石版4
先代国王であるイライアス一世は、治世の前半は輝かしき母と比べて凡庸であるというような評価しか得なかったが、晩年はすべての義務を放棄した男として名高い。
こよなく愛していた恋人の死をきっかけに精神を壊してしまった王は、起きたり、着替えたり、食べたり、飲んだり、排泄をしたり――そういう、自分の身体を生かすための行動は取る。
けれどその他の一切の外部とのつながりを拒絶し、身体という殻の中に閉じこもってしまって出てこなくなった。当然、公務に出てこられるはずもない。
彼のもう一つ無責任だった――あるいは、正気だった彼なりの最後の仕事のつもりだったのかもしれないが――ところは、狂気の世界に閉じこもる直前にわずか九つの息子に譲位したことだろう。
そもそもイライアス一世は、息子が生まれてから狂い始めたと言っても間違いではない。
十七で婚約者を迎え、その後順調に立太子と譲位の儀を行ったものの、正妃どころか数々差し出された愛妾ともしばらく子をもうけられる様子がなく、やっと懐妊したと思ったら女の不義が発覚――等々の婚姻の不運を繰り返し、二十代も後半になると子種がないか女に興味がないことが半ば公然の秘密となっていた。
国王はなんでもおできになる。子どもを作ること以外。
無責任で無邪気な民草はそう歌った。どんなに男を追い詰めることになるかも知らないまま。
――国王が三十歳の年。異変は始まった。
彼は後宮の奥から産まれたばかりの赤ん坊を連れ出してきたかと思うと、我が子である、跡継ぎにすると宣言した。
祝うべき事ではあるが、他に言うことも多々ある――主に子どもの素性について――騒然としかけた諸侯や部下を、彼は神殿から紛れもない嫡出子として認められたという書状をたたきつけて黙らせた。
イライアス一世はかねてより神殿と懇意にしていた。母親の素性が知れない産まれたばかりの子に、大きな後ろ盾ができていたことは明らかだった。
――けれどこの、我が子の嫡出権を得るために、母であるバスティトー二世が神殿から取り上げた様々な権利を返還したことが、一度権勢を失いかけた神殿を事実上の王太子の後見人にしたことが、後に他でもない彼の溺愛する息子自身の首を絞めることになる――。
基本的に事なかれ主義で何事にも深い執着を見せなかった王だったが、我が子の事に関してはまったく強引で融通が利かなかった。産まれたばかりの子を立太子させて正式な次代国王にしてしまい、乳飲み子にイライアスの名を継がせることもさっさと決めた。
子の誕生から発狂までの九年間、イライアス一世が我が子を目に入れても痛くない程に溺愛していたことは周知の事実である。そして、その溺愛の方法が、ひどく歪で間違っていたことも。
幼いイライアス二世には、イライアス一世の後ろ盾が不可欠であった。
王太子が誕生したばかりの頃はまだ、国政の大事をになうのは絶対的な君主である国王イライアス一世であった。
ところが、国民の意識は揺れ始める。
一度目は、王太子イライアス二世七つの年。
絶対君主国家の礎を築き、人心をほしいままに操ったバスティトー二世の崩御がきかっけであった。
結局のところ、人が一番恐れていたのは他でもないこの女自身だったのである。
バスティトー二世の直系は、かの恐怖の大王の面影を色濃く宿していた。息子の事に関すると豹変して過剰に苛烈になる様はまさに、幾多の国や都市を滅亡させ、草原に串刺しの死体を並べ、先代女王の皮を剥いで処刑した――それでもその大量の血の海から征服先の富をかきあつめて大いに国を富ませた、絶対的な雌猫神の系譜そのものであった。
その現人神が死んだ。
この辺りから、頭を押さえつけていた重しがなくなったとばかりに浮ついた者達が出てくるようになった。
それでもまだ、国王イライアス一世の目がしっかりと光っていた頃は、不埒な考えは水面下で話される程度、悪い冗談程度にしか考えられていなかった。
――そこに、あまりにも早すぎる譲位、そして最大の庇護者である一世の発狂であった。
彼は父としての愛情は惜しみなく振る舞ったかもしれないが、王としての引き継ぎは皆無だったと言っていい。おそらく自分が息子の成人前にあっさり倒れるとは予想だにせず(しかも身体ではなく精神の方を病んで、である)、ゆえに計画の頓挫は不幸であったとも評せるが――やはり、あらゆる意味でイライアス一世が無責任であったことは否めない。
母親の素性という、けして本人が好評できない、つまり言い訳に使うことができない杭を、胸に打ち込んだ事も含めて。
イライアス二世はまさに、勝手に高い所に上げられて降りる術をなくしたどころか、自分を覆う盾も周囲に対抗する矛も取り上げられたような状態だった。
はじめのうちはそれでも先代王の状況を秘匿し、なんとか少年王を守ろうとした動きもあったが、他ならぬ一世の振る舞いによってとても隠し通せる状況ではなかった。
ゆえに、二代猫王に抑圧されてきた者達の、長年つもりに積もった鬱憤の矛先は、幼くて抵抗のしようがないわずか九つの子どもに向けられる。
あたしが出会った十二の年に彼が完全に分離していたのも無理はないと思う。
彼は父から子どもであり続けることを許された――むしろ、強いられて生きてきたのだ。それが、父が死んだ瞬間一気に子どもであることを責められるようになる。
いや、少年王が何をしても誰かが彼を全身全霊で否定した。
そして五年後、一世がついに眠りからも覚めない状態になり、一週間後に息を引き取ると、混乱と混沌はますます激化した。
少年王本人の意向は全くの無視、置き去りにして、大人達は勝手な勢力争いを――そして跡継ぎ問題を議論し始める。
一世が一人息子しか残さなかった以上、そして残る三姉妹達も子を残していないか行方知らずになっている以上、王朝の断絶の可能性がかなり深刻な現実問題として存在する。
……大人は、勝手だった。
彼の子を望むもの、望まないもの。
直系の不在をいいことに座に納まりたい者、それを推したい者。
元々傀儡王の下にあって形骸化し、意味を失いつつあった議会は完全に本来の機能を停止した。
そして普段は口喧嘩を絶やさない彼らが、一つだけ団結して口にする言葉があった。
それもこれも、物事がうまくいかないのはすべて王が悪い。
幼く愚かな王がその座におさまっていることが悪い。
そもそも彼がそこに座っていることが不当である――。
イライアスは。
あたしの御主人様は、父親みたいにすればよかったのに、そういうことがあっても怒らなかったし、厳しく罰することもなかった。
どうしても見過ごせない時以外、ただただじっと目をつむって、嵐が過ぎるのを待っていた。
そういう態度が一層奴らを調子に乗らせるんだって、あたしは歯がゆくて怒ったこともあった。
するとあいつは、あいつらはどこか困ったような微笑みを浮かべて流した。
今になればわかる。イライアスは、あいつらは、そんな中でもレィンの幻想を守りながら、確かに静かに待っていたのだ。
嵐が過ぎるのを、ではない。
嵐が来るのをこそ、待っていた。
やがて、無能な為政者達を誅しにやってくる、義憤にあふれた民草思いな、歴史の改革者の訪れ――。
それは、ジローディア、またはムロフェリと呼ばれた女だった。
……そうだね。じゃあ、いよいよそのときのことを、話してみようと思う。
国の終わりの気配を感じてか、御主人様のどうにも煮え切らない態度のせいか、あの時はあたしも大分気が立っていたんだ。そういうあたしの煮詰まったところを見かねたのか、それとも他に思う事があったのか、ともかく。
きっかけは、レィンの恒例の母親訪問の時の、ささやかな差異からやってきた。
それは、イライアス二世が毒を飲む、一月前の事――。




