浸食1
「今日はとびきりおめかししていくわ。一番綺麗な格好になるの」
その日、珍しく早く起き出してきたレィンが薄い白肌を薔薇色に染めて言うので、キリエは首をかしげ、続きを促すように主を待った。
「キリエはまだ知らなかったわね。お父様とお母様のところに行く日なのよ。決められた日しか会えないから……」
従者の疑問に答えるようにレィンは答え、いつもなら掛け布団を引きはがされそうになってさえ出るのを抵抗する寝心地の良い寝台の中から、今朝は日も上らないうちからいそいそ自主的に這い出てきた。せっせと寝間着を脱ごうとしている彼――じゃなかった、今は彼女でいる主を見つめながら、朝に弱く居心地の良い場所から出たがらないご主人様にしては珍しいものだ、とキリエは不思議に思っている。顔を洗ったり身支度をととのえようとするのを手伝うと、いつになくはしゃいでいる様子だった。
「キリエ、どっちがいいと思う? バダンはね、こういうのに全く役に立たないから」
服から始まって髪飾りや耳飾りまですっかり女物をそろえて聞いてくる彼女の無邪気な笑顔に、キリエはつきりと胸の奥が痛むのを感じる。
少年王の女装癖にいい顔をする者はいない。いるとしたら……それこそ好色な目で彼を見る汚らしい大人ぐらいだ。まともな者は亜人も人間も、傀儡の王の私的趣味には嫌悪感を示して止まない。たとえ彼がどれほど公務をする気になっているとき――つまりイライアスが表に出ているとき、傀儡なりに幼い王らしく勤めていても、レィンの振る舞いが台無しにしてしまう。
レィン――じゃない、イライアスの方は本当に暗愚であるわけではない。彼は自分がいきなりの質素倹約に目覚めれば今まで王の贅沢を支えることで生きてきた人々が路頭に迷うことを知っているだけ、自分一人が節約を試みたところで大臣達の取り分が大きくなるだけだと正しく理解している。今はまだ子どもだからできないこと至らないことも多いだろうが、見た目が暗愚であるため大臣達もすっかり油断している、本当に国を憂うのなら今のうちから少年王に近づいてしっかりした教育を施すべきなのに――。
なのに、不思議と彼の周りには人材が集まらない。
「仕方ない、私は誰に対しても平等に厳しい――つまり、平等にうまみを与えないと言うことだ。人が逃げていくのも当然だろう」
従者のいらだちを見透かすようにイライアスが呟いていたことがあったが、キリエはそれだけではない、明らかにもっと人為的な工作がなされている、と感じていた。具体的な相手の特定には、残念ながら至れなかったのだけれども。
ともかく、少し落ち着いてきた頃、新米従者の主に対する印象は「世間に思われているほど暗愚ではなく、むしろかなり賢い」というものに修正されつつあった。
それは一見議会ではいつも退屈そうにして流されるままに見えるイライアスが、自分のわがままに見せかけてうまいこと流れを誘導するのを見たり、ハノンやフォクスライ、さらにはノードルという人格と接していれば自然と伝わってくることのように思えた。
キリエの中で主の印象がこのように固定されてくると、新たな確信と疑問が芽生える。
ずばり、その問題の女装癖についてだ。
たとえばハノンのような、男でありながら女の姿に憧れ、楽しむ――そういった趣向ならばキリエも個人的な好みの問題はさておき容易に理解できる。
ところがレィンという人格は、男に生まれながら自分を女と、姫と信じて疑っていない。
正直、こればかりは確かに擁護のしようがない。回数を重ねてある程度慣れはしたが、ふとした瞬間我に返ると彼女の様子は異様でしかなく、どんなに本人に悪気がなく良い性格をしていようと、人々が気味悪がって避けたがる気持ちも十分わかってしまう。
レィンは、何故レィンになってしまったのか。
その答えの鍵となる一つが、彼女の親にあるであろうと、キリエは考えていた。
何せ、少年王の両親の話題は全く出てこない。
おそらくそのことを話しているのではないか? という場面を見ても、新参者のキリエの姿を見ると皆さっと口をつぐみ、散ってしまう。まるでよそ者には聞かせたくないと言うように。
この子をこんな風にした、親の顔が見てみたい――。
奇しくも今回、そのチャンスが巡ってきたということだ。
レィンがどちらの腰紐を締めるかで長考に入ったのを確かめてから、キリエはバダンの方に顔を向けた。
(バダン、聞きたいことがあるんだけど)
声を出さずに唇だけ素早く動かす。読唇ができるという彼なら、見てくれていればこれで十分伝わるはずだ。
(レィンは仮にも王様なんだから、お父様は先代国王のことだとして、お母様って王妃様……というか、王太后って呼ぶんだっけ? その人のことか?)
キリエの口元をじっと眺めてから、バダンはゆっくり首を横に振った。
相変わらずうんうん頭を悩ませているのんきな主にちらっと目を送り、キリエはバダンにもう一度問いかける。
(じゃあ、妾か?)
キリエのあけすけな言葉に寡黙な牛男は表情が動かないなりにやや苦笑したようだったが、再び首を横にした。表情と動きで、先ほどとは違う意味であるとキリエは理解する。
(聞くな)
バダンはたぶん、そうキリエに言っていた。当然彼女は不満に顔をゆがめて口を尖らせる。
(なぜ)
するとバダンが表情を凍らせたまま、唇を動かしている。目を細めて、キリエは彼の声なき言葉を読み取る。
(やめておけ。きずになる)
(だれの? レィンの?)
(おまえの)
(はあ? あたしがどうして傷つくって? 自分で言うのもあれだけど、図太いし立ち直り早いしそこそこ酷い目にも遭ってるから割と耐性あると思うのだけど)
バダンは再び苦笑、というか困ったような感じに目尻の筋肉をゆるませた。
(――しらなくていい、こともある)
キリエがますます目をつり上げようとした瞬間、柔らかな少女の声が飛んでくる。
「キリエ、やっぱり決められない。あなたが選んで」
すっかりべそをかいている主に呆れ半分――愛しさ半分で、従者は振り返った。
色素の薄い彼女のために、濃い方を勧めてやれば、彼女はほっとしたように笑った。
「ありがとう、キリエ。お父様もお母様も、喜んでくださるといいと思うのだけど」
――あたし、本当はこのときもう気がついていたのかもしれない。
レィンがどうして女装を、いや、女になることを始めたのか。それが一体誰のためだったのか。
でも、だって、浮かんだその考えを、誰だって最初は無意識にでも、なかったことにする、そんなことあるはずないって思う、そうだろ。
どこの世界に、王子に姫になることを望む両親がいるって言うんだ?
あたしは自分の浅慮をあざ笑った。
そんな過去のあたしを、未来のあたしがまた嗤う。
たった一月程度で、一体何を知ったつもりになっていたんだろうねって。
あの人は本当にいつもひとりぼっちで、本当の本当に孤独だったのに、ほんの気まぐれでちょっとだけ招き入れてくれたから。
だから、まだまだ分からず屋だったあたしは勘違いしたのかもしれない。




