石版3
交代人格達は皆囚人四十九番に懐いているようで、彼の前では普段とはひと味違った姿を見せた。
横で見ていたやりとりから推測するに、囚人の方は御主人様の正体を知らないようだった。
平気で監獄に入ってこられるところや、ありとあらゆる差し入れを持ってくるところからして、それなりの身分の相手であることは漠然と推し量れていたことだろう。
けれど御主人様達は自分からはけして名乗ろうとしなかったし、囚人は目が悪かったので情報が制限されていた。
彼らの関係は不思議だった。
気の置けない友人のようであり、師と弟子のようであり、ともすれば家族のようにすら見えた。
お互いに相手のことをよくわからないのに――いや、御主人様が囚人のことをある程度知っているらしいから、相手のことが全くわかっていなかったのは囚人の方だったのだが――奇妙な親しさと信頼がそこにはあるように思えた。
そう、彼の前で、御主人様はとても自由だったのだと思う。
今思えば、この人なら自分を傷つけないという安心感が、囚人にだけは芽生えていたのかもしれない。
彼は囚人だからどこにも逃げられなかったし、おまけに身体に欠陥を抱えているから物理的に襲いかかってくることもできず、それでいて精神は全く腐ることがなく、穏やかで温厚で、人なつこい男だった。
薄暗い牢の中にあって、まるで聖人のごとき輝きが、光を失った目に宿っている、そんな錯覚を覚えた。
別れ際もかわりばんこに入れ替わった主達は、順番を待つ子どものように順に男に頭を撫でさせ、別れを惜しみつつも満足げな様子で独房を離れた。
帰り際、ハノンに戻った彼女は看守に賄賂を惜しまず、無言で受け取った無愛想なフード男はこの次の取り次ぎとその間の囚人の生活の維持を約束させられていた。
結局この囚人が一体何者であるか、どうして足繁く通い詰めるのか、御主人様は自分ではあまり教えようとしてくれなかった。
一応、四十九番の罪状が反逆罪であることと、あそこに彼を閉じ込めたのはイライアス一世の方、ゆえに男が「我慢比べはまだ続きそうだ」と言ったのは自分ではなく父王の方に対してであるということ、その程度の情報だけが与えられた。しかもそれは後々イライアスをつついてようやく聞き出した情報だった。
囚人が御主人様、特に交代人格達にとって特別な存在であることは明らかだったのに、ハノンを問い詰めればはぐらかされ、フォクスライには罵倒を返され、ノードルにはいつも通り何も聞こえていないふりをして流された。
それどころか、逆にあたしに「自分の正体を相手にちらつかせでもしたら即刻追い出す」と軽い脅しをかけてきたのだ。いきなり何の説明もせず連れて行った癖になんだ、あたしがあの場で暴露しててもあたしのせいにするつもりだったのか、と憤慨した。
今なら思う。
あたしは、あたしが思っていたよりもずっと、あいつに、あいつらに頼られていたんだろうって。
それに、あいつはいつも、あたしにはさっぱりわからないような深いところや色々なつながりを知っていて、考えていて、それでどこか遠いところばかり見ていた。
――布石だったのかもしれない。
バダンは喋れなかった。手足や目や耳になれても口がきけなかった。
あたし、今ならちょっとわかる。
あいつは、あたしの口がほしかった。あたしが従順すぎず反抗的すぎない奴なのもよかった。だから拾って側に置いてくれてたんじゃないかなって。
こんなことは全部終わった今だから言えることで、当時のあたしは御主人様の真意がわからないままに、一生懸命後ろをくっついていっては無様に振り回される事を続けていた。
レィンとおままごとや秘密のお忍びごっこをして、遊ぶことにも慣れた。
イライアスについていって従者の役を務め、王宮の別の部署の人達と大事になりすぎない程度に応酬をすることにも慣れた。
フォクスライの嫌味を適度に流し、時に言い返し、たまには部下として尻ぬぐいをすることにも。
ハノンに翻弄され、からかわれ、納得しきれないながらも苦笑を浮かべて次の気まぐれを待つことにも。
ノードルの無気力さを援助し支援して、他の皆が戻ってくるまで見守ることも。
時折顔を見せる、彼らの統括者のつぶやきに耳を傾けることにも。
あたしは、慣れた。
月が変わって、季節が過ぎて、年も越えて、毎日がせわしなくて、必死で、一生懸命で、だから、そうやって生きているうちに、すっかり御主人様に、御主人様の謎を抱えたまま合わせるのに慣れきっていた。
御主人様が、部屋から出てこない寝たきりの父と、部屋で母親のふりをしている元世話係の女と、それから王宮を抜け出して監獄の囚人に会いに行って――その周期的なお見舞い習慣にもすっかり馴染んだ。
御主人様に拾われて一年が過ぎる頃、あたしの母親が死んだ。
一応、ヤザンに連絡を受けたあたしはいよいよ症状が危なくなったらしい夜から付き添って――それで、看取った。なんていうか、そっちの方があたしがすっきりすると思ったから、そうした。
粒毒にすっかり顔を覆われてもはや見る影もない母さんだったけど、毒が回りきったせいで痛みもなくなったらしく、指を動かしながら幸せそうにだみ声で鼻歌を口ずさんでいた。
そういえば、声はこの通り駄目だったけど、代わりに弦楽器が弾けて、かなり上手だったのだ。
――お前の父さんも、弦の腕で引っかけたのよ。あたしは身体は良かったけど、顔はそこまでじゃなかったからね、他の女の子達に張り合うために一生懸命芸を磨いたもんさ。あれはね、遠目にもちょっと目立ついい男でね、来い来いって念じながら必死になって奏でていたら弦が切れちまった。ところがねえ、それでこっちを向いてくれたのさ、見てあげようって指を取ってさ――どきどきしたねえ、何も言えなかった。そりゃあ何人も相手にしてるからねえ、定かじゃないけど、たぶんあの人の子さ。夢みたいな一晩だった、ええ、一番いい時だったんだよ――。
あたしはいつの間にか目からうっかり水をこぼしてしまっていたようで、慌ててぬぐった。
今のはなんだろう? いつ言われたんだろう、そんなことあったっけ……あったかもしれない、酔っ払うと上機嫌の隙だらけになる女だったから。その直後に不機嫌になって暴力をふるうところばかり、覚えていたけれど……。
あたしはそこで気がついた。
音がなくなっていた。
傍らで控えていてくれた医者が、そっと身体を伸ばして脈を取って、言った。
ご臨終です。
ため息にしては大きくて重たいものが、あたしの口からもれ出した。
宣言通り、略式に葬儀を済ませ、公営の集団墓地に骨を埋めた。
御主人様と、バダンと、ヤザンが付き添ってくれた。
やっぱり、あたしは母の死骸を見ても、それが灰に戻っていく様子を見ても、涙が出ることはなかった。
母が死ぬまでや葬儀を見届けたり手伝ってくれたりしたのはそれぞれフォクスライとハノンだった。
二人とも珍しく何も言わずに、ただただあたしのことを横でじっと眺めていた。
外では全然平気だったのに、王宮に帰って、イライアスに大儀であったと、レィンにお疲れ様と順番に声をかけられたとき、なんでか涙腺がゆるんで止まらなくなってしまった。
時折しゃくりあげるあたしの両手を一晩中黙って握っていてくれたのはノードルだ。
彼は黙って受け入れるのが本当に上手で、あたしが自分でも訳のわからない言葉を口走っても動じず、時折静かにうなずきながらじっとあたしの癇癪が終わるまで待ってくれていた。
明くる朝、すっかり酷い顔になったあたしを、複数の人格達は思い思いに好き勝って言ってきた。
ある者は呆れ、ある者は笑い、ある者は心配し、ある者は事務的に今日の業務内容を告げてきた。
あたしは何度も顔を洗って、腫れた目のまま笑い――それで、たぶん、そのときだったと思う。初めて自覚した。
ああ、あたし、このわけわからなくて、どうにもならない人達が――人が、じゃなくて、この人達皆であり、この人である人達が――好きかもしれない、好きだから離れられないや。
……自覚したから、どうってこともなかったけど。もやもやしてた気持ちの名前が一つわかっただけで、あたしはあたしたちの関係がこのまま変わりようがないことを知っていた。
御主人様は、時折大人達に連れられていった。女の人も――男も、いた。彼は特に表立っては逆らおうとしなかった。大抵、そういうことをするのは、訴えたってどうにもならない相手だったから。親の庇護を得られない彼は、一生懸命どうやったら自分の場所が得られるか、自分の望みが叶えられるか、考えたに違いない。その一つの答えの形が、それだった。
あたしはそういう夜は眠らずに御主人様が帰ってくるのを待った。
朝まで待って、朝一番で身体を洗った。隅々まで、綺麗になるように、うんと念を込めながら洗った。
時には何も言わない御主人様の代わりに怒ったり、愚痴をこぼす御主人様に付き合ったりした。
それ以上あたしにできることなんかなかった。
あたしは二十にもならない小娘で、何の後ろ盾もない、むしろ御主人様にいつも庇ってもらってばかりだった無力な小市民だった。
あたしは御主人様が好きだった自覚があった。
恋愛とか、胸がときめくとか、そういう感じはあまりなかった。
ただ、ただ、一緒にいて、同じ時を過ごしたかった。
だからそうした。
あたしの母親が死んだ以上、いつまでもそれが続くと思っていた。
――二年後。たった二年後だった。
壊れきった、それでも理想的な世界は終わりを迎える。
レィンは十四歳、あたしは十七歳の冬の日だった。
――先代国王イライアス一世が、ついに眠りから目覚めなくなったのは。




