手記7
後の世で、イライアス一世とはどんな人物に語られているでしょう。
少なくとも二世、つまり私よりは褒められていることを願います。
治世の前半は、先代女王のカリスマだけで持っていた分裂寸前の国を、なんとか踏みとどまらせていた、とても頑張っていたように思います。
後半あのように決壊してしまったので、その部分が強調されているのでしたら、残念ながら私と同じ愚王扱いされているのでしょうが。
イライアス一世とは、ロステムとは、おおむね恵まれた男でした。
地位も、富も、容姿も、生まれの血筋にも優れ、豪腕に加えて知性と自制心をも持っていた。
それなのに、たった一つ、ただ一つだけ、神は彼に試練を与え、彼はその試練で壊れてしまった。
あの人はね、血のつながった妹――それもたった一人、リテリアしか愛せない男だったのです。
精神的なら美談にもなるでしょう。だからあえて断言します。彼は実の妹への肉欲を捨てきれなかった。
本当に、ひどい素質があったものだと思いませんか?
ロステムは、妹以外の他の女性を、本当に、一人も抱くことができなかったんです。貞淑で不親切な貴族女はもとより、手慣れた商売女とすら、最後までなせることはなかった。
それでも、真面目な人でしたから、努力したんですよ。国王は跡継ぎを待望されていましたし、三姉妹が散々甘やかされていたので、公的な期待は、しわ寄せは全部、ことごとくあの人に回ってきました。
ロステムは、喜怒哀楽の出し方が下手な人でしたから、だめだと言わないのをいいことに、皆でよってたかって、あの人の本当は柔らかくて繊細な心を踏みつけたんですね。
あの人が壊れるその日まで。壊れてからもなお、死ぬまで。
思えばロステムという男は、幼少期から不幸の連続でした。
一言で表すなら不信と虚栄の塊。
なまじ頭がよく真面目すぎただけに、自覚もまたより一層彼の心をゆがめました。
父は初めからなく、母には無視されて育った彼には、代わりに頼れる大人が、敬愛できる対象がなかった。
親切にしなかった相手がなかったわけではありません。
ですがそこには必ずと言っていいほど、対価が、打算がありました。
聡い彼は、子どもの頃から大人達の本音を正確に感じ取り、自分を無償で助けてくれる存在なんてないことを、自分を助けてくれる相手が脅威にならないわけがない事実を、誰にも言われずとも理解していたのです。
ある意味、彼は頭が回りすぎたのかもしれません。
取り繕うのがそれなりに上手な人でしたから、皆あの子は大丈夫だと思ってしまったのでしょう。
あるいは、もっと近づきたいと思っても、ロステム自身が深く拒絶しました。公平な王者とは誰とも親しくない存在であることを、幼い彼は心得ていたので。
バスティトー二世の初めての子は、彼女にとてもよく似ていました。
けれど女王にあった、自分に対する絶対の自信を――そしてそれこそが、あれほど残虐非道であった女王が最後まで神格化されていたことにつながるのですが――ロステムはついに、生涯得ることが叶わなかったのです。
「僕はだめな子なんだ。本当はね、何にもできないできそこないなんだよ。自分でもわかっている。だけどちゃんとしてないと、ふりだけでも続けないと、生きていることが許されない。僕は皆の王様なんだから、弱いのは、いけないことなんだよ」
私に、そんな風に教えてくれたことがあったのを思い出します。
「リティはね。でも、初めて、僕を心からすごいと思ってくれた子だったんだ。リティもやっぱり僕の虚像を見て、それが実像だと勘違いしていたけど、でも、見透かす瞳で笑ったりすることはなかった。本当に純粋に、いつもすごいすごいって言ってくれて、それでも時々、僕が本当に疲れていると心配してくれて――だから、僕は本当はつらかったけど、リテリアがいてくれれば、少し生きるのが楽になるって、思ってたんだよ」
……哀れで愚かな男でしょう。
最初はただ、幼子の淡い夢だったに違いありません。
安心できる人に側にいてほしい。できればずっと、長いこと。
それが、いつからでしょう。たぶんきっかけは、リテリアが鍵のことを持ち出したとき。
リテリアにとっては、あれは母に対する反抗期の一種でしかなかったのだと思います。
少しませた言動をしたのも、あのぐらいの年頃の子達が世の中を知ったような顔で大人の身振り手振りの真似をする――そういうものの一つだったのではないでしょうか。
でも、他でもないロステムを少々大がかりなおままごとの相手に選んでしまった。
それが間違いの始まりでした。
あの時、秘密の共有という蜜が、まず彼を大胆にした。
側にいるだけでいいが、一度触れてみたいに変わる。
触れてしまえば人肌が惜しくなる、もっと深くほしくなる。
その日からずっと、ロステムは二つの心で揺れていました。
理性と本能。
理性は今まで通りロステムに規範の申し子を求めます。それは彼にとって不自然と無関心ではありましたが、かわりに平穏をもたらしました。
本能は頭の理に反して妹を求めます。それは安心でした。悦楽でした。動物的な快でした。
リテリアの結婚が決まったとき、ロステムもまた譲位され、結婚し、それで諦めようとしました。
王太子時代から決められていたことです。何も変わらない。彼はそう思っていました。
けれど彼は王妃を抱くことができなかったし、臣下達がならばと連れてきた数々の愛妾候補にも満足できなかった。
ほかの事は、仕事は、公務は、努力次第でなんとかすることができました。
それなのに女性関係だけは、王太子時代からいつまでも汚点がつきまとうのです。
王太子時代ならまだ、潔癖すぎると少々笑われるだけで済んだ。
王になると、彼らは真面目な顔で王を遠回しに責めるようになる。
母親という女性に根強い不信と敵対心を持ったロステムは、見知らぬ普通の女性を可愛いとは思えません。
頭のいい人ですから、愛したり尊敬したりする真似はできます。貪欲な女達はそれで満足しない。夜を共にできないのだから子どもを授かりようがない。
そして人は、生殖を使命とする生き物とは残酷で、夜が駄目だと昼の様子までいつの間にかあざけるようになるのです。
王様は、ほかの事はなんでもおできになるくせに、赤子だけは授からない。
王様が赤子を授からないのは、彼の徳が本当は低いせい。
王様はそもそも、本当に女王様の子どもだったのか?
王様王様、すごい王様、だけど不能は能なしだ。
……大勢の他人は、特に民衆は無責任なものです。
彼らにとっては冗談です。彼にとっては静かな毒です。
ロステムはよく我慢していましたよ。本当に、あの人はじっと、何も言わず耐えていたんです。
結婚一年目で既に王妃や愛妾候補達を女として愛せない自覚を持ちながら、それでも彼女らの立場は大事にしようと注意深く行動していたんです。
それが、三年目だったかな。
最初は愛妾の懐妊がきっかけでした。
ロステムは当然、父親の調査をしました。どちらかというとこのときは愛妾に同情し、処遇に困って相手の男の都合を知りたいと思っていたようです。
ところがそのとき、ロステムの優秀な調査は、愛妾どころか王妃もまた、自分を裏切っていた事をつきとめてしまったのです。
いつまでも心をくれない夫に、ほかの事でどんなにか優遇されていても寂しいと言って、とっくの昔に愛想を尽かせていた妻。
全部が、馬鹿らしくなってしまったのでしょう。
オディロンに毒を贈りだしたのはその頃からだったはずです。感情のはけ口がほしかったのかもしれません。
それで、オディロンが病死して、リテリアが一人になって。
ほっとしたのもつかの間、彼女は別の男の手を取った。
それも義理の息子だった男の手を。
リテリアにとっては、本当に、理不尽なことだったのですし、ロステムの行動がけして褒められたものではない、むしろ唾棄されるべきものであったことは確かです。
ただ、彼が不幸な人物で、彼の行動には理由があったこともまた、事実だったのでしょう。
だからといって母が父を許せたわけではないでしょうが、父はあまりに母に話をしなさすぎたと――こうなってみると、強く思います。彼は結局、甘えすぎたのです。
……どうしてもっと、優しくなれなかったのでしょうか。そうすれば、きっと、何かが。
たら。れば。もし。仮定をしても無意味でした。事実を連ねる作業に戻らねばなりませんね。
――続けましょう。
籠の鳥の哀れな物語を、あと少し、あともう少しだけ。どうかそっと、静かに、ひそかに――聞いてくれませんか、愚かな人よ。