籠の鳥4
その晩、リテリアは眠れずに過ごしていた。
ロステムが散々甘やかして贈ってくる服は申し分ない着心地だが、妙に身体に重たく億劫にまとわりつく。
なんとはなしに見下ろした腹は大きい。
決定的な気持ちになれないまま、ぼんやりと過ごしている間に――いつの間にかもう、二人目の子の産み月になっていた。
漠然と、許されるはずがない、産んではいけない、この子を育てられるはずがないと思う母親の心とは裏腹に、腹の中の子は産み月に従って育っていった。懸命に生きる小さな命に、優しい彼女は結局積極的な否定を与えることができなかったのだ。
予定日が近づくと、ロステムが姿を見せる頻度も減った。
喜びと興奮に満ちる彼は、彼女が母親らしくなっていくと前に増して妹と一緒にいたがったが、医者がそれをやんわり止めたのだ。
「お産は何が起こるかわかりません。できるだけ、母体に健やかに、安定した精神状態で臨んでいただきませんと。ご母堂の健やかな安眠のためにも、共寝は控えていただけませんか」
情報の制限された宦官にも、母親が子どもにも父親にも正常で満足な愛情を抱けていないことは、彼女の望まない妊娠であったことは、十分伝わっていたのだろう。リテリアが二人目の子を腹に抱えながら、憂いに満ちた顔をすることはあっても、微笑みを浮かべたことはなかった。
出産への立ち会いや直後の入室にも後ろ向きな姿勢を示した医師に、国王は非常に渋い顔をした。母体が妊娠期間を通して終始あまり良好と言える状態でないこと、そのせいか腹の中の胎児が通常に比べて少し小さいように思えること――出産だけ考えるなら、むしろ小さめな方が産まれてはきやすいが――などを理由に重ねて並べられても、しばらくは聞こえないふりをしていた。
実際に、おそらく兄と一緒にいたせいで極度の緊張状態に達した母親から不審な出血が一度あってから、ようやく――苦い顔のまま、彼女を構い倒すことをやめると、彼は承知したのだった。
自分が追い詰めている自覚はあったろうに、ロステムがリテリア妊娠後少々強気な態度で接していたのは、彼女の情の深さを正しく理解している部分が大きかった。あるいは、男特有の母性神話に甘えていた。
たとえ強姦で孕んでも、母親は子どもを憎みきることはできない。自分が愛されることはなくとも、自分の子ならリテリアに愛されることができる。リテリアは我が子を大切にできない女ではない。子どもさえ産ませてしまえば情が移ってどうにでもなる。
――父は、そんな風に盲信していたところがあったと思います。リテリアの場合、それはあながち間違っている仮説ではありませんでしたが、やはりあの人は母に甘えすぎていた。だからこそ――。
ロステムの訪問が控えめになったかわりに、彼女の様子はリテリア専属の侍女となった例の元娼婦がみはっていた。いつ産まれてもおかしくないのだからと、一日中彼女の側から離れず、いつでも医師に連絡ができるように目を光らせていた。
ただ、あまりあからさまに自分の存在を主張するとリテリアの気鬱の原因になるので、あくまで置物のように、けれど必要な時だけはきっちり動く――そんな理想的な仕事ぶりを、プロ意識の高い女はこなしていた。
リテリアが眠れなくなった晩の発端は、そのしっかりものの侍女が何やら慌ただしく出て行こうとしたことだった。
人の動く気配で目を覚ましたリテリアは、何かあったらすぐ呼び鈴を鳴らすようにと言い含められ、曖昧にうなずいた。らしくない様子で、こちらをうかがいながらもいそいそと彼女が部屋を出て行くのを呆然と見送り、しばらく沈黙が訪れるとのろのろ寝台に戻る。けれど一度夜中に冴えてしまった目はなかなか閉じても眠りを導いてくれず、彼女は結局重たい腹を抑えて寝台の上に座り込む。
――奇妙な、ざわめきというか。虫の知らせというか。そういうものがあったかもしれない、と母はこのときのことを語っています。
取り残されてぽつんとしたリテリアは、豪奢な紗幕で覆われた鳥籠の寝台の中で、緩慢にあてもなく思考を泳がせる。
あの冷静で淡々と業務をこなす女性がこんな夜中に出て行くなんて、よほどのことが外であったのだろうか。
たとえば兄に、何かが?
リテリアは外のロステムを知らない。イライアス一世としての彼がどうしているのかわからない。
ふと、彼女は思う。ロステムにもしものことがあったら、自分はどうなるのだろう。
――お腹の子は、どうなるのだろう。
神代、神々は兄妹で結婚をしていた。なぞらえて、王族同士で近親婚をくりかえした王朝もある。
けれど、代が進むにつれて人は学んだのだ。濃すぎる血は破滅をもたらす。ゆえに当代では、近親の交わりは法でも禁じられている。おそらく王になったロステムでさえも、安易に法をゆがめることはできていないはずだ。リテリアを誰の目からも隠すように閉じ込めている以上、表の仕組みは表のまま、彼は自分の子どもを適当な庶子として、仮の母でも立てて育てるつもりなのではないか。
ぼんやりと、彼女は子どもが育っていく様子を想像しようとする。とても難しかった。アルトゥルースとの間に子を授かったときは、あんなに毎日二人で話し合って、夢にまで見たというのに。
――私の、もう一人の子は。どうしているのかしら。
兄に言われたとおり、リテリアは昔の家族のことをなるべく忘れ去ろうとしていた。
思い出しても辛くなるだけだし、尋ねなければ逆に幻想に浸っていられる、希望にしていられることにいつからかリテリアは気がついた。
嫉妬深いロステムのこと、自分のことをあれだけ派手な事をしてまでも囲い込んだぐらいなのだ。二人が無事でいる可能性の方が限りなく低い。
それでも、残忍な彼の口から、はっきりと言われない限り。
あるいは自分の目で、二人の末路を確かめない限り。
リテリアは想像の中で、平和に暮らす二人を夢見ることができる。そこに自分がいなくとも、どこかで幸せに暮らしている二人を夢想し、ほんの少しだけ幸せを分かち合うことができる。
まだ、歯だって生えてなかった、首も据わりきっていなかった、乳離れも済んでいなかった――レィン。
寝返りはうまくできるようになった? はいはいはちゃんとできた? 立ち上がって、歩けるようになったらどこに行くの? 髪はどのぐらい伸びた? 背は大きくなった? 体重は重くなった? 言葉を喋るようになった?
――いつ、ママと呼んでくれるようになるのかと、あんなに楽しみにしていたのに。
じわりと喉が、目が熱くなり、リテリアは口をおさえる。
考えてはいけない。失った愛しい家族のことを、娘のことを、夫の事を。
お腹の子は産み月だ。もう産むしかない。産んだところであのように愛せるとはとうてい思えない。けれど流すのはやはり残酷で――見張りの目もあったし――どうしても、できなかった。
リテリアは小さく嗚咽を漏らす。
人の目があるとどうしても抑えられる感情が、とどめる理由を失ってあふれ出す。
だから自分の声で、最初はその小さな音を聞き逃した。
数年間監禁され続け、悲しくも環境に順応した彼女にとって、けしてあり得ないはずの音だったせいもある。
最初は戸惑いと、迷いを含んでいた。
決意がなされると、静かに鍵が回り、ゆっくりと、慎重に扉が開けられる。足音もなるべく立てないように、気をつけて侵入した。
随分と気を遣っているようだけど――外での用事を済ませた侍女が帰ってきたのだろうか。リテリアが寝ていると思っての配慮かもしれない。おそらく紗幕をめくって中を確かめてくるだろうから起きているのはそこでわかってしまう。ロステムに余計な事を言われないよう、問題なく無事であることを示さなければ。いつも通りでいなければ。
鼻をすすり、顔を上げ、いつでも答えられるようにと息を吸い込もうとした彼女の呼吸が、次の瞬間、止まる。
「リテリア」
彼女は当初幻聴だと信じて疑わなかった。
願いすぎて、想いすぎてとうとう頭がおかしくなってしまったのかしらと自嘲する。
押し殺してきたはずの自分が、こんなおかしな夜だから、さっきみたいにぶわりと出てきてしまったのかと。
深呼吸して、幻を追い払おうとしたとき、その言葉は、その声は、もう一度聞こえた。
「リティ、俺だ。そこにいるんだろう? 君じゃないのか?」
小さく、人目をはばかるように投げかけられる。凜と澄んだ、意思の強い、快い男性のもの。
――聞こえるはずのない、もう失って、二度と得られるはずのない、忘れようと心の奥底に封じ込めていたものが、たったこれだけで色鮮やかに蘇る。
紗幕の向こうに誰かが立っていた。
影はこちらを注意深くうかがいながら、ゆっくりと近づいてきて、入り口で立ち止まる。
「……迎えに来たよ、リテリア。それとももう、俺のことは忘れてしまった?」
唐突に、霧が晴れたように、彼女はそれが夢ではないことを悟った。
紗幕を、檻を隔てた向こう側に――どんなにここにいるはずがないと考えても、確かにそこに、現実に――わかたれた、最愛の夫が立っているのだと、自覚した。




