籠の鳥3
彼女は知りようもなかったが、リテリアの部屋は本来正妃が与えられた私室の一つである。
正妃本人は王の怒りを買った結果、今では口にするのもおぞましい境遇になっていたが、それを籠の鳥が知るよしはない。
ロステムは追い出した忌々しい女に与えていた快適で贅沢な部屋の中から、よさそうな一つを選んで手を加え、彼女のための鳥籠を作り上げた。
部屋には生活に必要な物や、多少退屈を紛らわせるための物が揃っていたが、寝心地のよく大きなベッドには、その周りをぐるりと囲むように、どう見ても檻でしかない鉄格子が張り巡らされていた。
この鉄格子の入り口の鍵はロステムが持っており、普段は開けっぱなしにしているので出入りに問題はない。
ただ、リテリアが彼に反抗的な態度を続けたり、著しく男の気分を害する行動を取ると、彼はお仕置きと称して彼女を寝台の中に――籠の中に彼の気が済むまで閉じ込めた。
飲食はどころか排泄まで制限される拷問が、行儀良くしつけられたリテリアにはとてもこたえたらしい。
ロステムに対する嫌悪はさぞかし深まっただろうが、一度経験すると目に見えて大人しくなった。
嫉妬深い男は当初、籠の鳥の一切を自分が引き受けようとしたが、すぐに王である身の困難と限界を知った。
リテリアを囲っておく力を保つには王としての仕事をしなければならないが、そちらが多くなりすぎるとリテリアと過ごせなくなる。また、リテリアが体調を崩しがちで、健康面に心配がある点も彼のことを悩ませた。
公務をこなしながら合間の時間には夫に手料理すら振る舞いに行っていたというバスティトー二世の異常さを、改めて噛みしめさせられる。
実際には結構仕事を部下に丸投げしていたりもしたから成立した生活なのだが、生真面目なロステムにはその辺りの調整が母親ほどうまくいかない。
怪物の息子ながら彼女より大分平凡なロステムは、屈辱を感じながらも他人の協力を必要とせざるを得なかった。
彼はやがて、一人の女性に自分の留守中の籠の鳥の世話を一任する。
意外にも、一度はロステムの夜伽指南になろうかというところだった未亡人――つまり元娼婦だった。
娼館一番の売れっ子だったのを、当時王太子だったロステムの相手を満足につとめられなかった事によほどプロ意識を傷つけられたらしく、直後に適当な男を捕まえて隠居してしまった。
その相手もぽっくり逝ってしまって暇をもてあましていたところに、昔プライドをこてんぱんにしてくれた王がやってきたのだ。
あの時やり残した仕事の続き、というノリで彼女はあっさり引き受けた。仕事なら嫌なことでもきっちりこなすし私情は挟まない、クライアントの事情にけして深入りしない――そんな姿勢が王にとっても都合が良かったのだろう。
女にある程度リテリアを任せられるようになると、大分ロステムの様子も落ち着いてきた。
鳥籠の関係者達は、内宮の奥にいるのは本来処刑されても全く文句は言えないような重罪人だが、運良く王の目にかなったので幽閉寵愛という形にしたのだというような見せかけの事情を聞き、信じている。
多少勘がいい者なら、王の執心を一心に受けている彼女が未来の王太后になることは容易に想像できるが、さすがに実の妹を死を偽装してまで囲っているというおぞましい事実を言いふらす者はいない。
もちろんそんな人間がいれば口を開く前に秘密裏に片付けられたのだし、何より関係者は適度に賢く臆病者揃いだった。好奇心に負けて自らの生活を脅かすより、口をつぐみ目と耳を塞いで思考を緩慢にし、ゆるやかに平穏を甘受することを選択したのだ。
ロステムはおおむね無関心で誰にも公正な王だったが、この件だけには徹底して理不尽で残虐だったから。――ちょうど、彼の母親が乗り移ったかのように。
監禁されることはともかく、抱かれることを当初リテリアは激しく拒んだ。妊娠を恐れたのだろう。
組み敷かれると声がかれるまで絶叫し、自分が傷ついても暴れ、度々彼女の最愛の男の名前を呼んで助けを求めた。もちろんロステムは静かに激怒し、報復を加えた。夜を越える度に彼女は大人しくなっていき、やがて諦めた顔で身を任せるようになった。
身体をどれだけ貪られて快楽に慣らされても、一向に屈しようとしない頑なな心が彼女の片目に宿り続けるのを見ると、男の欲望はますます火をつけられるようだった。
男の愛情は深まる一方だった。女が何も返そうとしなくても。
――あるいは埋めようとして、彼も必死だったのかもしれない。
リテリアがロステムの籠の中にとらわれてから数ヶ月が経った。
世話係の元娼婦に言われ、王は鳥籠に医者を連れてきた。
去勢された男は鳥籠に張り巡らされた分厚い紗幕ごしに何度かやりとりをし、立ち会いの王と世話係の協力も得て診察を終える。
ロステムは男が直接リテリアに触れることも、姿を目にすることも許さなかった。言葉を直接交わすことさえ嫌がったぐらいだった。
医者は高貴な女性の潔癖性にはある程度慣れている方らしく、面倒な対応をされても気にした様子はない。紗幕から出てきた王を招いて、女には聞こえぬように告げた。
「恐れながら陛下。月の物が止まっているという事でしたが……ご懐妊ではないように見受けられます」
「では何かの病気だとでも? 治せるのか?」
「格別、何か特別重病であるというようなことではないかと思われます。ただ、著しい環境や心境の変化によって、特に女人の体の調子に乱れが出ると言うことは、昔からあることです。私の知っている同じような例では、親族の死によって傷ついた方が、数ヶ月月の物が止まっていたと――」
「なるほど。治すにはどうすればいい。子どもはいつできる。それとももう無理なのか」
医者の出そうとした例は王にとって気に入らないものだったのだろう。遮るように言った彼に、宦官は一度言葉を切ってから腰を折る。
「格別、お身体のどこかが悪いというようには見受けられませぬ。おそらくは気の病でしょう。ならば……時が解決してくれるかもしれません。お健やかに、お過ごしくださいませ。可能であればこの部屋以外をお散歩などするとよろしいでしょう」
「部屋からは出さない。今だって辛いのに、あれが出歩いたりしたら私はきっと嫉妬で殺してしまう」
王が素っ気なく言うと、宦官は途方にくれたような顔をする。
労をねぎらい、口止めを厳重にしてから医者を追い返すと、彼は世話係も外に出してしまって、彼はリテリアに近づく。
「御子が、ほしいのですか」
やつれてなお愛らしい彼女が寝台に座り込んだまま弱々しくつぶやくと、男は微笑みを深めた。
「早く作れと臣下達にこぞってせっつかれているし、僕自身も家族に会いたい」
「生む人が、私でなくとも――」
「君以外に生ませたくない。でも君の方はあくまで僕を拒もうとするんだね。ようやく身体はなじんできたと思ったらこれか。アルトゥルースの子は結婚してすぐできたのに」
冷酷ながらもいとおしさのにじむ言葉に、リテリアは困ったように眉を下げた。
兄の子をできることなら産みたくないと思っているのは事実でも、身体の調子は彼女の本意というわけでもない。だから返事に迷ったのだろう。
――昔もよく、見せていた表情だった。返事に困ると、曖昧に微笑んでごまかそうとするのだ。自分の笑みにそれだけの力があると無意識にわかっている。そんなしたたかで愚かな様子ですら、どこまでも愛おしい。
彼の手が伸びて指の腹が頬に触れると、びくりと身体をこわばらせる。
「いいさ。それならそれも、構わない。僕と君で、二人きりだ。愛しているよ、リテリア」
「私――」
妹の言葉を塞ぐように、乱暴にロステムは口付けた。
押し倒されるとリテリアは目を閉じる。背中をひっかく爪が快楽によるのか抗議なのか、漏らした甘やかな吐息は諦念のため息なのか――男には彼女がどれほど感じているのか、最後までわからなかった。彼自身はいつだって夢中だったから。
ロステムとリテリアの関係は、彼女が夫と子の事を全く口にしなくなると奇妙な緊張の中で安定した。
元々散々優しくしようとしている兄である。嫉妬で制御ができなくなる要因が忘れられれば、落ち着いて妹を甘やかすことができた。
リテリアは悲しそうな、何かを言いたげな目で彼を見つめる。彼女から何か言葉をかけてくることは少ない。声をかけられれば答えることもあるが、妹は兄との交流に消極的だった。それは仕方のないことだと兄も心得て、特に気を悪くした様子はない。
彼は黙って妹に口付ける。妹はわずかに眉をひそめて、彼を押し返すように胸板に手を当てて、結局力に屈するままされるがままになる。
彼らの関係とはそうしたものだった。
ある晩、ふと目を覚ましたロステムは珍しい気配を悟る。
兄との交わりを嫌がる妹は、横で寝ていると腕の中に閉じ込めて固定しない限り大抵拒むように背中を向けているのだが、このときだけは兄の顔を見つめていたようだ。
起きているのがわからないように息を潜め、彼は彼女の様子をうかがう。しばらくじっと見つめるだけだったらしい彼女が、ふと小さな声を上げる。
「あなたが、おにいさまじゃなかったら」
それはおそらく独り言で、考えているうちについ口から出てしまったものなのだろう。息を呑んだロステムに向かって、愛しい人は言葉をつむぐ。
「私はあなたを愛せたかしら。あなたを愛していたのかしら……」
誰に向けたものでもない、おそらくは自問自答だったのだろう。
思わず声を上げそうになった男は全精神をもって自分を律する。
やがて彼女がうとうとまどろみ、静かな寝息が聞こえてきてようやく、ロステムはかたまっていた姿勢から抜け出し、静かに鳥籠を、部屋を出る。
そこでいつもの通り誰もいないことを確認してから、彼は泣いた。
自分の腕を噛んでうめき声を封じながら、しばらくの間嗚咽を漏らしていた。
時が問題を解決することもある。医者の言った言葉だ。
それは男にとって奇跡で、女にとっては絶望だった。
「……ご懐妊、おめでとうございます」
監禁が始まってから二年以上経過したある日の午後、ついに何度目かの検診で宦官はそう口にした。
男の顔はにわかに紅潮し、女の顔は青ざめる。
「リティ」
黒い目と愛らしい唇を開き、硬直する妹に向かって、傍らの兄は言う。
「ほら、やっぱりできたんじゃないか――僕たちだって、できるんじゃないか」
彼の喜びは隠しようがなかった。ロステムは何度も妹に接吻し、彼女の生活環境をより改善しようと努力を惜しまなかった。
リテリアの顔は浮かないままだ。どこか夢見心地な様子で日々を過ごしている。
夜にロステムがやってきて何もしないのを、びくびく怯える小動物のような態度で、奇妙なものを見る目で眺めていた。
母親の気も知らず、腹の子は父の期待通り順調に育っていく。
内側から強く蹴り飛ばされるのを感じて、まどろみかけていたリテリアは驚いた顔をする。
自分の身体を見下ろした彼女の片目から、突如涙があふれ出した。
「ごめんね……弱いお母さんで、ごめんね……」
彼女はお腹を撫でながら、何度も何度も謝罪の言葉を口にする。
母の言葉に反応するようにまた蹴られる感触がすると、彼女はますます泣いた。
――たぶん、お腹の子どものために、泣いてくれた。




