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野獣4

 キリエの身体がふわっと浮き、後ろ向きに吹っ飛んだ。

 ろくに受け身も取れないまま地面にたたきつけられ、土埃を上げて滑る。


「やり過ぎだ、死んだらどうする!」

「亜人相手なら、このぐらいでは――」


 呼吸も止まり、視界がくらつくがかろうじて意識は落ちない。

 落ちないからこそ、逆に苦しい。

 頭部への打撃だったらすぐに意識は刈り取られただろうが、腹部への攻撃はじわじわと浸透する。

 頭自体ははっきりしたまま、気持ち悪さが身体を支配する。立ち上がることなんかとてもできない。


 うずくまったまま嘔吐く彼女を取り囲んだ追っ手達が、攻撃を受けた拍子にこぼれ出たまっすぐな耳を見て叫んだ。


「こいつはウサギだ、猫科じゃない!」

「なんだと? それじゃあっちが――」


 ――ああ、ひょっとして。

 あたしが逃げたから、優先的に逃がされたから。

 それで、バダンは牛の姿を出していたけれど、御主人様とあたしは、まだフードも被ったままで、そりゃまさか、本人が積極的に前線に出てくるなんて思わないでしょう。

 だから、あたしの方が御主人様だって勘違いしたのかな。

 それともよく考えれば、この地形だったら前後で挟み撃ちにされたら、一縷の望みをかけて飛び込む場所はここしかない、だからあらかじめこっちに一番重要な人が逃がされてくると踏んで、待機していたのか――。


 吐きそうで、吐けなくて、息が吸えそうで、吸えなくて。

 腹部を押さえて震えている間にも、キリエの頭だけは妙にすっきり回る。

 なんとなく、作戦の失敗は理解した。


「いや、大丈夫だ。ウサギならやはり、いつも連れ歩かれてる側近の一人、王につながる――」

「小道の部隊が――」

「くそっ、なんなんだ――良い、ここで引き上げる! そいつだけでも持って帰れ!」


 頭上で男達の罵声が響く。

 身体が動いた。動かしたのではなく、動かされる。引きずられ、引っ張り上げられ、ふわっと浮かんで、どこかに運ばれそうになる。


「くそっ、離せ――!」

「――ごめんな」


 もがいて抵抗しようとした横面が、謝罪の声と共に誰かに勢いよく張られた。

 今度こそ、しっかりと脳が揺れた。

 音も、光も、感触も、鉄臭い匂いも、痛みも、すべてが遠ざかって――。




 ――このとき、あたしはちょっと気絶していたようだから、あとで話を聞いてわかったことなのだけど。

 林には、悪路でも走ることができるような、ちょっと高価な馬車や、馬が数頭用意してあったんだって。

 男達はたぶん、最初から表の部隊は陽動で、林に駆け込んできた人を昏倒させて、押し込めて、連れて行く計画だったんだと思う。

 もし林じゃない方に逃げられた時も、馬で追うなり、もっと真面目に飛び道具を使うなり、あるいは本気で走って追いつくなり……まあたぶん、何かしら対策はされてたんじゃないかな。

 本当に、周到に、待っていたみたいだし。


 彼らの見誤ったことがあるとしたら、一つはやってきた一行の内訳の正体を見抜ききれなかったこと、それから圧倒的多勢に無勢の状況だったのに妙に相手が好戦的だったこと、最後のもう一つはバダンとハノンの戦闘力が想定のはるか上を行ったってところだろう。

 攻撃を全部かわしきったらしいハノンもなかなかだけど、吹き矢をはじめ実は何発かもらっていたらしいバダンが普通に動いてた事の方が、こっちには衝撃だった。

 いくら亜人で身体の頑丈さには自信があると言っても、ちょっと硬すぎるじゃないか。

 大体二人が訓練ならともかく、実戦しかも多対一の状況であんなに動けるなんて、側でお仕えしてるあたしだってろくに知らなかった。

 ……これが血筋の違いって奴なのかな? まったく、怖すぎる。



 それにしても、このときのことをあとから振り返ってみると、とにかく不運だったとしか言いようがない。

 襲撃者は乱暴だったけど、たぶんそれだけ追い詰められていたのだし、本人達も言っていたように命までは取るつもりはなかった。

 だからこそ、ハノンもちょっと悪のりして様子を見て、適当に暴れることに満足したら大人しくくっついてったんじゃないかなって考えられる。

 林にあたしを逃がしたのも、たぶんそっちにも人がいることは予測済で、それでも向こうが人の命を取る気まではないから、あたしが逃げ切れるかおっ捕まるか程度で、大したことにはならないと踏んで――それで、最終的な判断を下したんじゃないかなって、思うんだ。

 あいつは時々面白おかしく場を引っかき回したがるから、この推測は合っているはずだ。もう、本人と答え合わせをするってわけには、いかないけど。


 だから、襲撃者にも、ハノンにも……たぶんバダンにも、それからもちろんあたしにも――皆、そのときになってみないと、わからなかったんだ。

 あんな状況になるなんて、誰も思っていなかった。

 誰も望んでいなかった、きっと。


 ――御主人様は、いつもそうだった。




 少し落っこちていたキリエの意識を最初に現実に引き戻したのは、音だった。

 うるさかった――とても、寝ていられないほど、うるさかった。

 その前も、襲撃で怒声や硬い物が当たる音や足音とかで散々うるさかったのだけど、音の毛色が変わっていた。


 よく聞こえる耳に飛び込んで来たのは、絶叫。意味をなさない言葉の羅列。生命の危機に瀕した断末魔。


 激しく揺れて、キリエは呻いた。

 馬車は恐慌に駆られ、必死に進もうとする。

 それが勢いよく急ブレーキを踏んで、キリエは荷台から転げ落ちた。


(あたま、いたい。おなかも、からだじゅう……)


 全身の鈍い痛みにもう一回寝たくなった彼女をとどめたのは目の前の光景だ。

 ふと顔を横に向けた彼女は、視線の先、倒れている物の奇妙な輪郭が目につくのを感じた。


 それは、もがく馬だった。

 馬車なんだから、引く馬がいて当然だ。でなければ動かない。

 けれど倒れているそれの胴には、深々と槍のようなものが刺さっている。


(なんだろう、あれ)


 キリエはまだ、ぼーっとしていた。

 なんだか、何かがとてもおかしい。


 ぐっと、襟首を引っ張られる感覚がして、また脳が揺れかけた。


「来るな――近づくな!」


 首に誰かの腕が周り、キリエはうめく。

 またも落ちかけた意識だったが、しょぼつく目にそれを捕らえた瞬間、すやすや寝ている気分にはとうていなれなくなってしまった。




 特に何の変哲もないまっすぐな道と、その周りの草原。

 そこに、誰かが歩いてくる。

 近づけばすぐにわかったが、キリエのよく知っている人物だ。

 それでいて、まったく知らない顔をしていた。


 キリエは戦慄する。

 彼女を抱えて向かってくる相手に刃を向けている男の震えが伝染するように、ガタガタと歯が鳴り出す。

 本能が全身全霊で警告していた。あれはいけないものだと。


 いつだっただろうか? 悪戯好きで人を困らせるのが好きな悪趣味で、けれどおおむねのことには親切だった彼女が言っていたことを思い出す。



(アタシ達にはあともう一人いるけれど、会わないことをおすすめするわ。とても危険で凶暴、そもそも人語を理解することができない。まあ、よっぽどのことがなければ出てこないから大丈夫だと思うけど――危ないから、普段は皆で眠らせているの。それで本当の命の危機の時だけ、出てくることを許す。アタシ達の最大の脅威でありながら、最後の切り札)


 それは、美しかった。

 白い毛並みに銀の冷ややかな目を浮かべ、至ってリラックスした状態で立っていた。

 至高。孤独。強者。そういう言葉が似合うと一目でわかる存在だった。


 それは、何よりも醜悪だった。

 ゆらゆら揺れる二つの拳を赤黒く染め、無造作に手に持っていた肉の塊をその辺に投げ捨てる。

 暴力。惨劇。死神。そういう言葉を肌に感じさせる存在だった。




 ――ごめん。

 このときのことを、あまり、詳しく語りたくない。

 目を覚ましたあたしは、途中からではあるけど、おおむねの一部始終を見届けた。


 ……一言で、言うなら。

 襲撃者は、全滅した。

 ただの一人も、逃げることも命を乞うことも交渉をすることも許されなかった。


 唯一幸いと言えたかもしれないのは、それ(・・)が拷問官ではなかったことだろうか。

 悲鳴に反応する態度は見せても、その瞳には何の感情も浮かばなかった。

 殺戮を快楽とはせず、作業としていた。


 ただ。ただ。

 あの人は、あのけだものは、淡々と、そう淡々と、千切っては投げ、刺しては引きちぎり、殴打しては踏みつぶし――。


 そういうことを、動くものがなくなるまで、聞こえるものがなくなるまで、ずっと、ずっと、続けた。




 何も他に壊す物がすべてなくなってから、それは倒れた馬車の側で全く動けずにいたキリエの方をゆっくりと向いた。引きはがされて首を引っこ抜かれた男の身体からすら、彼女はろくに離れられずにいた。

 もう一人の姿を探してとっさに顔を巡らせる。

 遠い道で、彼らしき巨体が伏しているのが見えた。

 どちらにやられたのか――考えたくもない。


 もう一度、前を向く。

 被った赤の間からのぞく銀色の双眸がひたと自分を見据えていた。

 ひく、と喉が動いた。

 今までのあらゆることが、一瞬にして頭の中をざっと流れていった。


 銀色の毛並みの獣が、一歩一歩近づいてくる。

 キリエは震えた。震え上がって、声も出せずに、それが近づいてくる瞬間。




 ――このときの自分の行動を、あたしは今も説明できない。

 何を考えていたのか、何を感じていたのかもわからない。

 とても必死だったことは覚えている。


 あたしは、近づいてくる、御主人様の形をした獣に、死にものぐるいで、渾身の力を振り絞って――。




 抱きついた。抱きしめた。すがりつくように、両手でしっかり抱え込んで、全身全霊かけて。

 離さなかった。

 一人にしちゃいけないって。




 そうしているうちに、確かまた、ふっと明りが消えるみたいに、むせかえるような鉄さびや腐臭の匂いの中に、落ちていった。

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