鳥のつがい2
領主夫妻に長女が生まれてから、早五ヶ月が経とうとしていた。
新米両親は慣れないことにドタバタしているが、周囲の助けもあってか子育ては比較的順調なようだ。
子どもが生まれてからも新婚同様に仲むつまじい。
子ども部屋からは賑やかな音が聞こえてくる。
お昼寝をたっぷりし、母乳をもらっておしめも替えた娘は、ゆりかごの中でご機嫌に手足をばたつかせていた。
近頃は赤子の言葉で何か訴えかけている事が多く、そんな彼女に若い母は飽きもせずおしゃべりの相手を続けている。
「あうあう。今日はこの時間もご機嫌ですねー。うー? なあに? そうですか、楽しいですねー……あああ、だからお母様の髪は引っ張りすぎないで……うう」
小型ベッドの中をにこにこのぞき込んでいると、小さな手がすかさずにゅっとのびてきて、一房はらりと落ちていたリテリアの黒髪をつかんだ。
娘の一番のお気に入りは母の髪で、だっこしているときに遊んでいるのを最初は可愛いからとそのままにしていたら、いつの間にかすっかり癖がついてしまった。身体が大きくなって力も強くなってくると、大人のような加減を知らないため、これが結構痛い。かなりの確率で口の中にご案内されてしまうのも地味に困ったものだ。下手に取り戻そうとすると一気に不機嫌になって泣き出してしまうこともあるので、結局はされるがままのことが多いのだが。
今回はうまく逃げられて、べとべとにされる前に取り戻すことができた。
娘はあうー、と少し残念そうな声を上げてむずかりそうな気配を見せたが、母が慌ててかごを揺らしながらあやし、ぽんぽんとお腹の辺りを叩いてやると、機嫌を直したらしい。青い瞳をまっすぐ母に向けて、また何か笑いながら話しかけてくる。
そんな中、咳払いの音が聞こえてリテリアは振り返った。
「旦那様、おかえりなさいまし」
「ただいま、リテリア」
夫は大股で妻のところまでやってくると、少しだけかがみ、その姿勢のまま何かを待つようにぴたりと止まった。
彼女は心得たように、彼の額に口付ける。するとそれで満足だったらしく、鼻息を荒く吐き出してから普通の状態に戻る。
「今日は……この時間でも、泣いていないんだな。最近はずっと、ぐずっている様子だったけど」
「そうよ、ご機嫌なの」
父親の方がおっかなびっくりゆりかごをのぞいているのは、彼の方が泣かせる率が圧倒的に高いからだ。
子育てや我が子とのふれあいに意欲を示しているのはいいが、どうも入りすぎた気合いや緊張でガチコチになっているのが、相手にもしっかり伝わっているらしい。それから泣き声が苦手で、大声でわめかれるとすぐあたふたし赤子と一緒にべそをかきだしそうな勢いになるのも減点ポイントなのか。
夫の方は赤ん坊にとって、どちらかというとまだ警戒対象なのだろう。
「旦那様ももっと力を抜いて、自然に接してみてくださいまし。大丈夫、怖くありませんよ」
「し、しぜん……」
見かねた妻が柔らかな声で言っても、おっかなびっくり手を伸ばしたかと思うと頬のあたりをぷにぷにつついてあっという間に撤退する。
娘の方はつつかれて一瞬不穏な気配になったが、すぐ母がフォローを入れたので元に戻る。
「旦那様」
小声で夫に呼びかけると、彼はしょんぼりうなだれた。リテリアは思わず笑い声を漏らしてしまう。夫は自分の失敗する姿を見られるのはあまり好きではないようだが、彼女は案外そうやって間の抜けている姿にこそ一番愛情を感じる、と思っている。口に出すと拗ねるので心で思っているだけだ。
母の笑い声に反応したのか、ゆりかごから娘があうあうと呼んでいる。
「なあに、楽しい? ――レィン。嬉しい?」
そうやって言葉をかわしている母子の姿をしばらくまぶしそうに見ていたアルトゥルースだったが、ふと顔をこわばらせ、再び咳払いする。
「リテリア、その……ちょっと、いいかな。レィンはばあやや侍女達に任せてもらって」
夫のどこか暗い気配に、リテリアも幸せいっぱいだった顔をくしゃりとゆがめる。
「ええ、わかったわ……おねがいね」
「はいはい奥様、ご領主様とごゆっくり」
脳天気なばあやは二人の曇った顔には気がつかなかったらしく、軽く応じる。
苦笑しながらその場を後にして、夫婦はしばらく会話もなく歩き、領主の部屋――アルトゥルースの寝室までついにやってきた。人払いを済ませると、アルトゥルースは深く息を吐き出す。
「それで、旦那様。どうなさったのです?」
リテリアが促すと、彼は無言のまま机の上からリテリアに何か差し出した。
受け取ろうとして、彼女は一度硬直する。
「また……」
思わず言葉が口から出て行ってしまった。
アルトゥルースがリテリアに向かって差し出したのは、どこか見覚えのある豪華な文箱である。
「俺たち二人へあてたものだ」
「……今度は、なんでしょう」
「開けて、読んでみるといい」
夫に促され、彼女はおそるおそる文箱を開け、中身をあらためる。今度入っていたのは純粋に手紙だけのようだ。深呼吸してから一度夫を確認し、彼のうなずきに後押しされるようにリテリアは手元の紙に視線を落とす。
不安や困惑の入りまじった顔が、文章をたどるうちに驚きへと変わっていく。
「お姉様と、ルルの――結婚式。……結婚? それも、二週間後!?」
「そういうことらしい。出席するとしたら支度が間に合うかどうか」
アルトゥルースの声は感情を抑えたような調子だった。弾かれるように顔を上げ、目を丸くしたリテリアは、すぐに表情を再び困惑へと戻した。
「あの……ええと、その……」
「だよな。なんていうか、その……なんか、言いにくいよな」
若き領主の方も、不機嫌や不快というより困った表情で頭をかいている。
実のところリテリアは兄の即位式、戴冠式にも顔を出していない。時期がちょうど、まだオディロンと結婚して間もなかった頃、彼女がアルトゥルースと喧嘩をした辺りだったせいだった。
あの時、知恵熱もどきからはすぐに回復した彼女だったが、身体がちょうどそういう時だと決め込んでしまったのか、間もなく別の病をこじらせてより長く寝込むことになったのだ。熱を出しているのに旅をするわけにもいかないし、本人が治っても周りにうつってしまうことがあるという性質を持つ病だっただけに、なおさら無理を押しての出席ははばかられた。
結局、オディロンだけが出かけていって、特に変わりなく戻ってきた。
それに今思うと、元々リテリアの王都への出戻りに難色を示していたバスティトー二世がロステムに牽制をしかけたということもあったのかもしれない。
神殿づとめを断った時にも、王都に返事を持って戻っていく使者と入れ替わるように母の使いがやってきて、「お前の意思を尊重します」とだけ伝えてきたのだ。
今では定期的な文もなくなってもうほとんど音沙汰のない母親だが、アルトゥルースと結婚すれば当日祝いの言葉が届いたり、子どもが生まれれば翌日祝いの品が届けられたりといったこともある。
――自分はまだ、母に守られている。
ちくりと胸の奥がざわつく感触がした。
「……どうする? 招待状にはレィンも含めて出席を求められているみたいだけど」
「お姉様とルルには、会いたいです。ただ……」
リテリアはアルトゥルースの言葉に、ぞわりと何か背筋が冷えるのを感じていた。言葉を切ると、アルトゥルースは返事の催促はせずじっと妻の様子を見守っている。
改めて文に目を落とす。
定型文の他に、ロステムの達筆で確かに書かれている。
――急で驚いただろうが、ララのいつものわがままだ、察してくれると嬉しい。ララティヤとルルセラは、お前と同じように降嫁して嫁ぐ。つまりもう王都から離れて帰ってこないと言っていい。二人も久しぶりに会いたがっているから、今度は是非来てほしい。それから、もうそろそろ連れ歩いても大丈夫な頃だろう。姪の顔を、私も見たい。家族で来るといい。
リテリアは思案する。
まず、姉妹に会いたい気持ちは大きかった。
あちらから拒絶され続けていたにせよ、リテリアが彼らに愛情を感じていたのは確かなのだし、兄が言っている通りならこちらも是非久々に会って語りたい。ようやくララティヤの――ルルセラはたぶん今でも盲目的に姉に従っているから、実質ララティヤのみが決定権を握っている――おめがねにかなう相手が出てきたのだ。招待状にはほとんど詳細が明らかになっていない結婚相手のことだって色々教えてほしかった。
ただ、胸の奥に残るこのしこりのような感覚はなんだろう。
やはり、ロステムのことだ。リテリアは未だに兄のことを考えるだけでも動悸が乱れるのを感じたし、彼の事はわからないことだらけだ。
はっと目を上げる。
妻の異変を敏感に察したらしい夫が、彼女の手を握っていた。
彼の体温を感じ、少しだけ荒くなっていた呼吸が落ち着いていく。
「……やっぱり、王都はやめておくか? 俺だけ挨拶をしてこよう」
優しげな言葉をかけてくれる夫に、リテリアはゆるゆる首を横に振った。
「いえ……姉妹に会いたいです。今生の別れになってしまうかも、しれないし、お相手のこととか……気になって、話したいことはあります」
一息ついて、夫の青い瞳をじっと見据えて彼女は言い切る。
「それに、いい加減、逃げてばかりもいられません。私も、大人になったんだから。もう一度、ちゃんと向き合って……それで、終わらせたいの」
アルトゥルースは黙り込んだまま真剣なまなざしでまた卓もせず彼女を見返していたが、やがてくしゃっと目尻をゆるめた。
「うん。それでこそ、リテリアだ」
両手を握られて熱っぽく言われると、彼女は顔を赤らめ、もじもじとうつむいた。夫は愛おしそうなまなざしを向ける。
夫婦は視線を絡ませあうと、どちらからともなく、身体を寄せようとして――。
「……やっぱり、レィンが泣いてる!」
領主の部屋まで聞こえる赤ん坊の泣き声に、リテリアがぱっと身を翻した。
かき抱こうとした相手を失ってがっくりしたアルトゥルースは、しばし空いた両手を呆然とみて、やっぱりこうなるか、と目元を抑える。
哀愁ただよう雰囲気で立ち尽くしていた領主だが、妻が自分を呼んでいる声がすると気を取り直したように部屋を出て行く。
領主の館には、にぎやかな、温かな音が、そうして絶えることがなかった。
――このときのリテリアの思考を、選択を、責めるべきでしょうか。
その愚かさを、優しさを、断罪するべきでしょうか。
彼女はただ、素直に祝い事をして――そして、ただただ純粋に、兄と仲直りがしたかったのでしょう。
きっと、本当に幼かった頃のように、兄妹としてありたかったのでしょう。
でもね、だから彼女は理解できなかったんです。
バスティトー二世の長男。
それが何を意味するのか、素直なアルトゥルースにも、可愛いリテリアにも――まるでわかっていなかったのです。
 




