籠の鳥2
彼女が重たいまぶたをゆっくりと開けると、鳥籠のような格子が、大きな寝台が、そして傍らに微笑みを浮かべたまま彼女を撫でている兄の姿が映る。
彼は昨晩と同じ格好をしていた。その褐色の肌は、いつになく健康的でつややかに輝いて見える。
リテリアの方の服は、身につけていたはずものは服から装飾品まですっかり全部どこにも見当たらない。見慣れない室内用のドレスに着替えさせられていて、身体も寝ているシーツも汚れなく清潔で、ふわりと馴染みのある香料を鼻孔に感じる。昔、王宮でリテリアが愛用していた石けんの香りだ。
何度か瞬きし、飛び上がるように起きた彼女は、衝動にかられるように勢いよく長い袖をめくりあげる。
「――ああ」
うめき声は絶望の色を帯びていた。
彼女の手首にはしっかりと、昨晩拘束されていたことを示す痕が浮かび上がっている。逃げようとして暴れたせいで擦れたのかもしれない、赤い箇所にはひりひりとした痛みが鈍く走っていた。のろのろと他の部分まで確認すれば、それだけでない。身体中のあちらこちらに、噛み痕や強く吸い上げられたせいでできあがった痣が散っている。いやの声を上げる度につけられたものだ。こちらの方にも覚えがある。
――悪夢ですら、なかった。現実なのだ。
目を大きく見開いたリテリアは、手首の痕を擦るように、ひっかくように動こうとして、手首をつかまれた。身体が跳ねて震え上がる。ガチガチ歯を鳴らしながら怯える目を向けると、兄は単に妹が傷を大きくしようとするのを止めるつもりだっただけらしく、すぐに手を引く。
身体が離れた瞬間、リテリアは後ずさって最大限彼から離れた。ロステムも特に追いかけようとはしない。
背中に硬い物が当たる。寝台周りに張り巡らされた格子はリテリアの逃げ場を阻む。出入り口のような部分はちょうど兄の背にあって、今の彼女の位置からでは移動が難しい。
「……うちに、かえして」
兄から目をそらし、鉄格子に背を預けたままうつむいていた彼女は、やがて消え入りそうな声でぽつりと呟いた。ロステムの黒耳と優美な尻尾が揺れ、金色の目が瞬きする。
「だめ。君はこれからずっとここで暮らすんだ。僕と一緒に」
彼は穏やかな声音で、けれどきっぱり断言した。
リテリアは一晩でげっそりと隈のできた、やつれた顔を彼の方に向ける。
「そんなの無理よ……だって、私は、外で待ってる人がいるの」
「元第二王女は神の誓約を違えた罪人だ。降嫁したとは言え、その破廉恥な行いを宮殿としても看過するわけにはいかない。協議の結果、身柄は神殿が預かり、厳重管理することになった。君は人を誘惑するのが得意だから誰にも会わせず、反省が認められるまで謹慎処分とする」
「こんなこと許されない……許されるはずがないわ、あなただってわかっているはずでしょう」
すらすらとよどみなく述べられる言葉に、彼女は力なく首を左右に振りながら疲れのにじんだ声で返す。
ロステムは穏やかな微笑みをますます深めていた。
「第二王女リテリアは、謹慎処分中に急病で死ぬ。神の裁きが下ったのかもしれないし、恥を偲んだ彼女が自ら世をはかなんだのかもしれない。でもその辺りは噂好きの勝手な奴に任せればいい。リテリアという女がこの世にはいない人間になることが大事なんだ」
「抱いて満足したから、殺すつもり?」
「――元王女リテリアは死んだ。そういうことになる。だから、ここにいる君は、たまたま同じ名前を持ち、たまたま似ているだけの――ただの、人間の奴隷なんだ。僕が何をしようと、誰も文句は言えない。だから僕は、この奴隷を愛そうと思う。愛して、愛でて、孕ませようと思う」
「信じ、られない。どういう頭してたらそんなことを思いつくの。あなたって悪魔だわ。殺される方がまだマシよ、いっそ殺しなさいよ!」
ロステムが語る意味を、自分がこれからどういう風に扱われるのかを今度こそ理解すると、彼女は震えながら叫ぶ。
けれど恐怖に身をすくませた小動物の精一杯の威嚇など、獅子にとっては涼しいものなのだろう。兄は機嫌を損ねた気配すらなかった。
息を荒げた彼女は、にらみつけても怒鳴りつけてもむなしいだけと悟ると、大人しくなって視線を下げる。まぶたを下ろした拍子に、目尻から涙が一筋頬を伝い落ちていく。震える淡い唇から、思わずと言ったようにその言葉が漏れた。
「アルトゥ……」
「リテリア。その名前を僕の前で口にするなと、昨日も散々教えたはずだね」
途端にロステムの低い声が這うように響いた。最も不愉快な存在を思い出させられると変化は劇的だ。近づいてくる男の姿に身をすくませながらも、リテリアの黒い瞳は反抗心を失わない。
「私の夫は昔はオディロン様で、今はアルトゥルースです」
「結婚はもう解消されているよ」
「私たちは無実です。あの人だって納得するはずがないわ。……だから、だから、私」
「ふうん。それじゃあ君は、僕とのことを打ち明けるつもりなんだね。なんて説明するの? 兄に強姦されたの、慰めて。そうやって泣きつくの? あの男に? なんなら抱き直してもらう?」
このまま進めてもリテリアが頑なに未練を強めるだけだろうと判断したのだろうか、彼は話す言葉を変えた。狙い通り効果はすぐに現れ、落ち着きを取り戻して兄に気丈に反論する構えだったリテリアが目に見えて狼狽する。ロステムは胸の中に黒いもやが溜まるのを、心に膿がにじんで血を流すのをそのままに、わざと被害者の罪悪感をあおる言い方を続ける。
「君は僕の周りのしたたかな女達とは違う、純真で素直な子だもの。黙って元通りになんてできないでしょう?」
「……ひどい」
「あの男のところにはもう帰れないよ。汚したのは僕、でも君だって汚されたんだ。本当の事を知ったら彼は傷つくだろうね。君の事を軽蔑し、憎むかもしれない。君はそれに耐えられる?」
汚された、と口にして取り戻しのつかない事実を指摘してやれば、哀れな妹は大粒の涙をはらはら右目からこぼしている。真珠があふれ出すようで、そんなかわいそうな様子まで可愛らしいと感じる自分の心を、ロステムは密かに自嘲する。
リテリアはしゃくりあげ、ぐったり鉄格子にもたれかかったまま目を閉じた。
「せめてレィンに……子どもに、会わせて。まだ乳飲み子なの、お乳をあげないと……」
「別の誰かが育てるさ。前の家族のことは、忘れなさい」
「子どものことすら、許してくれないって言うの? このままあの子からも、私を引き離すつもりなの?」
「君が忘れるといってくれるなら、僕もこれ以上は何もしない。でも君がいつまでも僕を苛立たせるつもりなら、僕の忍耐が続く保証はしない。いい加減に、自分の立場を自覚して、僕のご機嫌うかがいでもしてみたら?」
男の口からはするすると、的確に彼女の心をえぐり取る言葉が流れていく。
我ながらよくまあこれほど悪い台詞が浮かぶものだ、と揶揄する兄の心中など知るよしもなく、彼女はまったく予想通りの反応をいちいち返してくる。
「あの人と、赤ちゃんに――何かしたの」
立ち現れる母親の顔に、ロステムは自分の心が激しく燃え上がるのを感じた。
妬ましい、疎ましい、憎らしい。その細く白い喉を手折ってやったらどんなにかすっきりするだろう。息が止まり、血が全身をかけめぐって毛が逆立つ。
わき上がる暴力的な衝動を全力で抑えて、つとめて控えめに彼は答えようとする。彼は今、この場の支配者だ。自分の弱味など見せてはいけない。王としていつもやっていることを思い出して、自分の本性をひた隠す。
リテリアの目には、それがひどく冷徹な態度に映ったことだろう。それが彼なりに虚勢を張り、精一杯彼女に自分の動揺を隠そうとする姿なのだとは、思いもよらなかったに違いない。
「……さあね。でも罪が公的に認可されたんだ、少なくとも醜聞は免れないよ」
「二人にもしものことがあったら、私は一生あなたを許さないわ」
「それじゃ、二人の安全を保証したら、代わりに一生僕を、僕だけを愛してくれる?」
「そんなの――そんなの、無理よ……だって、あなたはお兄様なのに」
途方に暮れる、泣き出しそうな声に、ロステムの心が密かに泣きたいのはこちらだ、と呟いている。
彼はすっかり聞こえないふりをして、冷血漢の顔を保った。なんでもないように見せるのは、昔からとても得意だったのだから。
リテリアは泣いていい。被害者なのだから。
でもロステムはだめだ。言い訳は許されない。――加害者なのだから。
彼は心の中で何度も自分に言い聞かせ、戒める。絶対に、その様子を彼女に悟られないように努めながら。
「リテリア、わかってくれないかな。僕は最大限譲歩している。後は君の努力次第だ」
「……そんなの、知らない。おうちに、かえりたい。かえして」
「だめだ。ここがお前の家だ。ここから一歩も外には出さない」
「夫に、赤ちゃんに、会いたい……」
「僕がお前の夫だ。赤ちゃんがほしいならすぐにでも作ってあげる。今度はちゃんと、大きくなるまで育てさせてあげるから」
「いや……なんで、どうして、私なの……」
ぐっと男は苦い言葉を飲み込む。
大きく怒らせた肩を下げてから、何度か呼吸を繰り返し、偽りの余裕に満ちた貼り付けの笑みをようやく取り戻した。
「今はまだ、失言が多くても許してあげる。でも今夜からはちゃんと考えて振る舞うことだ。僕を怒らせたら、君の事を部屋どころかこの鳥籠の中に閉じ込めて出さないし、君の大事な人に嫉妬で何をするかわからないよ」
心身共に弱っているリテリアには、今すぐ積極的に抵抗をする気は起きないのだろうか。あるいはロステムがちらつかせた家族の安全が重たく響いているのかもしれない。
ロステムが鳥籠を、鳥籠の備えられた彼女用の部屋を出て行こうとしても、鍵の閉まる音を聞いても目を閉じてすすり泣きを続けたまま見ようともしなかった。
扉を閉ざしてしまってから、彼は大きく息を吐き出す。
――これで、満足だ。僕の思い通りだ。この状況を望んでいた。そのはずだろう、ロステム。
しばらく重たい扉越しに、よく聞こえる耳でようやく手に入れた妹の嗚咽を噛みしめ、深く深くその嘆きを魂まで刻みつけようと目を閉じる。
心の中の、ほの暗い優越感だけを意識して反芻し、虚無感を徹底的に無視しながら――彼は音もなくその場を離れた。




