卵4
程なくして最初にキリエが連れ込まれたのは、歓楽街の高級料理店だった。
「これはこれは、そろそろいらっしゃる頃だと思っていました。お席はいつもの通り手配してあります。ささ、どうぞ」
いかにも一見さんお断りという風情の店構えに目を白黒させたキリエは、そこが貧民街育ちの自分でも知っているような有名店であることを悟るとあんぐり口を開けたまま閉じられない。
「御主人様、今日はどちらの方でいらっしゃるのでしょう?」
「今はアタシ、ハノンよ。火遊びした後なの、レィンが来たらいつも通り適当に話合わせて適当に帰しておいて」
「は、承知いたしました、お坊ちゃま……いえ、ハノン様でしたらお嬢様の方がよろしかったでしょうかな」
「どちらでも好きな方で。アタシは他の子と違って大してその辺は気にしないから。でもお嬢様の方が機嫌よくなるわよ」
お互い勝手知ったる顔、何やら意味深なやりとりをしているが、部外者のキリエにはどうやら自分を買収した相手がとんでもない特権階級らしい、ということぐらいしかわからない。案内人がいかにも慣れきった様子で奥へ案内しようとするのを見て、さらにぎょっと肩をはねさせる。
そんな牛男の腕の中で小さくかちこちにかたまっているキリエをちらっと見た店員が、顔色を変えずにこそこそとヴェールの人物に耳打ちした。
「お嬢様。ごひいきいただいているのは光栄の至りでございますが、うちを逢い引きに使われるのはちょっと困りますよ」
「ああ、違う違う。この子は愛人じゃないわよ、本日の戦利品。耳飾りと首飾りと指輪ともらったお守りを出して代わりにもらってきたの、どう使うかはまだ考え中。色々素質ありそうだから」
ひらひら手を振って少年――少女? が返すと、亜人は細長い瞳孔の目をぎょろりと動かして独特の笑い声を上げる。
「それはまた随分と大盤振る舞いを――ところで、ヤザン様のお守りをどうのというのは、聞き間違いでございますよね? さすがお嬢様は過激なご冗談をおっしゃられる、いささか肝が冷えます」
「いーえ、間違いなくあのセンスのない石ころを投げてきてやったわ」
「……ご来店を拒否したくなって参りました。さすがのあなた様でもおいたで済まされなくなりますよ」
「ヤザーン、マイダーリン! あんたのセンスは正直どうかと思うけど、お金の使い方は嫌いじゃないわ……わかってるって、後でご機嫌取りに行くわよ、さすがにこのまま無視したらまずいからね。うまくやるから任せておいて」
「知りませんよ、いつか逆上されて酷い目に遭わされても」
ヴェールの下で鼻を鳴らす音がした。店員は苦笑を深めている。
それにしても、ヤザン? どこかで聞いたことがあるような。
キリエは首を捻り、記憶の糸をたぐろうとするが成果は芳しくない。その間にも二人の会話は進む。
「ま、いいからとりあえず誰か連れてきてよ、お腹斬りつけられて血を出してるから。浅いとは思うけどなんか無理して走り回ってたみたいだからさ、一応診てもらいたいなって思ってるわけ」
「ははあ、お嬢様に拾い上げていただくどころか、こんなに気にかけていただけるなんて、大層な強運と業の持ち主ですなあ。落ち着いたら是非、後で私にもご紹介させてくださいませ」
「わかったわかった」
軽い口調でやりとりをかわしながら二人が歩いて行くと、やがてキリエが見たこともない大きな部屋に通される。
座り心地、というか寝そべり心地のよさそうなソファーやクッション、絨毯が敷き詰められている他に人工の池のようなものまで見える。
運搬係だった牛男はキリエをそっと柔らかい場所に怪我にさわらないよう下ろすと、主人のところに行って無言でせっせと世話を始めた。主は当然のように彼をこき使っている。
相変わらず絶句しているキリエをよそに、早速ごろりとその辺に寝っ転がってくつろぎだした主の横で、いつの間にかすうっと入ってきた白服達がてきぱきと傷を治療する。
間もなく綺麗に血を拭き取られて消毒と当て布が終わり、服もさっぱり着替えたキリエはふと視線を横にすべらせた。
今日何度目かの動揺で頭がくらりと重くなる。
しどけなく寝そべっていたその人物はいつの間にかヴェールを取り払っている。細く量の多い長い銀髪を、結びもせず背中に流している。
キリエがこっちを見ていることに気がついたのだろう、うつぶせにしていた顔を上げる。
瞳の色は銀。真っ白なまつげが瞬きの度に揺れる。顔立ちはいかにも上品で愛らしく、利発そうな少女そのものだ。年は十二歳ほど。優美な尻尾と同じ白色の、三角形の耳がぴりぴりと時々頭の上で動く。
「……何者なんだ、あんた」
ヴェールの下の人物と初めて直接対峙することになったキリエは、たっぷり数十秒間黙り込んでから咳払いして問いかける。
すると少女は愛くるしい顔立ちににつかわない、にやりと口の端をゆがめる笑みを作った。
「さしずめ今は、君の命の恩人ってところなんじゃない?」
「……あたしを、買った?」
「そうなるわね」
「何のために」
微笑んだままの少女に向かって、キリエはゆっくり深呼吸してから問いかけ続ける。
「あんたはあたしを助けてくれた、それはもう……その通りだと思う。あたしはあんたに礼を言うべきだ。というかたぶん言わなきゃいけない。でも、あんたがあたしに何を期待してるのかさっぱりわからない。見た目はもう十分わかってるだろうし、ババアも言ってたけど特技があるわけでもない。でも無償でこのまま自由にしてくれますなんてことはないんだろ? ……買った値段が高すぎた。あたしに何をさせたいの」
「逆に聞いてみようか。君はアタシに何をさせられると思ってる?」
キリエは黙り込む。考え込んでいる最中ぴょこぴょこ動くウサギの耳を少女は実に面白そうに見守っていたが、真面目に頭を働かせていた彼女は気がつかない。
「……もう一回腹を切るとか」
「もうちょっと信頼してよ、何のために治療してあげたと思ってんの」
「自分の世話をさせる?」
「いいわね、考えましょうか」
「何かこう、こき使うとか」
「そうね、あなたとってもいじめ甲斐のありそうな顔してるものね」
閉口したキリエを見たまま、少女は軽やかな笑い声を上げてころりと仰向けにひっくり返る。
「何のために? 一言で答えるなら暇つぶし。アタシは退屈で退屈で仕方ないの。だからたまには柄にもなく人助けなんかしてみるわけ。あなたをどうするかはまだ決めてないの。いわばあなた次第」
少女は一度言葉を切ると、寝そべったままけだるげに目を閉じる。
「ああ、のんびりしてたら時間が来ちゃったみたい。彼女が戻ってくるわ。あの子は何も知らないから、あなたも合わせてちょうだいね。動転させるとまたアタシたちが出てこないといけなくなっちゃうから」
じゃあね、とひらひら振っていた手がぱたりと落ちる。
相変わらずわけのわからないことを、と半眼でにらんでいるキリエの前で、再びぱちりと銀色の目が開く。
のぞき込もうとしたキリエはそのままぴたりと止まった。
「……うーん、久しぶりによく寝た」
のびとあくびをして起き上がった彼女は、今度こそ少女そのものの表情と所作を示している。この状態なら確信を持って言える。彼女はキリエが最初に塀の上に見かけてぽーっとなったのと同じ人だ。
「あら、あなた。ご無事でしたのね。手当も済んだようで何よりです。怖い人達に追われていたようだけど、ちゃんと逃げられるのか心配だったの。その様子だと無事に逃げ切ったのですね。ああ、本当によかった」
キリエはまじまじと無邪気に微笑む少女の顔を穴があくほど見つめてから、ふと背景に溶け込んでいた牛男に目を移す。
彼は一瞬何か言いたそうな顔をしたが、うつむいて首を横に振る。
キリエは迷ってから、おずおずと口を開いた。
「あの……覚えてないの? 助けてくれたのはあなたなのに?」
今度びっくりした表情をしたのは、銀髪銀目の少女の方だった。
彼女はやがて、しょんぼりとうなだれ、申し訳なさそうに目を伏せてそっと可憐な唇を開いた。
「その、ごめんなさい――わたくしまた、わたくしの知らない間に、何かしてしまったのかしら?」




