番(つがい)
「近寄らないで!」
紗幕の向こうの影が近づく気配を察知した瞬間、驚愕に硬直していたリテリアは我を取り戻し、鋭い一声を放った。
ぴたりと立ち止まった気配を瞬きもせず見つめながら、リテリアは鳥籠の中を後ろに後ずさった。震えが止まらない。妊娠するまでの夜、ロステムが来たとき以上に、今の彼女はすっかり紗幕の向こうの人物に怯えきっていた。
――正確には、その人物との再会が為された場合に起こる、あらゆることに関して、最悪の事態の予想に対して怯えていた。
この幕が上がったら、二度と元に戻れない。
直感が決別のきっかけを予感する。行くか、戻るか。ずっと取り上げられていた選択肢が、それを彼女に与えてくれる人が、なんの心の準備もしていないうちにやってきた。
外の彼は少しの間リテリアの様子をうかがっていたが、再び優しい調子で話しかけてくる。
「この三年間、ずっと――ずっと、君を探していた、探し続けて、手を尽くして――ようやく、見つけた」
「駄目。開けないで」
影が動き、帳が暴かれそうになるとリテリアはもう一度固い拒絶の声を上げる。
布越しに、格子越しに、二人はお互いを見つめる。その向こうの愛しい人の姿を夢想する。けれどリテリアの拒絶は強かった。
「何も言わずに、このまま帰って」
「……どうして?」
「私、あなたと一緒に行けない。もう離婚してるでしょ? 私たちは赤の他人。関わろうとしないで」
冷たいリテリアの言葉に、アルトゥルースは少し考え込んでいるように間を開けてから、あくまで静かに、優しく語りかけてくる。
「身体に悪いところでもあるのか? なら――」
「そうよ、私、お腹に赤ちゃんがいるの。ちょうど産み月。父親の名前を聞いたら畜生にも劣るってあなたはきっと思うわ」
リテリアは早口で一気に言い放った。空気の緊張感が一気に高まったのを感じる。
アルトゥルースがどこまでリテリアの事情を知っているのかわからない。リテリアが外のアルトゥルースの様子を知りようがなかったのと同様に、彼もまた彼女の様子はここに来るまでわかっていなかったのかもしれない。少なくとも、幕ごしに強い驚愕は伝わってくる。
――本当の事を知ったら彼は傷つくだろうね。君の事を軽蔑し、憎むかもしれない。君はそれに耐えられる?
――耐えられる、はずがない。
だからリテリアは彼を拒絶する。彼に暴かれることを否定する。
「……わかったでしょう? あなたがもし、私の事をまだ妻だと思っていてくれたとしても……私はあなたを……う、うら――裏切っ、た。もうあなたの妻でいられない。レィンの母でも――いられ、ない」
外の気配は動かなかった。彼女は鼻をすすりそうになるのを、さらに悪化してえずきそうになるのをこらえながら、自分を励まし、言葉を続ける。
「わかって……なんて、言えないけど。お願い、こんな醜い姿――あなたに、見てほしくないの。あなたの幻滅する顔も、み――みたく、ない。もう、どうしようもないの、だったら綺麗な思い出のままでいい、何も言わずに行って、誰にも見られずに逃げて。……お願いよ、あなたがどんなにか、さげすんだとしても――せめて私を少しでも哀れとおもってくれるのなら、二度と私の前に幻を見せないで」
動きを止め、彼女の言葉に聞き入っている気配に、最後に一言迷ってから付け加える。
「……危険を冒して会いに来てくれて、嬉しかった。だから、もう十分です。帰ってください。……レィンを、幸せにしてあげて」
口調を意識して他人行儀だった頃の物に変えると、少しだけ相手が身じろぎする。
けれど彼はそれ以上動こうとしなかった。
近づこうともしないが、離れていこうともしない。
檻の前、帳を下ろして互いの姿を隔てたまま、じっとそこにいる。
――ぎゅっと目を閉じて両手を祈るように握りしめているリテリアの耳に、動く音が届く。その場に、座り込むような音。
「……身体の調子は大丈夫?」
何を言うべきか迷った末に、彼は最初にそう尋ねてきた。言葉の調子は、リテリアがおのれの不貞を告白した前と全く変わらない――更に言うのなら、結婚して幸せに暮らしていたときと全く変わらない、優しく、相手を気遣うもののままだった。
熱くなる目尻をぬぐいながら、籠の鳥は小さく答える。
「あまり、いいとは言えないわ」
「そう。君はその子を産むのか? 産みたいと思ってる?」
「わからない……本当は、ほしく、ない……でも……でも、赤ちゃんが悪いわけじゃ、ない……」
腹のこのことを話すと涙を止めることができなかった。
アルトゥルースはそんな彼女の事を責める様子もなく、じっと待ちながら、しばらく何か考え込んでいる。
やがてリテリアのすすり泣きが落ち着くと、彼の落ち着いた耳に心地よい声が再び上がった。
「なら、その子は――俺の子だ。俺と君の子だ、リテリア」
「……アルトゥルース――あなた、何を言っているの?」
驚きのあまりリテリアの涙が止まる。
紗幕が揺れた。布越しに、アルトゥルースが寝台の扉に手をかけたらしい。
二人を隔てる鉄格子を握りしめたまま、彼の強い意思を秘めた言葉がくっきりはっきりと胸に伝わってくる。
「だって、俺たちは夫婦だ――あんなくだらない茶番で、たとえ手続き上取り消されているのだとしても、俺たちの縁は、魂は、まだつながっている――違うのか、リテリア? それとももう、君は俺を嫌いになったって言えるのか?」
リテリアは口を開いた。
自分の状況を考える。相手の状況を予想する。他の事も次々と頭を巡っていく。
理性的に考えるなら、大嫌いだと拒絶して、このまま別れなければならない。これ以上彼を自分に巻き込んではいけない。それで良い結果になるはずがない。
けれど、頭でいくらわかっていても、リテリアの身体は彼女を裏切る。
否、これ以上ないほど彼女に忠実だった。
――引き離され、別の男に抱かれ、孕まされ、忘れようと何度思っても、できなかった。いつも心の片隅に家族の姿があり続けた。
リテリアの泣き声混じりの沈黙を肯定と受け取ったのだろう。アルトゥルースは重ねて訴えかける。
「リティ。君の子は俺の子だ。一緒にここを出よう。レィンに会いに行こう。それでやり直そう。また、皆で家族になろう。なくした時を取り戻そう」
垂れ幕の間をかき分けて、腕が鳥籠の中に現れる。
彼はまだ、姿を見せない。リテリアがまだ撤回していない以上は強いて彼女の事を見ようとはしない。
ただ、閉鎖された世界に、外側から、誘いを、導きを差し入れた。
「言って。助けてって言って、いいんだ。俺は君の夫だ、君の夢を叶える」
リテリアの身体はふらふらと動く。重たい腹を抱えて、彼女はただ彼女を待ち続ける夫の手に近づいていく。
闇の中に差し込んだ光に、惹かれて、すがるように。
「やめて、そんなこと言わないで……私――」
「リテリア」
「私、諦められなくなる……あなたってどうして、いつもそうなの……?」
片手におずおずと重ねようとした彼女の両手は震えている。
触れ合った瞬間、相手が力強く動いてリテリアをとらえた。大胆に、けれどあくまで優しく。記憶の物より幾分か痩せて荒れた手が、彼女の手をさぐってなぞり、指を絡ませる。
――彼女の夫は、本当に理想の男だった。傷ついた彼女を見捨てず、ともに歩み続けることをけして諦めない。日の光、そのものだった――。
「愛している、リテリア」
指先から温もりが身体に伝導する。
人肌の快さを思い出す。凍えがほどけ、こわばりが溶ける。
リテリアの細く繊細な指に、ほんのわずか力が灯った。
「私も――あなたとレィンを、ずっと愛しているわ」
彼女はついに、彼の手を握り返した。
――けれど、帳が開かれて彼が姿を現すことは、扉が開かれて彼女が外に連れ出されることは、ついになかったのだ。
「アルトゥ――アルトゥルース?」
最初に彼女が感じたのは、力の変化である。
がくり、と握りしめていた彼の腕が突如下がった。
落とさないように慌てて支えようとして、彼女はぽかんとする。
ぼたぼたと、腹に落ちる感触。
握りしめた腕の奇妙な浮遊感。重たいのに、軽い。
――なぜ、肘から下がないの?
切断されたアルトゥルースの右手を抱えたまま、リテリアが呆然と瞬きをした瞬間だった。
彼女と外部を分離する紗幕一杯にぱっと鮮やかな赤色が広がったかと思うと――絶叫が鼓膜を突き刺した。




