卵9
御主人様の説明を一通り終えたハノンはふああ、とあくびをした。
「まあ、まだまだ言っておくことはたくさんあるのだけど。アンタは結構勘がいいし、そうそう変なことはしないでしょ」
結構長い時間自分たちのことについて説明していたし、主人格との入れ替わり時か、とキリエが見つめていると、彼女の表情がすっと変わる。とろんと下がった眉尻が、いやみったらしく跳ね上がり、優雅に弧を描いていた口元が歪む。
「愚民。またいつ我輩様が出てこられるかわからないから今のうちに言っておいてやる」
「またお前か、あんた結構ホイホイ出てくる方だろうが」
「……やっぱり貴様のことなんか知らん! レィンが気にしてようが、イライアスが気に入ってようが、勝手に破滅して野垂れ死ぬがよい! ちょっとは言葉をかけてやろうと思った我輩が間違えていたようだ!」
ハノンと入れ替わって出てきた口の悪い男人格に、とっさにキリエが感じたままの言葉を出してしまうと、相手は途端にへそを曲げようとした。
この人格相手になると、どうにも相手の見下すような態度もあってか大分好戦的になるキリエだったが、さすがにそのまま行かれてしまうのはどうかと思って慌ててフォローする。
「いや、あたしが悪かったよ。……話を聞かせていただけませんでしょうか、フォクスライ――様」
むずむずする心を全力でこらえながらキリエがやや下手に出てみると、引っ込もうとした彼は機嫌をひとまず直して戻ってきてくれたようだった。
この反射的にイラッとする衝動さえ抑えられれば、案外いい奴なんじゃなかろうじゃ、と感じるのは、的確な判断なのかそれとも錯覚なのか。
「基本的にはさっき言ったことと変わらない。余計な口をきくな、バダンに従え。言葉の証拠を与えなければ、不慣れな無調法者の粗忽程度でなんとか済ませられる。従者としてはバダンにならい、イライアスに背かなければいい。一つ釘を刺しておくと、レィンの方はあまり信頼しすぎるな。友人としてはともかく、御主人様としては大分欠点が多い。あいつは人なつこいし優しいが、それで勘違いさせる天才でもある。奴には悪気がない。が、理想に過ぎる。おまけに怒らないから他人をしかることができない。王宮の中ではイライアス相手より、むしろレィン相手の時にこそよっぽど自分の身辺に気をつけるんだな。油断しているととことん甘やかされて駄目人間にされるぞ。王宮外に出ているときは貴様の好きにすればいいと思うが」
ハノン曰く言いたいことを言う担当の人格様とやらは、キリエが大人しくせいぜい殊勝な態度を心がけて控えていると、相変わらずの舌を噛みそうな勢いの早口でまくしたててくる。
「まあそんな細々したことは、頭の片隅にとどめておく程度でいいのだが。今から言うことだけは忘れないでおけ」
息継ぎもそこそこに一気に言い切ってから、彼は一度区切りを入れて改まる。
なんだろうと背筋を伸ばしたキリエに、態度の大きく一言も二言も多い少年はすっと目を細めて彼にしてはゆっくり喋った。
「――レィンに現実を与えるな。レィンの幻想を壊すな。あれの中では今でも、何不自由なく壮健で、愛し、愛され、幸福で……自分もその一員だと、信じて疑っていない、それがあいつの現実だ。女神に惹かれるお前はいつか、その本性を知って激怒し、嫌悪するかもしれない。……お前がここを去るとしても、せっかく乗りかかった舟だ。助けられた命の恩返しだと思って、ごっこ遊びに最後まで付き合ってやってくれないか。あれは夢の中でしか生きていけない女だし、そのために分裂した我々は皆存在するのだから」
それは不思議な響きを持つ言葉の群れで、キリエの耳から頭に、身体の中にすっと落ちていく。意味を理解する直前に、キリエの危機感がそっと邪魔をする。
――言葉だけ、覚えていて、深い事を考えてはいけない。
何か大きな塊をそのまま飲み込んでしまったような顔をしているキリエに、フォクスライは破顔してみせた。
「お前は我輩達に気に入られているから。途中で逃げ出さなければ、我輩の言葉の意味もすぐにわかるだろうよ」
また皮肉っぽく――諦念を口調ににじませながら、頭を振った。
そんなわけで実際にこのややこしい主と生活を始めてみると、フォクスライのうるさかった忠告が早速身に染みてきた。
イライアスは従者の男装をさせたキリエをいかにも従者らしくあらゆる面で使いっ走りにし、時には無理難題を言って、できないと平然として罰することもあった。
罰すると言っても、大抵はその辺にずっと立っていろだの一曲踊れだの、キリエにとっては苦にもならないものだったが、王宮作法から外れたときに鞭で手をひっぱたかれるのだけは割と勘弁してほしいとひしひしと思った。
何せ、キリエはイライアスの身の回りの世話に加え、伝令役もこなしたし、雑事として何故か皿洗いから洗濯、炊飯の手伝いまで時にやらされることになったのだ。両手が腫れていると、これらの水仕事で地味に染みるし、単純に物を握る作業がすさまじくやりにくくてたまらない。
またこの伝令作業というのがとんでもない修羅場の連続で、特に新参者のキリエは最初覚えられないことばかりで何度も恥をかいたし、多少慣れてからもとにかくまあ性格の悪く弱い者いじめに精を出すような輩が多くて、一つ伝言を届けるだけでも半日かけられたりするのだ。これが作法というなら犬にでも食わせちまえと思っても、手順を守らなければ鞭が飛んでくるのだから渋々守るしかない。幸い嫌味に応戦するのや嫌がらせを流すことについては得意だったし彼女にとっては王宮名物の新人いじめなど取るに足らないそよ風に感じた。図太い貧民街育ちだったので、育ちの良い方々の命をかけないお遊びなど彼女にとっては鼻で笑うほど軽いものだったのである。
味方がいなかったわけではない。
バダンは常に喋れないながらもフォローに回ってくれたし、イライアスもまたキリエを翻弄したり罰を与えたりすることで周囲から守っているのだろうということはなんとなくわかる。キリエに王宮流儀の嫌がらせをすると倍にして返される事が周知の事実になってからは、そちらの方もかなり大人しくなって彼女にしてみれば物足りないぐらい。そんなキリエに懐く者や、理不尽な主につけられたことに同情するもの、表だっては味方してくれないが、特に彼女に敵対行動を取ろうとしない賢い者も、よく見てみればそれなりの数あった。
けれど、少年王の味方、という視点で見てみれば、彼が王宮に満足できないのも無理はない、と新人従者は思わずにいられなかった。
少年王の女装癖や奇行は周知の事実で、愚かな彼を嘲笑する声は王宮の中ですら昼夜絶えなかった。おまけに彼は実権のなく政治に興味のない幼い子どもと侮られ、実際に政務では本来積極的に案を出すはずの王は大臣達にうんうんうなずいて許可を出すだけの係になりつつある。
子どものわがまま、遊びたいという願いならいくらでも叶えられたが、ではいざ民の暮らしがどうの租税や治水がどうのだの言い出そうとすればすぐに、陛下は何もわかってらっしゃらない、と彼らは困り顔にあざけりを浮かべながら首を振る。
――国を作る場所が、こんな風になっていたなんて。
キリエは結構ショックだった。彼女の貧民街では王宮なんて雲の上、王様なんて偉くて何でもできるというイメージしかなかったが、実際に入ってみれば傀儡の王の下で互いに資産の奪い合いと保身に忙しい醜い豚の群れがあるのみ、うわべの美しさだけ装って本質は貧民街と大差ないのだ。
特別なあこがれを抱いていたわけではなかったが、何かイメージを崩される感じはあった。その代わりに肩の力が抜けたというか、逆にやりやすくなった部分もある。
レィン本人は相変わらずキリエに優しいままだったし(ただし優しさが過ぎて主人としては頼りにならないというのも十分よくわかった)、何より王宮にいれば今までとは比べものにならない衣食住が保証されている。
ただ、王宮で暮らしている期間が長引いてレィンやイライアス、その他の人格の置かれた状況がわかってくるようになると、今度は別の問題――問題というか、疑問も浮上してきた。
出会ったときから、ずっと気になり続けてはいたのだ。けれど、とてもキリエから聞いていいようなこととは思えなかった。
――少年王の庇護者たらねばならぬであろう両親は、一体どこで何をしているのか?
その暫定的な答えは、従者生活を始めてから大体一月後に得られることになった。




