卵1
未成年の売春描写が若干あります。
苦手な方はご注意ください。
少女は走った。ほとんど剥がれかけているぼろきれという名の服を胸元に押しつけるようにひっつかんだまま、死にものぐるいで走っていた。脱げかけている靴を、まとわりつく邪魔を思って脱ぎ捨てるか、裸足のダメージを考慮してまだつけたままにしておくか、判断に迷う。そうしている間にも後ろが騒がしくなって焦燥感が増す。
体力にはそこそこ自信があったし、ずっと暮らしてきた場所なんだ、土地勘だってある。逃げ切れないわけではないはず。
とにかく心が折れたら一気に形勢が負けに傾くことだけは確かなのだから、自分を鼓舞して気持ちが負けないように努めた。ずきん、と手で強く圧迫している左脇がまた痛みを訴えてくる。
「ばっくれてんじゃねーぞ、アバズレ! 今戻ってきたら半殺しで手を打ってやる!」
罵声が聞こえた前方から身を翻し、脇道に飛び込んだ。幸い反射神経はいい方だ。ピンとよく聞こえる自慢の耳を立て、素早く辺りを見回して、塀を軽々跳び越える。鍵のかかっていない裏口を蹴り開けて、住民が驚いている隙に民家を走り抜け、通りから通りへ。
冗談じゃない、半殺しならさっき遭いかけたじゃないか、だから今掟を破ってまで逃げたりしている。いくらあたしが一等の商品じゃないんだとしても一つきりの命、さすがに使い捨ての肉扱いは断固拒絶するしかない。絶対捕まってたまるもんか。
とは言え、このままではいずれ終焉が訪れるのはわかりきっていた。何せ彼女がいくら身軽で体力があろうと所詮十五の小娘だったし、おまけに浅手ではあるが腹部を傷つけられて出血していた。
だから、住み慣れた貧民街を逃げながら、血眼になって探していたのだ。起死回生になるかもしれない一手を。諦めなければやってくるかもしれない一筋の光明を。
――そういう、なんでもする、わらにもすがるというような思いが、あの音を彼女の耳に届けたのかもしれない。
「バダン、騒がしいわ。何かあったみたい」
くらりと揺れた視界に顔をしかめて頭に手をやった瞬間、角からその凜と涼やかな声は聞こえてきたのだ。
「喧嘩かしら? 怖いわね」
耳に快いその声は澄みきっていて、奇妙な魅力に満ちていた。
彼女は思わず逃走中だったにもかかわらず足を止め、光に惹かれる虫のように、ふらふらと角の方に歩いて行ったのだ。
人が集まるところには、より強い光がともる一方でより深い闇もまた生じる。
王都の歓楽街は一歩道を間違えれば暗黒の貧民街へと通じていた。
キリエは貧民街育ち、毎日とても良いとは言えない食事情の中でも身体が丈夫で運が良かったからなんとか生き残ったが、器量は残念ながら高級娼婦にはなれそうにもない、中の上程度のものだった。
父は知らない。というかそもそもわからない。
母は娼婦で飲んだくれ、性根から腐っただらしない女で、避妊も堕胎もし損ねて乱交に励んだ結果がキリエというていたらくだ。それなのに男が切れないから不思議なものだと思う。
幼い頃から娘にあまたの犯罪を仕込み、自分はむしり取った金で年中朝から飲んだくれている。キリエの頑丈な身体は残念ながらこの母親譲りらしく、酒浸りになっても性病になっても夜ごと娘が密かに呪いの言葉をかけ続けても、死ぬ気配だけは忌々しいことに見当たらないのだ。ちなみにキリエは器量の方もこれまた残念だが母親譲りだ。誰がどう見ても親子の顔をしているのだから腐りたくなってくるものである。
そんな素晴らしきお母上様の元にキリエが身を寄せている理由は単純、他に行き場がないからだ。男ならまだやりようはあるだろうが貧民街出身の女の成り上がり方なんてたかが知れている。
ところがキリエは母を嫌って育った結果、女を武器にするやり方が大嫌いだ。売春をしたことがないとは言わないが、男を体内に迎え入れたことはない。それでもなんとか人を見る目をフルに使ってうまくいっていたのだ――つい最近までは。
子どもでいる間は、男女問わず子どもならほぼ無条件で雇ってくれる仕事がそこら中に転がっていた。日払いの給料は雀の涙ほどでほとんど母の酒に消えるのだけど、それでも「健全に」日々をしのいでいくことはできた。
キリエが大きくなってくると、そういう収入源はみるみる減っていった。小さい頃はお菓子さえくれた雇い主が、背が伸びて丸くなってきたキリエの身体を見て首を振る。
もうあっちに行った方がいいんじゃないかね。
彼らは愛想笑いを浮かべ、歓楽街の方に近い路地に立っている女達に顎をしゃくって見せた。キリエが顔を向けると、彼女と同じぐらいかそれより下の子もぽつんと立って客引きをしたり声をかけられるまでじっと壁にひっついて待っている光景が見える。
そういったことが徐々に増えて、ついには誰も彼女を相手にしてくれないまでになってしまった。
彼らは声をそろえて言う。大人は無能だ。大人達が大きくなりかけのキリエをみて、さげすみの目を浮かべて口々に罵ってくる。けれど彼女には反論できるだけの材料がない。唇を血がにじむほど噛みしめてきびすを返すのが結局一番自分も害なくいられる道だ。
憤り、失望しつつもキリエも心のどこかではもともとわかっていた。ここに生まれたら、そうやって生きていくしかない。子どもの頃はまだ職がある。でも大人になったら――女になったら、できること、求められる事なんてほとんど一つしかないわけで。
元々の気質なのか、貧民街で生きていくうちに身につけたのか、どん底に落ちるとキリエの思考は一周して別の道を示してくる。
どうせ売るしかないなら、できるだけ高いことふっかけてやれ。幸いなことに顔は並みでも脱いだ下の体つきは褒められる方だし、手は水仕事で荒れているが肌全体はかなり綺麗な方、用心深い性格と運が重なって処女も守ってる――だから、全く相手を選べないと言う事はないはず。できるだけスタートで稼いでやって元手を作って、今度こそあの忌々しい生家を出てやるのだ――。
と、意気込んでいたキリエを妨害してきたのがやっぱり母親だった。
彼女はキリエがようやくその気になったと知ると、頼んでもいないのに客を探し、売る本人がうんと言っていないのに勝手に交渉を済ませてちゃっかり金まで先払いでふんだくってしまった。
先にもう払っている、これからの働き次第では更に色をつけてやってもよいと言われたらこっちもあまり強い事は言えない。身体もそこそこ健康そうだったし、顔立ちも悪い方ではなくむしろ上品な方だった。
だからキリエは油断したのだ。外面がそこそこよかっただけに、頭の中に鳴り響く警鐘を、見たこともない額の金に目がくらんで見逃した。
変態プレイを強いられることも場合によっては仕方ないと諦めていた。だが刃物で肌を切りつけてくるのは想定外、だめな領域だ。
赤を見たいと興奮できない性質なのだ、ついでに興奮しすぎて臓器を出してしまうかも知れないが金ははずむから我慢してくれと熱烈に口説かれそうになったら、これはもう股間を蹴り飛ばして逃げるしかないじゃないか。私はたぶん何も悪くない。強いて言うなら自分が馬鹿だったことが悪い。避け損なって一発腹にもらってしまったのは本当に失態だった――。
そんな事情で腹から血を滴らせながら逃げ回っていたキリエだったのだが、思わぬものと遭遇してつかの間完全に自分の危機的状況を忘却した。
不思議な声に惹かれて曲がった角にいたのは、いかにも上品な身なりの少女と付き人らしい巨漢だ。どちらも亜人。少女の方は猫科のものらしい優美な尻尾が揺れていて、男の方は頭の勇ましい角が目立つ。
「あら、もう少しだけこうしていてはだめかしら? 最近ずっと籠もりきりだったんですもの、羽を伸ばしたいの。それにいざとなったら守ってくれるでしょう?」
声や背丈から察するにキリエより数歳年下なのではなかろうか。
少女は男に持ち上げて乗せてもらいでもしたのか、大男の背の高さ程度の塀の上に優雅に腰掛けて足をぷらぷら揺らしていた。手振りで少女に何か伝えようとした男に答えている言葉から、何やらわがままを言って困らせている事がうかがえる。彼女の顔は貴人、特にご令嬢ご夫人が外出時に着用するヴェールで隠されているため見えないが、かなりの美人ではないかと推測できた。何せ地味な色合いだが見るからに触り心地のよさそうな布をまとっているし、端々からはみ出している手とか足とかの輝きが宝石のようにまぶしい。
歓楽街の方の、高級娼婦なのだろうか。
角に立ち尽くし、ぽーっと二人を見つめていたキリエだったが物音が近づいてくると我に返る。
とっさに耳を澄ませ、辺りを見回す。
――だめだ、呆けていたせいで移動が間に合わない。
いちかばちか、キリエは思い切ってぱっと飛び出すと、その辺に無造作に置いてあった荷車の隙間に身を潜める。多少荷物を並び替えて、上手に自分が表から隠れるように配置しなおした。
ちょうど塀の上で暇そうに足をぱたつかせている少女の目の前にあった物だ。
彼女がこちらを見て、きょとんとヴェールの下で目を見張ったのが見えたような気がした。けれどもうそっちには構っていられない。荒々しい足音が聞こえてきたので思わず息を止める。
「あんた。こっちに女が来なかったかい」
足音は複数。どういう伝手なのかはわからないが男衆を引き連れている。人望があるわけではないが人の縁が切れないのは本当にいやらしいことだ。
聞き慣れた下品な女の声にキリエが顔をしかめていると、あの涼やかな声が応じた。
「さあ、どうでしょう? その方は何かいけないことでもなさったのでしょうか?」
――とぼけているのか、本当にわかっていないのか。
未知の存在に出会ったばかりのキリエには、まだ彼女がどういう人物なのか判別がつかなかった。




