塩水2
ハノンとヤザンの言葉の意味が理解できないまま、キリエが事態を把握し切れていないうちに、勝手に二人は話をつけてしまったようだ。
案内されてその室内に入った瞬間、キリエは思わずとっさに鼻を覆った。
ふわっと香ってきたのは、腐った果物のような、なんとも言いがたい不快感を誘う異臭だ。
ヤザンの豪邸のゲストルームの一つらしい部屋に、彼女はぽつんと置かれていた。
一瞬誰かわからなかったのは、記憶より大分しぼんでいるからだ。
でっぷりふくれて動く度に揺れていた腹はすっかり標準体型にまでひっこみ、二重顎も消えている。
またそのふてぶてしくも貧民街であらゆる人間を押しのけてうまみをすすってきた傲慢な表情は、すっかり呆けきってよだれのあとが見えていた。
「……なに、これ」
呆然とキリエが言うと、反応したのだろうか、あうう、と言葉とはとてもいいがたい声をやつれた女がもらした。だらしなく笑う女の目に覇気も光もない。
ハノンがゆらりと優美な尻尾を揺らしたのが目の端でわかった。
「アンタのお母さんよ。大分変わっちゃったから、わかんないかもしんないけどさ」
「これは……あなたたちが?」
「んー、そう言われるとちょっと心外、かなあー?」
なんとも言いがたい顔でハノンとヤザンに目を向けると、あなたから説明してやってとでも言うように主は男の方に目をやった。すると小太りの中年男は咳払いしてから穏やかな口調で話し出す。
「この人はね、ボクちゃんがハノンたんにあげたお守りを持っていたから、連れてこられたんだ。お守りは、ハノンたんが裏路地で遊んでも危ない目に遭わないようにってことであげたの。あれ出しとけば話の通じる相手は彫ってある模様ですぐ意味を理解するし、話の通じない相手はハノンちゃん本人が避けたりそこの牛君がなんとかしてくれるんじゃないかなってことだったから。本当はずっと警護をつけておきたいぐらいだったんだけど、ハノンたんが嫌がるから妥協の結果なのだ。まあ、撒き餌に使われちゃうとは思ってなかったけどねー」
豚の亜人は人差し指同士を合わせ、じとっとした目を美少女に向けた。彼女はしれっとした顔で中年親父からの無言の抗議を流している。
キリエ方と言えば、レィンが最初に人格交代をしてフォクスライからハノンにつなぎ、彼女がバダンから地味な塊を取り出させて投げつけていた光景を思い出していた。あれはそういう意味だったのか、と今にして納得する。
ヤザンは話を続けた。
「でね。最初は恐喝か盗難かと思ったんだけど、話聞いたら本当にどうやら本人からもらったらしくて。そうすると、ハノンたんがボクちゃんに面倒ごとを押しつけるためにお守りを使ったのか、本当に気に入ってちょっと豪勢に遊べる特権として渡したのか、どっちの意図だったのかなっていうのがわからなくてね? ハノンたんだったらどっちもあり得るから」
今度はキリエがくるっと振り返って主に半目を向けた。やっぱり彼女はそしらぬ顔を続けている。
「で、まあどういうつもりなのって連絡したら、そのまま泳がせといて、めんどくさくなったらいつでも切っちゃって構わないからって、まーたこっちを困らせる事言ってきてきてね? まあしょうがないなーって一月ぐらい適当に遊ばせてたんだ。……そしたらねー、元々持ってた奴がさ、出てきちゃったらしくって。それもこう、なんていうか……頭に回っちゃったみたいなんだよね」
ヤザンはとんとん、と頭の辺りを叩いて見せた。それを踏まえてキリエがもう一度えへえへと不気味な笑い声を立てている女に目を向けると、女の乱れた髪の下にぼつぼつと粒のような塊が浮き出しているのが見える。よく見ればそれだけでなく、顔中、いや身体中に薄く赤色の発疹が散らばっていた。
――否。女には元から身体中に薄い斑点模様があったのだ。ちっとも症状が表に出てこなかったからそれなりに健康に見えていたけれど、病魔は静かに侵攻し、一気に芽吹いたらしい。
「……粒毒」
キリエの震える唇は、この典型的な症状から導き出される病名を呟いた。
粒毒は貧民街、とくに劣悪な状況で売春を行う者にはおなじみの性病だ。経口でも感染することがあるため非常に広がりやすい。
粒毒という名は症状が悪化すると皮膚に粒状の塊が浮き上がる事に由来する。初期の斑点がうっすら浮かび上がった時期に良い医者にかかって薬を飲み始めれば大事には至らないが、貧民街の者は粒が出るまで無理をして結局倒れるのが落ちだ。
病気が進行すると、身体が思うように動かなくなったり頭に毒が回って精神に変調を来したりするようになる。キリエの母親はちょうどこの頭に行ってしまった方の典型らしく、昔の欲と生気に満ちあふれたいた様子は今や見る影もない。
「遊ぶ金や場所ぐらいはくれてやるけど、医者や薬をわけるほど親切にしたくなる相手でもなかったしね。本人だってねだってこなかったし。見てわかるとおり、この調子だともうあんまり長くない」
中年男の冷淡にも聞こえる説明を流し気味に聞き、声もなく様変わりした肉親を見つめるキリエの肩を、ぽんと叩いた者がある。
彼女の主だった。
病気でやせ細り、まともに言葉も話せなくなって指をしゃぶっている醜い女を底冷えのする目で一瞥してから、御主人様は従者に慈愛の聖母のごとき優しいまなざしを向けてくる。
「ね、キリエ。アンタ、ずっとあいつのこと、邪魔だと思ってたでしょ? あんな親、いなければいいって思ってたでしょ? だからあげる。復讐の機会を。ほらね、ちょうどよかったじゃない。見てよ、こんなに無様になってる。笑ってやれば?」
人の心を浸食する、悪魔のように美しい声で、彼女の主はそっと顔を寄せて歌う。
それが心底愉快でたまらないという顔で、一方で、キリエには本当に感謝しているという顔で、思考を惑わせるような独特の抑揚をつけて語って聞かせる。
「この数ヶ月、あなたはアタシ達にとってもよくしてくれた。だからアタシはあんたにお礼をしようと思った。さ、これがプレゼントよ。あんたにこの女をあげる。煮るなり焼くなり好きになさい。アタシとヤザンとで後始末はどうとでもしてあげるから」
甘い声で囁きながら、ハノンがキリエにそっと握らせてきたのは短剣だ。どこから持ち出したのだろう? ずしりと掌に重たいそれを、キリエは落とすこともなく受け取って立ち尽くす。
狂女に目を向けた。片方だけ垂れた長い耳、目のわきの泣きぼくろ、細くて柄が悪く見える目、厚ぼったい野暮な唇……ところどころ、女の特徴はキリエのよく知っているものと一致している。痩せるとより一層キリエとの血のつながりを感じさせた。特に鼻と耳の形は、キリエは母親にそっくりな自覚があった。
確かに憎んでいた。堕胎し損ねて産んじまったんだからキリキリ働きな、と公言してはばからなかった母。父がわからず頼れない以上、キリエの親は彼女だけだった。育ててもらったという自覚はほとんどない。思い出せばいつも怒鳴られたか酷い目に遭わされていた記憶しかない。
――あんたのとこなんか、いつか出てってやるんだから。あたしはあんたみたいな、醜い女にはならないんだから。
そう思って生きてきた。あまりの仕打ちに殺意を覚えたことだって、母がいなくなった夢に快哉を上げた事だってあったはずなのに。
それなのに、今こうやって凶器を持たされて無力な母を前にしても、何の感慨も湧いてこないのだ。
喜びも、怒りも、悲しみも、憎しみも、恐怖も――何も。最初の驚きと衝撃を過ぎてしまえば、ひたすら虚無感のようなぽっかり穴の空いた感覚だけが残される。
何を感じたら、考えたら、思ったらいいのか、わからない。
親だから、愛せばいいのか。
親だから、憎めばいいのか。
それとも、別に答えがあるのか。
キリエはただ困惑して棒立ちになってしまっていた。
「キリエたん。無理はしなくていいんだからね。なんなら今日は保留で、別の日に決めるまで待つって言うのもありだし」
そんな真っ白になってふらつきそうにすらなっている彼女を支えるように触れて優しい言葉をかけてきたのは、ハノンではなくヤザンの方だった。
中年の男はしばらくの間ハノンとキリエを大人しく見守っていたが、キリエがあまりに顔色が悪かったからだろうか、こそこそ歩み寄ってきて眠たそうな目をキリエに向ける。
「ハノンたんは今、命令してるわけじゃないから。本当に、単純に、君にご褒美をあげたいだけなんだと思う。ご褒美って言うには悪趣味が過ぎるかもしれないけど、そこはまあ……その、なんていうか、悪気はないから。あのね、こういうことにセオリーや絶対はないから、親殺しがどうのとか、そんなことしちゃ駄目だとか、ボクちゃんは言うつもりはないよ。その方が君がすっとするならそうすればいい、ただそれだけのことなんだ。ボクやハノンたんにとっては、それだけの問題なんだ」
ヤザンはそっとキリエの短剣を握ったままの手を取る。
少しだけ、彼女の手の中の重みが支えられて軽くなった。
「でもね。一方で、この手が動かせない事を恥じる必要も、全然ないんだよ。憎いから殺したいとか、人の気持ちってそう単純なものじゃない。殺さなくても、殺せなくても、ハノンたんは君を責めない。それだけは理解しといて」
ハノンは、彼女の主は、彼女の主達は黙っていた。
彼女は最初にそそのかすような事を言ってのけた割に、ヤザンが喋っている間は何もしようとしない。
ただ、薄く唇を上げて、愉快そうに、あるいは退屈そうに、キリエのことを待っている。
「たぶんさ……君にとってこの選択は、どこに転んでも嫌な思いをするものなんだ。だったら、後悔が軽くなるような方にするといいんじゃないかな。けじめのつけ方は、一つじゃないから」
キリエにとっては今日会ったばかりの赤の他人の言葉なのに、何故か心にしみ通るような感じがした。
それは、けしてきれい事ばかりでなかっただろう、むしろ人の汚い部分ばかり見てきたであろう裏社会の実力者の経験の重みだったのかもしれない。
短剣を持ったまま、キリエは進んだ。異臭が増す。
キリエを見上げて、えへえへと女が笑った。黒い目もまた、母と娘で同じ色をしている。
母はキリエに向かって手を伸ばしていた。何かを訴えかけているように見えるが、わからない。
キリエは同じ高さに目線を合わせるべくしゃがみ込んで、その焦点の定まらない黒目をのぞき込んだ瞬間、悟った。
かける言葉がない。――ないのだ、目の前の女には、何も。
えへえへ、と彼女の前で母は何が楽しいのだかだらしない微笑みと声を上げ続けている。
すっと、頭が冷えたような感じがした。
キリエは立ち上がる。同時に手から鞘に入れたままの短剣が滑り落ちていったが、拾い上げることもない。
「ふーん。それでいいの?」
「いいんだよ。普通の人はこんなものさ」
「せっかくアタシがセッティングしてあげたのに」
「ハノンたんは時々強引すぎるんだよぅ」
じっと目を閉じて呼吸に集中し、気分を落ち着かせようとしていると後ろから会話が聞こえてきた。
振り返ると、どこか安堵したような様子のヤザンと、どこか不満そうなハノンが目に入る。
キリエは主としっかり目を合わせてから、キリエから興味を失い、自分の髪を食み始めている狂女をちらりと振り仰いで静かに話す。
「……ずっと、この女の首に刃物を振り下ろす夢を見ていた。病気で倒れたら、耳元で死ぬまで散々恨み事を、今までされてきた酷いことを並べて言ってやるんだって思ってた。だけど、あたしが倒したかったのは、復讐したかったのは、元気だった頃のこいつだ。……今はもう、何の未練もない」
奇声が上がったが、今度は完全に無視をした。狂女の方を見ないまま、部屋を出て行く。
「だから、これ以上、あたしはこいつに何もしない。何も、してやるもんか――」
そこまで言い切ってから、キリエの視界がぐにゃんと歪んだ。
御主人様の、返答なのか、独り言なのか、ぼそっと言っているのがふと耳に届く。
「あんたってやっぱりいい子なのね。アタシとフォクスは、ちょっぴりあんたのことが嫌いになったわ。でもレィンとイライアスは、あんたのことをもっと好きになったでしょうよ」
倒れ込むのを誰かが支えてくれた感触を最後に、緊張が限界に達して一気にゆるんだせいか――彼女の意識は闇の中に吸い込まれていった。




