籠の鳥
リテリアの視界は片目である分、他人よりも狭い。今映っているのは、倒れ込んだ彼女の両脇に腕をつく兄の姿だけ。逃げ場を塞ぐように、腕の中に閉じ込めるようにした兄に、妹は明らかに怯えたまなざしを向けた。その様子を心底満足そうに堪能してから、ロステムは口を開く。
「聞いてみたいことがたくさんあるよね? たとえば、どうして僕がここにいるのか。たとえば、どうして君がここにいるのか。たとえば、どうして身に覚えのない冤罪を無実な自分がかけられなければならなかったのか。……そうだね、リテリア。僕はそのすべてに答えてあげることができる。僕がどうして今君の拘束を解いてあげないかも」
ロステムの褐色肌の手が伸びてきて、リテリアの顔に触れる。身震いした彼女に向かって、ロステムの顔が降りてきた。反射的に目をつむったリテリアの耳元に熱が落とされる。
「だってこの状況を仕組んだのは、僕なんだから」
睦言をささやくように、とても優しく甘い声でロステムは言った。リテリアは目を見開き、思わず息を呑む。彼が言い終わるのとほぼ同時に、耳に軽く噛みつかれたからだ。跳ねる身体を、ロステムの手が撫でる。肩から胸の膨らみを経由してへその辺りまで、なだめるように、あるいは押さえつけるように。
ロステムが身体を下ろしたせいか、リテリアにはようやく他の物も目に入ってきた。
最初に見つけたおかしなところは、視界の先に見える縞模様だ。縦に伸びた黒い線は、天井の方にあるとある点を中心に、そこから円状に伸びてリテリア達の周りへと降りていく。
反射的に線を追いかけた目は、円形の寝具と、それを取り囲む天蓋のような、蚊帳のようなものが格子模様の正体であると知る。
――そんな、優しいものではない。
徐々に調子を取り戻しつつあるリテリアの思考は、すぐに温い現実逃避を切り捨てた。自分の倒れ込んでいる丸いベッドを囲むように立っているそれは、一度認識してしまえばどう見ても格子だった。ぐるりと大きなベッドを覆うように取り巻いて、上方で集束する。
わかってしまえばどうということはない。リテリアが今いるのは、巨大な鳥籠の中なのだった。
「よそみかい、リティ?」
彼女の気がそれたのが気に入らなかったのだろうか。
やや不機嫌そうな声がすると、顎をつかまれ、顔の向きを無理矢理変えられる。
もう一度、ロステムの姿だけが目の前に広がった。
「――に、さま。どう、して」
「どうしてだと思う? 当てられたら、もう少し楽にしてあげるよ」
ロステムの言葉はあくまで優しい。けれどその目に冷たい光がつかの間宿った気がして、リテリアは身をすくませる。
彼女は必死に頭を巡らせた。ロステムは黙ったまま待つ構えらしい。けれど口を閉じている間に、彼の右手が催促するようにリテリアの身体をなぞり回す。
「わた――私。そんなに、お兄様に嫌われて――いたのですか。私が、あなたを昔……した、から」
「お前は本当に馬鹿な子だなあ、可愛い仔猫ちゃん。僕が君を嫌いになるはずがないじゃないか」
――お前は本当に愚かな子ですね、可愛い仔猫ちゃん。わたくしがお前を嫌いになるはずが――。
自分の顔から、さあっと音を立てて血の気が引いていったのを感じた。兄の口調がかつて彼女を絶対的に支配した誰かのものとぴったり重なる。
金色の瞳をきらめかせながら、歌うような抑揚をつけて男は言の葉を操る。
「何も、なぁんにも、わかってないんだね? きっとそうだと思っていた。だって昔の僕は、君にずっと気づいてほしくて、でも永遠に気づかないでほしくて――随分と回りくどいことをしていたと、我ながら思うよ。いや、はたしてそうだったかな? 結構わかりやすかったかも。でも明言はしなかった、それだけは確かだ。これでもね、すごく、すごく、我慢していたんだよ。だって君はそういうことが嫌いだと思っていたし、僕自身できっこないって信じていたから」
「……に、さま。なにを」
「教えてほしいんでしょう? どうしてこうなっているのか。だから今喋ってあげてるんじゃないか。……本当に、薄情な子だね」
ロステムはリテリアの身体の線をなぞりながら、うすら笑みを顔に浮かべたまま話し続ける。
しかしリテリアが少しでももがいて彼の下から抜け出そうとすると、身体をつかんで強引に元の位置まで引き戻し、自分を見つめさせる。
「リテリア、君は僕に、何も返そうとしなかったね。いいともいやとも聞いてない。でも君は、早すぎる結婚に確かに承諾して……それで、ここを出て行った。だから僕も、最初は君なりの一つの答えかなって受け取って、尊重するつもりだったんだよ。オディロンとはまだ白い結婚だったしね、それなら僕も自分に言い訳ができたから。……だけどね。一年後には――そうわずか一年後には! ああ無理だなって悟っちゃったんだ。身体は本当に正直だったよ、笑えるほどに。僕ね、自分は我慢強い方で、嘘が上手だと思ってたけど、これだけは駄目だった。これだけは絶対に、譲れないことだったんだ」
からから、とロステムが乾いた音を立てた。それがしわがれて空虚な笑い声なのだと、遅れてリテリアの頭が理解する。
彼女の頭の中の警鐘は鳴りっぱなしで、今すぐにでもここから離れなければ、この男の話に耳を塞がねばと思ってはいる。
けれどどんなに心で念じたところで不可能だった。
ロステムはリテリアを、物理的にも精神的にも締め上げて虜にし、彼女が自分から離れようとするのを許さない。
「――だから。こっそり、こっそり、少しずつ、誰にも気がつかれないようにほのかな悪意を贈り続ける。オディロンはそれで済んだ、僕もそれだけで満足できた。でもアルトゥルースは無理だよ。だってあの男は、君が嫁いだその日から君に惹かれて、それで実際君に密かに恋情をいだき続けていたんだろう? 姦通してない? 君はそうだろうね、でもあいつは有罪じゃないか、許せるはずがない。義理の親子だったくせに、誰にも責められることなく想い続けるなんて」
リテリアはぽかんと見上げるだけだった。さらりと、なんでもないことのように、ロステムは秘密を暴露する。アルトゥルースが密かに、結婚する前からリテリアを慕い続けていたことまで言い当てる。しかしさらに驚くべきはオディロンの事だ。
兄の語る意味を正確に理解した瞬間、彼女の目は大きく開かれる。
脳裏に蘇るのは、前夫の死ぬ直前の様子だ。
――あの時。最近ずっと体調が悪くてと、しばらく風邪のような症状が続いていた。
――年のせいだと、疲れが溜まっているだけだからと、医者に診せても特に問題はないと言われたと言い張って――それで最後の日も無理をして。
――それが、自然のものではなく、人の作為によるものだったとしたら。
――たとえば、誰かが意図的に、薬を毒に変えていたのだとしたら。
ロステムが言葉を切る。その顔から、貼り付けの笑みが消えた。現れた冷ややかな顔に、リテリアは全身が凍え上がるのを感じる。きっと縛り上げられてなくても、指一本動かせなかっただろう。
母親譲りの美貌に、さらに彼女にそっくりな冷徹さをにじませて、兄は妹を見下ろし、口元をゆがめて動かす。
「ね、仔猫ちゃん。オディロンが死んだとき、僕を拒むのは理解できたよ。君はそういう子だったから。でもね。他にいくらでも男はいたのに、なぜアルトゥルースでなければならなかった? どうしてお前は、よりによって――義理の息子なんかと、心を通わせたんだ? どうして抱かれた? どうして孕んだ? どうして産んだ? ……なんであいつだったんだ、リテリア。家族を選ぶなんてひどいじゃないか」
ロステムの顔が再び降りてきて、両手が胸元に添えられる。
リテリアは動けなかった。ヘビににらまれたカエルのように、ただ男のすることを見ているしかなかった。
「それなら実兄とだって同じ事ができたはずだ――できるはずだよね、仔猫ちゃん」
なにかを答えようとしたのか、それとも驚いたのか。とっさに口を開けたリテリアは、すぐに柔らかな感触に全体がふさがれるのを、続いてぬるりとした感触に口内が蹂躙されるのを感じる。
ほぼ同時に、下の方でビリッと耳に痛い音が響いた。びりびりと断続的に音がして、鳥肌が立つ。
ようやく上げられた彼女の悲鳴は、無理矢理重ね合わせられた口の中に吸い込まれていって、誰にも届くことはなかった。




