浸食4
キリエがレィンの両親の異常な状況を知ってから、大体月一の「両親」参りにも目をつむり、黙ったまま仕え続けてさらに三月ほど経過したある日の朝だ。
「明日は外に出かけるからそのつもりで」
身支度をととのえている最中のイライアスが、ふとそんなことを言い出した。
外? と一瞬キリエは疑問を抱きかけたがすぐに理解した。内宮と外宮のある王宮がややこしい。イライアスが日々通っている外宮の事なら何を今更と一瞬思ったが、彼の今言っているのはそのさらに外、王宮外ということだろう。
彼は実年齢よりも下手をすると幼い印象をもたらすレィンと対照的に、ずっと大人びて見える。嗜好も正反対と言ってよく、レィンの格好の時にイライアスに戻ると嫌そうにするし、イライアスからレィンが出てくると彼女も自分の王の格好に大層居心地悪そうにする。
少女が自由の担当なら少年は不自由の担当だ。彼女がおしのびとうそぶいて市街に遊びに出かけることがある一方、彼は外宮や内宮であくまで大人しく真面目に仕事をしている事が多い。
外に出かけるということはどこかへの視察だろうか、そんなの事前に聞いていたっけ、とキリエは内心首をかしげている。
本来なら、従者は主の予定を把握していて当然、怠慢だぞと責められるところだろうが、大分こなれてきたとは言え、キリエはまだまだ新参者だ。そしてそれ以前の問題としてレィンの人格達の誰もが彼女の予想外の行動を取ってくるのがいけないのだ。比較的まともな方の性格をしているイライアスとて、けして例外ではなかった。朝起きて思いつきの気分でその日の予定を変更した、なんてことだってもう、既に過去に何度も起こされている。正直彼は根が優等生風なだけに、たまにそういう気まぐれを起こされるとまったく行動が読めなくなる、ある意味一貫して自由な他人格に比べて一番やっかいなタイプだった。
それでも新米が振り回されつつなんとかくっついていけるのは、主が気まぐれなりにちゃんと自分のすることを把握しており、さらには喋れないこと以外はなんでもできるんじゃないかと言えるほど有能な先輩従者バダンの存在があるからだろう。
「どこにいらっしゃるのです?」
……だからたぶん、今記憶をたぐってまったく検索に引っかからなかったと言うことは、定例行事ではなく当日の思いつきなのだろう。前日に言ってくれただけマシな方だ。
そんなことを思いながらまずは行き先をキリエが聞いてみると、彼は何気なく答える。
「母上の墓参りだ、もうすぐ命日だから。……なんだ、急にどうした」
キリエはかろうじて主に顔を向ける事は防いだが、盛大に吹き出した後咳き込んだ。それでも自分のリアクションが適切だったという自信がある。
レィンと同じ顔、同じ身体の少年のくせに、しれっとこういうことをしてくるのだ。これだから彼女の主はいつまで経っても心臓に悪い。
「あの……お母様は、既にお亡くなりになってらしたのですか?」
「知らなかったのか?」
「ええとその……今お母様の部屋に誰かいたり、とかは」
「変なことを言う奴だな、死人の部屋だぞ、別に何も――ああ、そうか。ひょっとしてお前、私が寝ている間に見たな? あれは母上の元世話係だ。父上の意向もあって引き止められている、それだけだが」
それだけってなんだ絶対それだけじゃないだろ、いやなんとなくまったくつじつまの合わないレィンのあれこれとか、あの異様に暗く毎回頭が痛くなるほど香を焚きしめている部屋の鳥籠から予想してなかったわけじゃないんだよ、たぶんこれもう少なくとも母親の方はあれなんだろうなって。でもまさか本人の口から出てくるとは思わないじゃん、ああ違うやこの人は本人だけど本人じゃないから普通に別の事を喋ってくる可能性も十分あるのか、本当にややこしいな!
一生懸命口を閉じたまま忙しいキリエだが、たぶんしっかり苦悩の様子が表情に出ていたのだろう。帯をしめ終わったイライアスの目が愉快そうに笑っている。
けれど一従者の身分でそれ以上主の家庭事情に突っ込みを入れるのもどうかと思う。キリエは黙っていつも通り朝飯の場までくっついていったが、イライアスもまたいつも通りパンをかじりながらふと顔を上げた。
「私の両親のことが気になるか?」
キリエはまた咳き込んだ。助けを求めてバダンを見上げると、こういうときのセオリー通りにそっと目をそら――すかと思ったら、珍しくじっとキリエを見つめていた。お前はどうしたいのか、と問いかけるように。
キリエはそっと主に目を向ける。
イライアスはパンに油と塩を塗って味付けをしている。レィンの時は朝ご飯は添え物のフルーツ類に積極的に手を伸ばすが、イライアスの時は主にパンや卵をつつくのが忙しい傾向にあった。
……確実に、聞かない方がいいような胸糞悪い話なのだろうけど、正直すさまじく、超、気になる。
キリエの顔の葛藤を読み取ったのだろうか。イライアスはパンを口に放り込む前に手を下ろし、そのままなんてことはない独り言の体で話を始めた。
「私の母は元々人妻だったんだ。横恋慕した父は、ありったけの権力を使って、前夫と産まれて間もない娘とから母を引きはがし、王宮の奥にある豪勢な鳥籠の中に閉じ込めて日夜通い詰めた。その執念の末にめでたくできあがったのが私ということだ」
……うんやっぱり出だしから全力でろくでもなかったというか、朝ご飯食べながらする話ではないと思うな! 一応この部屋、従者以外にも給仕の人とか警護の人とか近くに控えてるんだし!
早速起立したまま嫌な汗がだらだら出てきそうになっているキリエを放っておいて、少年は話を進めてしまう。
「別に珍しい話でもないだろう? いつの時代もあることだ、表にはあまり出せないがな。私は記録上王妃との子になっているが、実際には私生児ということになる。父が神殿と癒着してくれていたおかげで玉座につくのには困らなかったが、私を快く思わない者が多い理由の一つはこれだな。出自がどこの馬の骨とも知れない、本当に王の子か? ……私は彼らの言葉に反論できないからね」
基本的に、王位を継ぐ順番として一番優先されるのは嫡出子、王と王妃の子どもだ。けれど政略結婚で嫁いできた正室と歴代国王が問題なく仲良くできていた事の方が少なく、王妃以外の妾を後宮に囲って産まれてきた子の中から有望そうなのを王妃の養子にして後々王にする事が、いつの時からか一般化されていた。
かの高名なるバスティトー二世とて、王と妾との間にできた子、庶出だ。彼女の場合他の直系血統がエルイネス女王によってことごとく摘まれていたことと、本人の雰囲気に文句のつけようがなかったためそこまで文句の声は出なかったが(というか大きな文句を言った者はもれなく城門の飾りになっていたわけだが)、その子である先代国王と三人の姉妹の父親も出自不明だ。ただしバスティトー二世は女王であり、彼女の四人の子達が紛れもなく彼女の産んだ子どもであるというのは疑いようもない。ところが先代国王が不義の果てに産ませたレィン――イライアスには王の実子であるという確たる証がないし、祖母の時代には彼女の力で抑えられていた不満を、今の傀儡王ではどうすることもできない。
そんなちょっとした補足説明を間に挟んでから、イライアスは話を続ける。
「父は公事に関しては無関心で凡庸、おおむね公正な王だったが、私事にはとびきり残酷で嫉妬深い男だった。愛人がどれほど甘やかしても自分に振り向かず前の家族を恋しがって泣くのが許せなくて――あるときついに凶行に走った。前夫と長女を殺せば自分の子に愛情が向くと考えたようだが、完全に逆効果だった。母は私を産んで、すっかり心と身体を壊してしまった」
少年が黙ると、彼が動かない限り、辺りはしんと静まりかえる。
銀色の瞳がすっとキリエを見据えた。瞬き、呼吸どころか鼓動すらも忘れかけている錯覚に陥っている従者に、色の読み取れない目を向け、うすら笑みを浮かべた口元が動く。
「――母は。優しい人だったよ。ずっと、鳥籠の中で夢を見続けていた。幸せだった頃の家族三人の夢を、私が生まれた十二年前から、三年前に病死するまでの間、ずっと。どこかで私がレィンと呼ばれているのを耳にしたことがあるだろう? あれはだから、母の死んだ長女の名前なんだ。母は私をとても可愛がってくれたよ。……死んだはずの娘として、ね」
(レィンはね。お母様が愛してくだされば、それでいいのよ)
彼は朝の清々しい空気の中、パンの残りをぺろりと平らげ、果実の絞り汁を口にして目を細めながら、実になんてことのない話のように、興味などさほどないという風に――まるで、ずっと昔の、関係ない、赤の他人の話をするように。
レィンが産まれた経緯を語って聞かせた。
「父は母親の愛情をまともに受けられない分、私の事を溺愛してくれた。娘としても、息子としても。……たぶん彼にはどっちでもよかったんだろうからね。けれど、彼女が死んだ直後、今度は彼が夢の中に入ってしまった。父は本当に母を愛していたから、彼女のいない世界に耐えられなかったんだ。……お話しは、これでおしまい。これが、私と私の両親のすべて」
「――馬鹿な男だ、忌々しい」
顔を伏せ、拳を握りしめてふるわせていたキリエはとっさに声音の変わったイライアスの方に目を向けた。
「馬鹿な男よ、本当に。母さんのことしか見てなかったくせに、母さんのことをちっともわかっていなかった」
彼の、彼女の、口調が、表情が、次々と変わっていく。最初はいかにも不機嫌を隠そうとしない。次は苦笑いと憂いを含んでいた。一番最後に無表情でだらりと腕を弛緩させた、普段全く喋らない大人しい少年がうつろな目のまま口を開く。
「……かわいそうなひと」
交代人格達が口にしているのは、彼と彼女の本音だろうか――。
「それだけですか」
気がついたときには、キリエは既に言葉を出してしまった後だった。
はっとすると、主が――イライアスが、じっとこちらを見ている。
バダンの方を振り向くと、彼はキリエを一瞬だけ止めようとする素振りを見せたが――思い直すように首を振り、目を伏せる。お前の好きにしろ、と言うように。
キリエはつばを飲み込み、大きく息を吸ってから少年を見据える。もう一度、口を開いた。
「それだけじゃ、ない」
「何が?」
「……あんたの言った通りだ。望まぬ妊娠とそれに伴う母と子の不幸なんて、貧民街じゃそこそこの日常、別に珍しい話でもない」
イライアスはすっと目を細めたが、キリエがひるむことはなかった。
彼女とて十数年間を貧民街で過ごし、そして紛れもないその、望まれなかった子どもの一人なのだ、愛されなかった子どもの一人なのだ。
きっと彼女は、幸せな家庭の子どもほど、レィンとイライアスを可哀想だとは思えない。
そのかわり、そういう普通の人間よりも、少しだけ、わかる。
「確かに、母親が狂っちまって、それになんとかしようとして――そういう部分は、あたしにはまったくわからない。ただね、あたしこの数ヶ月ずっとあんたのことを見てきたけどさ……あんたはとても賢い奴だ、気持ちの整理の付け方も抑制の仕方もきっとあたしなんかよりずっと上手だった。たぶん、そんなに何人もに別れなくても、やっていけるほど」
「キリエ、何が言いたいの?」
「あなたはこれで全部と言ったが、全部ではない。鳥籠の中にまだ人がいる理由、先代国王陛下のあの尋常でない部屋の様子、そして何より今のあなた自身が――足りない。それだけじゃ、あなたはこうはならない」
キリエはイライアスの壮絶な出自を聞き、胸が重くなる思いを覚えながら、同時に違和感が腹の中でますます大きく育っていくのに気がついていた。
確かに彼が今話したことは不幸だった。不幸だったが、足りていないのだ。
「……あなたはもっと、深い場所にいる。まだ、話していないことがあるはずなんだ、御主人様」
「キリエ、お前はドブネズミの割に、好奇心とお節介が強すぎるみたいだ」
「じゃあなんで、そのドブネズミを拾って飯と服と寝床を与えた! なんでそんなことをあたしに聞かせるんだ!」
バダンは止めなかった。どころか、入り口に移動して、騒ぎを聞きつけて入ってこようとする他の者達をやんわりとどめている。室内を軽く見て、イライアスに異常がなさそうなのを確認すると、集まってきた人々は再び姿を消す。
今は男になりきっている、美貌の主を前に、従者の格好をさせられた少女は荒げた息のまま肩を上下させながら言った。
「あたし、あんたがわからないよ。わからないことだらけだ。あんた、あたしをどうしたいの。あたしに何をさせたいの」
――わからないから、もっと知りたいと思ってしまうのだろうか。
その先が、光のない場所だとわかりきっていて、なお。
とっくに終えて冷め切った豪勢な食事を並べたまま、静かに従者を観察していたイライアスの表情が、やがてふっとゆるむ。
「どうしようか迷っていたところもあったのだけど。やっぱり見せることにしましょうか。明日、お墓参りが終わったら寄り道をするわ。あんたにプレゼントをあげる」
ハノンは立ち上がった。なんとなく気圧されるように、キリエは一歩足を引く。
彼女は食事をキリエの横を通り過ぎる瞬間、ぐっと声を落としてささやきかけてきた。
「それで、どうするか。また、あんたが決めなさい」
キリエの長い耳が、ぶるっと震えて揺れた。
 




