落日
今回はかなり長いです。
また、本作でも一番と言って良いほどきつい場面になるかと思われます。
鬱展開に耐性のない方はご注意ください。
リテリアはぶらりと垂れ下がった彼の右手をかき抱いて縮こまった。
視覚、聴覚、嗅覚――感覚器官から得られる情報を彼女はとっさに遮断する。
思考が凍結され、すべてが無になっていた。
――紗幕を開けなければ。
ぼんやりと、なんとなく。開けて、様子を見なければ、彼を助けなければと思う。そんな気がする。
――紗幕を開けたくない。
同時に、開けて、そこにある現実を見たくない。それもはっきりと心の中に自覚している。
だって、アルトゥルースの右手はここにあるのだ。つまり残りは外。右手と右手以外をわけたものも外――。
鳥籠は外部と内部を隔てる、彼女の脱走を阻止するためのものであり、彼女を外部のあらゆる事象から守るためのものでもある。
足音は、しなかった。それがいつものことだったのを思い出す。彼は歩くとき音を立てない。ちょうど、本物の猫のように。
何かを引きずる音がした。ごりごりと、床に硬い物が擦れる音がする。さらに何かを勢いよく振りかぶるような音がした。振り下ろす鈍い音がした。あわせて悲鳴が何度も上がった。
赤い飛沫の散った紗幕に目が向く。手は伸びない。すがるように右手をぎゅっとにぎりしめる。
叫び声は時折くぐもる。大抵鈍い、何か重たく硬い物が当たるような音を伴っていた。
見なくてもわかる。外でどれだけ恐ろしいことが起きているのか。それを誰が起こしているのか。ゆえに一層、見て当事者にならなければといういう感情的な衝動と、見ないで安全なところにいなければという理性的な判断が葛藤する。
「ここまで入り込んだ事は褒めてやろう。よくもまあこざかしく立ち回ってくれたものだ、それだけの力を隠し持っていたとは正直完全に想定外だったよ」
やがて、耐えがたい殴打の音の末に、外から聞こえてきた男の声は――確かに聞き覚えはあるが、まったく聞いたことのないものでもあった。
彼が、激怒したらこういう風に喋るのだと、はからずもリテリアは悟る。
「褒美にすぐには殺さないでおいてやる。できるだけ、たっぷり時間をかけてから、ちゃんと地獄送りにしてやるとも……お望みの通りにな」
地を這うような声は、蓋をしておさえつけてなお、もれ出る冷気のような――隠しきれない憎悪と残忍さを孕んでいる。
リテリアは震え上がった。けれど次の瞬間、もう一人の苦しそうなうめき声が聞こえてくると身体が先に動いていた。
「ロステム――」
「リテリア。僕は今怒っている。とても、怒っているんだ。これ以上刺激しないでくれ。君にひどいことをしたくない」
切実な言葉だった。いつもなら、リテリアがどんなに反抗しても苦笑と諦念の混じった微笑みを浮かべる男の、あれはそれでも余裕があったのだと逆説的に証明される。今のロステムは全身が棘のようだった。毛を逆立てて威嚇する獣。本能的に、逆らってはいけないと自覚する。
――それでも、どんなに彼を恐ろしいと思っても、アルトゥルースの声が聞こえると、リテリアにはそちらへの愛情と心配が上回るのだ。
「ロステム、やめて――」
「つくづく忌々しい男だ。未来の王太后に手を出さんとした賊にはどんな罰がふさわしいだろうな、ん? お前、どう思う、何か言えるものなら言ってみろ」
「言わないで、やめて!」
ぜいぜいと苦しげな息を上げていたアルトゥルースの喉がひゅっと鳴った音がした。
同時に幕に手をかけて、あと少しで開こうとしていたリテリアがぱっと飛びすさり、血相を変える。
「なんだリティ、そこまでは言ってなかったのか。教えてやれよ、僕たちのことを。もう三年だ。はは、どうだ――こんな男なんかより僕たちの方が付き合いが長いんだよ、リテリア!」
「いや――いや、アルトゥ、聞かないで……」
外からは奇妙な哄笑が聞こえてきた。ロステムが笑っている――ついに自分の口からは夫に真実を告げられなかったリテリアの事を、空虚に乾いた声であざ笑っている。
アルトゥルースの音がまったく聞こえなくなった。ここまで来れば彼もついに理解したのだろう。籠の鳥の籠が誰のことを示しているのか――本当に、全く何も知らなかったのかもしれない。
驚愕しているのか。失望しているのか。紗幕で閉ざされた視界ではわからない。ただ、一番知られたくなかったことを――それだけは、できれば隠し通していたかったことをあっさりと暴露されたリテリアの嘆きは深い。
「アルトゥ、だめ……お願い、逃げて……行って……」
まだ熱の残る、鮮血のしたたる右手を抱え込んだまま、彼女は泣き声混じりに訴えかけた。
すると、ぶつぶつと、小さな言葉が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「なんだって? どうせお前も兄妹の契りをさげすむんだろう?」
おそらくロステムは、力なく呟いたアルトゥルースを強く小突いて催促したのだろう。
咳き込む音がする。喉を絞められているのか、胸の辺りを強く押されたのか。
彼の様子を見て確認したい、でも兄をこれ以上刺激するのが怖い、彼の様子を見たくない、自分も見られたくない、でもやっぱり姿が見たい、安全を確かめたい――。
リテリアがぐるぐると堂々巡りに動けずにいると、今度は――吐き捨てるようなアルトゥルースの言葉が、くっきりとこちらにまで聞こえてきた。
「兄妹なんて……些細な事、だろ……。俺がっ――怒っている、のは。お前が、リテリアを――俺の、一番大事な人を、傷つけた――ことだ! お前が――俺の、妻を。酷い目に遭わせて――泣かせた、強姦魔だから……軽蔑しているん、だ!」
苦しい息の中から、切れ切れに――おそらくかなりの重傷を負っているだろうに、それでもアルトゥルースは最後まで言い切った。
今度息を呑んだのはリテリアともう一人の方だった。特に、この場で一番の驚愕を覚えたのはロステムだったのかもしれない。どさり、と鈍く何かが落ちた音がする。アルトゥルースのうめき声も同時に聞こえる。つかみ上げていたのを、今の発言に衝撃を受けて取り落としたのだろうか。
「――アルトゥ」
「……私の前で、よくも」
しばらく迷った挙げ句、リテリアが声を上げようとしたのと、黙り込んだロステムが我を取り戻したのは、ほぼ同時だった。
「よくもお前が――お前が! その言葉を吐けたものだ、恥知らず!」
男の言葉に危険を感じて、リテリアはとっさに紗幕にかけたままの手を引いた。
――赤が散る垂れ幕が消え、現れた室内の光景は、彼女の予想以上の惨状だった。
赤黒い血の海の中に仰向けに倒れ伏す血の気のないアルトゥルースの身体には右手がない。両足もおかしな方向にねじれていた。骨を折ったか、砕いたか。いずれにせよ彼がこの場から自力で立つ事はできないし、この先一生もしかしたら歩けなくなるかもしれない重傷であることは確かだった。喉もひゅうひゅう耳障りな音を立てていて、虫の息を体現するかのよう。顔は腫れあがって人相もわかりがたい。
だがそれだけ酷い状況にあっても、彼の澄んだ青い瞳だけは、苦痛に歪みながらも未だ闘志と輝きを失っていない。リテリアの愛したまっすぐな目、そのもののままだった。一瞬だけ、夫婦の視線が合う。アルトゥルースが何か言おうと口を開ける――。
それを、その倒れ伏し、懸命に妻を求める男の頭を、ロステムのしっかりとした足がふわりと浮いたかと思うと――無情に、勢いよく蹴飛ばした。
ちょうどリテリアが紗幕を引いたのと同じ瞬間に、目の前で。
頭部をこめかみの辺りをつま先から刈られたアルトゥルースは今度こそたまらず、つぶれるような音を喉から出すと動かなくなる。失神したのか、それとも。
「いやあああああ!」
鉄格子にすがりついて、彼女は泣き叫んだ。夫の目が光を失うその瞬間は、彼女の網膜にくっきりと焼き付いて離れない。取り乱した拍子に落とした右手が、そのまま鳥籠の外に転がっていってしまう。ロステムはそれも奪い取るように持ち上げると、すっかり彼女の手の届かないところまで捨ててしまった。ごりごりとさっきから音を立てて引きずっていたのは、斧だったらしい。アルトゥルースの右腕を落としたそれは、室内の照明で鈍く光を放ち、ロステムの手の中でゆらゆら揺れていた。
「アルトゥ、アルトゥ――いや、いやあ! だめっ、殺さないで、いやあ!」
鉄格子の隙間から必死に伸ばされたリテリアの手がむなしく空をひっかく。
アルトゥルースの目は半眼のまま焦点を失っていた。それをもう一度蹴飛ばして、ロステムはリテリアから見えなくしようとする。ばたばたともがく彼女を彼は無感動に眺める。
「アルトゥ、ああ、あなた――うえっ――ぐ――た、い」
籠の隙間から無力に羽ばたくだけだった小鳥の悲痛な叫び声の色が変わる。
最初はあまりの部屋の惨状に嘔吐いた。吐くものがなくなっても苦しそうに喘ぎ、声を枯らしていた彼女だったが、青ざめていた顔色が更に紫色になった。
「たい――おなかが、いたい! いたいよぉ! やだあ!」
突如腹を押さえて叫びだした彼女を見やったロステムの冷たい目が、にわかに興奮と優しさを帯びる。
「産まれるんだね、リティ? 待ってて、これを片付けたらすぐお医者様を呼んできてあげるからね」
これ、と言いながらロステムはアルトゥルースの胸をぐっと踏みつけた。そこからもじわりと血がにじみ出る。リテリアが血走った白目を向けるが、彼の顔はあくまでも彼女に対してのみ優しく思いやりにあふれている。悲鳴が喉の奥で潰れたのを感じた。
――そのときのロステムの顔は、リテリアの目を抉った時のバスティトー二世に、本当に、とてもよく似ていたと言う――。
彼女が喋れなくなったのを、彼は多少落ち着いたとでも判断したのだろう。関心をいったん足下に移した。
「……愛していると簡単に口に出せる男に、僕の気持ちなんか一生わかるもんか」
侵入者は瀕死の状態で床に転がり、それを前にした籠の鳥が半狂乱になって産気づいている中、一人奇妙に静かな男は一度だけ眼下の唾棄すべき存在に呟くと、文字通り片付けるためにだろう、担ぎ上げて出て行こうとする。
リテリアは鉄格子から出ようと必死だった。暴れた拍子にだろうか、外れた爪から飛び散った血が点々とベッドを汚す。
「いや――いやだよ、一人にしないで、アルトゥルース! 私を置いていかないで! いやっ、産めない――こんなの私産めないよぉっ、やだやだやだっ、やだあ! いやだあ、出したくない、出てこないで! もういやだよおおおお、助けて――死んじゃやだ、アルトゥ――!」
支離滅裂にわめくだだっ子のような妹の言葉を、兄はすべて聞こえないふりをした。
そうすれば、案外自分が平静でいられることに気がついたのだ。恋敵に芽生えている凶暴な衝動を、もうじき子を産む恋人にぶつけるぐらいなら、彼女の元夫ごと何もなかったことにすればいいのだと彼は思った。
それに、彼はこうも考えていた。
目の前であれほどのことが起きたのだ。今度こそ、リテリアは諦めがつくだろう。そうしたら後は、子どもを無事に産ませてしまえば時が解決してくれる。――子どもさえ、産ませてしまえば。
――あの人もあの人で追い詰められていたのではないでしょう。そうとでも思わなければやっていられなかったのでは? だって本当にもうすぐって時に、もう一人の私の父がやってきて台無しにしたのですから。あの人からすれば、アルトゥルースのしたことも、そのタイミングも、許せなくて当然のことだったのではないでしょうか――。
さすがに大惨事のあった部屋でそのまま出産にのぞむことははばかられたのだろう。
リテリアは夢にまで見た外の世界に出される。けれど彼女にあったのはひたすら絶望だった。連れて行かれた夫の姿を探して暴れ、数人がかりで取り押さえられる。
「ロステムを呼んで――呼んできて、今すぐ! 来ないならこのまま子どもと死んでやるって、言って! 私は本気よ! 人殺し!」
徐々に短くなる陣痛の合間に、彼女は噛みつく勢いで医者にくってかかった。
普段温厚で、あり得るとしても悲しげに泣いている場面しか見たことのない周囲の人間には、血泡を吹く勢いで怒鳴りつけるリテリアの姿はさぞかし衝撃的だった事だろう。
医者はどうすべきか散々迷ったようだが、結局興奮が収まらない様子を見て、従わないわけにもいかないと思ったのだろう。
くれぐれも刺激するような事をしてくれるなと何度も言い含めてから国王を連れてくる。
兄の姿が目に入ると、途端にリテリアの態度が変わった。
彼女は隻眼をたっぷり潤ませ、絶え絶えの息のまま哀れっぽく懇願する。
昔からそうだ。リテリアは本能で、どうすれば兄が自分を愛おしいと思ってくれるかよくわかっている。
「ロステム、お願い……」
「……今は、産むのに集中した方がいいんじゃないか」
「お願い、殺さないで……アルトゥを、レィンを、助けて……酷いことをしないで……」
彼は苦々しい思いで恋人を見つめる。さすがにもう、媚びを見透かしていた。肩を怒らせたまま、彼は怒声を押し殺す。つとめていつもの甘い調子を出そうとする。
「リティ、僕は散々譲歩した――譲歩したんだぞ、違うか? 君と彼らの縁が切れたらそれで済ませようと思っていた、二人の命までは取ろうとしなかった、そうだろう? でもあいつが、あいつが――それを、ぶちこわしたのはあっちじゃないか、勝手にやってきて、君を奪っていこうとしたのはあっちじゃないか。あいつらが生きている限りお前は僕の物にならない……」
「お願いよ、何でもする、なんでもする……! あなたのことも、この子も、あい――愛して、みる。だから、だから二人は、二人だけは、これ以上手を出さないで――」
「もう遅い。無理だ」
――おそらく疲れ切っていたロステムは、うっかりその言葉を漏らした。
リテリアの瞳が大きく開かれ、どういうことだと問いかけるように目が訴える。
優しくて、愛情深くて、素直で、残酷で、どこまでも愚かなロステムは、髪をかき上げ、投げやりな態度のまま何気なく、彼女にさらりと答えた。
「アルトゥルースの方はともかく、お前の娘は僕がどうこうするまでもない。もう死んでいるんだよ、お前と別れてすぐだった。流行の風邪をこじらせてそのままだったかな。……幼子にはよくあることだろう?」
それは、確かに彼女が求めた回答だったが、けして彼女の望んだ答えではなかった。
アルトゥルースが何故――大変な苦労だったろうに、身を削ってまで妻に会いに来たのか、彼女は真実を知ってしまう。
彼には他にもう何もなかったのだ。彼女と同様、他にもうなかったのだ。だから、命を賭けてやってこなければならなかったのだ――。
レィンが、死んでいた。
アルトゥルースもあの傷だ、そしてロステムは今度こそ彼を許さないだろう。
ため息を吐き出すと、彼はまたいつもの優しい顔に戻った。
優しい狂人の姿で、そっとリテリアの手を取って優しく語りかける。
「だから、その子を無事に産んでくれ。大丈夫、僕はうっかり放っておいて死なせたりなんかしない。やり直せるさ――僕と君で」
「――ああ、あ」
リテリアは口を開けたまま鳴いた。意味をなさない音を喉から漏らした。
「あああああ、ああ、あああ!」
尋常でない妊婦の吠え声に、控えていた医者がすっ飛んでくる。
一体何をしたのか、あれほど安静にせよと、健やかな出産を思って接してくれと言ったのに――そのような内容の事を口走る宦官に、国王は皮肉っぽく口の端を釣り上げた。
「ああ、そうさ。どうせ、最初っから私が悪者なんだ。一体どうしろと? 想って、譲って――その結果がこれだってことか? 何をしたって無駄って訳か?」
驚愕に瞳を見開き、あらゆる液体を垂れ流したまま彼女はびくびくと震えている。
その無力な脱力した身体を見やって、ロステムは産室を出て行く。
「だったらもう、そのままでいい。憎めばいいよ、リティ。僕を憎んでくれ、思いっきり」
金色の瞳にほの暗い光を宿し、王は笑った。無理やり口をゆがめて、笑う顔を作った。
――なんと愚かなことでしょう。このときまで彼はまだ、憎まれる覚悟ができていなかったのです。なんと哀れなことでしょう。この人はただ、どうしようもなく、妹を好きで、好きになってほしくて、でもその方法を全く知らなかったのですよ――。
リテリアの第二子のお産は、第一子よりさらに長引いた。
母体は疲弊し、一時は子どもか母か選択を迫られる事態にまで陥る。けれどロステムが迷わず母と医者に告げると、聞こえていないはずのリテリアは敏感に気配を察知して息を吹き返し、死にものぐるいで陣痛に耐えた。
――これ以上見たくなかったのでしょう。ロステムに、自分の大事なものが奪われるところを――。
長い、長い戦いの時間だった。ずっとリテリアの悲しく苦しい叫び声が聞こえて、血のにおいが籠もっていた。そこにいた誰もが強い疲労感を覚えた。
王は一度公務で外に出ていた。気もそぞろな部分はあったが、彼は取り繕うのがうまい。少しだけ早めに、けれどきちんと外での仕事を終えて戻ってきてみれば、静かな内宮にはきちんと元気な赤ん坊の声が響き渡っていた。
「産まれたのか! 母親の方はどうした!?」
ひとまず喜色を浮かべて出迎えた医師に歩み寄る王は、出産を手伝っていただろう付き人たちの顔が一様に暗いのを知る。
「は――その、おめでとうございます、陛下。元気な王子殿下でございます。しかし……」
「何か問題でも? ……まさかとは思うが」
最悪の答えを予想して、ロステムの手がすっと身につけている凶器に伸びる。血相を変えた主治医は慌てて言葉を続けた。
「いえ、ご母堂様もご存命です! 後産もなんとか終えまして、このまま安静になされば体力も回復するでしょう! ただ……ただ、その――」
「あなた――あなた、お戻りになったの?」
その愛らしい声が響き渡ると、しん、と辺りが静まりかえった。医者はびくりと震えて黙り込む。
「いらして、あなた。もう産まれたのよ。早く入ってきてくださいな」
産室の中から声は招いた。ロステムは何度も催促されてようやく、呼ばれているのが自分であると知る。
彼が驚き、一時自覚できなかったのも無理はない。
小鳥は喜びのさえずりを上げていた。籠の中で、どんなに彼が手を尽くしても得られなかったものを、存分に彼女は今与えようとしていた。
ふらふらと、ロステムは歩みを進める。
おそるおそる産室に足を踏み入れれば、あれほど渇望したとろけるような笑みが、間違いなく自分に向けられていた。
「見て、あなた。可愛い女の子ですって」
ところが、夢見心地の有頂天になりかけた頭は、次の言葉で一気に冷え切る。
彼は当初彼女に感動と喜びを満面にした顔を向けていたが、ふと違和感を覚え、医師を振り返る。
「……姫だったのか?」
医者は無言だった。王は不審におもって他の人間も見回す。皆、顔を背ける。中には口元を抑えている者までいる。
「ほら、お父様ですよ……ね、抱いてあげて、旦那様」
泣きじゃくる我が子を慣れた手つきであやしながら、リテリアはロステムに渡そうとしてくる。
彼がぎこちなく受け取ると、さりげなく医師がやってきて、赤子のおくるみをそっとめくり、裸をロステムに見せた。
幸福から疑念に変わりかけていた顔が一気にこわばった。産まれたばかりの赤ん坊には、どう見ても間違いなく、男の徴がついている。
「……リテリア?」
彼はおそるおそる呼びかける。
すると産後のやつれて疲れた顔に、とびきり人なつこく優しげな、聖母のような微笑みを浮かべて――彼女は愛想良く応じた。
「どうかしたの、アルトゥルース? 可愛い赤ちゃんでしょう? 美人になると思わない? 女の子だから、レィンって名前にしましょうね。二人で相談したとおりよ――ね、あなた。……喜んでくれないの?」
言葉もなく立ち尽くす人々の中で、彼女は無垢に、ただただ無邪気に笑う。
たった片方残された黒い右目からは、すっかりと正気の光が消え去っていた。




