう。
母の初めての裏切りの予感は、娘に初めての裏切りを誘わせる。
リテリアの黒い瞳が、きらりと暗く輝いた。