別離3
「もう来ないと言っていたはずだが、気が変わったのか?」
(……あたしが聞きたいんだけど)
着いた先で苦笑いのような喜色が混じっているような、どこかふわりと浮いた調子のある声をかけられ、キリエは思いっきり顔をしかめている。
バダンの歩く道がなんか見覚えがあるというか割と嫌なことがありまくった場所を目指しているようなと思いつつ、はははまさかそんなことはと打ち消しながら大人しくついていってみれば、案の定ゴールはかの思い出たっぷり大監獄であった。
しかも今回は跳ね橋が下りてこず、堀にこっそり舟を浮かべたり、垂直な壁を縄っぽい何かの補助ありとは言え上らせられたりと、随分な重労働を経て入場を果たしたのだ。
これってどう見ても不法侵入なんじゃないのか、権力やら札束で殴ってくれる主も今日はいないしさすがに捕まるんじゃないのか! と大いに焦ったキリエだが、どうやら見慣れた門番の一人が待機し、協力してくれているようだった。堀で沈められることも、壁を上っている間に上から落とされることもなく、なんとかひとまずは入り口にたどり着く。明らかに非正規のやり方で入ってきても、心得顔(だと思う。中身が見えないからわからないけど)のフード男は二人を手招きする。
「もう、いらっしゃらないかと……とにかく、中へ」
案内人はいつものように囚人四十九番の元へ案内を終えると、すっと闇の中に消えていく。
取り残されたキリエはぜーはー肩を上下させながらバダンをにらみつけるが、いつもの通り牛男からは反応がない。
……というか、いつも以上に反応がなかったのだ。
(大体こんな、明らかに犯罪者みたいな真似しなくっても……いや、そりゃ、今は王様いないから思いっきり招かれざる客なのかもしれないけどさぁ、元から招かれてなかったんだろうけどさあ、さすがにやっちゃまずいことが世の中には――って、え、何? これ? ……あ、あたしが読むの?)
そういえばバダンは喋れない。すると牢の中の目の見えない男とコミュニケーションを取るには、キリエが仲介に入る必要がある。
なるほど理屈は通っているな、と半眼になったキリエは、そのまま特に抵抗なく渡された紙の文面を目で追いつつ読み上げた。
「罪なき囚人よ。大分遅くなってしまいましたが、あなたに自由をお返しします。我々と共においでください……?」
読み上げた言葉の意味を遅れて頭が理解しようとする。
なんだ、これは。一体あたしは今、何を宣言したと言うんだ。わからない。追いつけていない。
ただ、自分がとんでもない宣言をしたということだけは、わかっている――。
「――そうか。匂いがしない……子ども達が来たわけでは、なかったんだな。そうだな、二度と会いに来ないと言っていた。今日来ているのは……おつきの二人だけ、なのか」
不意に、黙り込んでいた囚人が呟く。彼もまた、キリエと同様に何が起こったのか理解に努めようとしていたのだろう。そしてキリエより素早く状況を把握し、結論を出したようだ。声のした方に顔を、青く澄んだ目を向けて、はっきりと答える。
「寛大な処置、痛み入る。あなたは――お前は、俺のことを深く知っていらっしゃるようだったが、俺もきっとここでの乏しい生活なりに、お前の輪郭をつかんでいたように思う。俺はまだ、話をしたかった。だから俺に何かを強制しようというのなら、少なくともその言葉は自分で言いに来るべきだったぞ。……これでもかなりの頑固親父なのだから」
言葉を向けられている方向というだけなら間違いなくキリエの方だ。狭い牢の中、音を頼りに男は語りかける。
だがその光をほとんど失った目は、もっと遠くを見ているような気がした。
キリエを通した、子ども達を見据えている――聞かされている彼女はそんな錯覚を思わず覚えかける。
「同情は無用、恩赦も不要、浅知恵で余計な事をしてくれるな。俺は確かに罪を犯し、ここであがなっていくと決めた。ここまで意地を張ったのだから最後まで通す。お心遣いいただけたこと、ご足労いただけたことには、深く深く感謝する。ですが……これ以上は、結構。あなたがそう決めたのなら俺もこうするまでだ。お引き取りください」
――つまり、これは。
キリエが持ってきたのは、男を公式に、あるいは秘密裏に逃がすための書だったが、受け取った本人が拒否をした。そういうことなのだろうか?
ようやく事態を飲み込みつつある彼女がバダンを見ると、彼は淡泊なもので、どうやら帰り支度をしようとしていた。
(えっ――ええっ? そりゃないよ何やってんのさ、皆してあたしの知らないところで勝手に納得して――何なの?)
後輩従者はきっと目をつりあげ、今はもう目を閉じた白髪の囚人と出て行こうとしている牛男の背中を見比べて、囚人の方にまた顔を向ける。
「あの。でも、もう、イライアス一世は――」
「死んだのか」
おずおずと切り出したとき、バダンはまるで言うなというように急に振り返って怖い顔をし、一方で囚人は静かに先制してキリエを黙らせた。
まるで確信していたかのような口ぶりに彼女が驚き、戸惑っていると、彼は緊張させた雰囲気を和らげる。
「……なんとなく、そんな気がしていた。子ども達が来たときから、そうではないかと思っていた。だから俺は、ここで待とうと思ったんだ。ずっと待つ。来なくても、俺が待っていることに意味があると思うから――」
打たれたように立ち尽くすキリエの腕を、バダンがつかんで引っ張る。
だが、怒っているというより――なんだか彼も、やるせない思いを抱えているような、そんな感じがした。
少し乱暴ではあったが、さっきキリエが痛いと文句を言ったときほど彼の手には力が入っていなかった。
「バダン。ねえ、バダン。あんた、何かあたしに隠してる事があるんじゃないの?」
囚人の部屋がどんどん遠ざかる。
キリエの中で、いくつかのほどけた糸が一本に絡み合い、何かの形を為そうとしていた。
それなのに目の前の、腕をつかんで大股で歩く男が急かすから、考えがうまくまとまらない。
もう少しで、なにかわかるところだった。もう少しで、きっとすべてがわかるところだった。
バダンはキリエの手を離そうとしない。
「……ごめん。あんたにこれ言っちゃいけないことはわかってるけど、でも――あたし馬鹿だから、少ないヒントから先回りして察するなんてできないよ。ちゃんと答えまで言ってよ、何が悪いのか。言ってくれなきゃ、直しようがないじゃん……」
愚痴のように漏れる言葉を、牛男は聞いているのかいないのか。
堀までこっそり戻ってきたとき、一度だけ向き直って、身振り手振りで伝える。
(終わったら、教えられる)
(終わったらって……何が?)
キリエの質問は流された。ぷくっと頬を膨らませてから、彼女はふうと息を吐く。
短気で、怒りっぽいけど、あきらめも早い。それがキリエの取り柄で、こういう性格だからこそ今までやってこれた。
――けれどこのときのことを思い出すと、あたしは少し自分のこの性質が疎ましく感じられるのだった。




