鳥のつがい1
リテリアとアルトゥルースが結婚してから間もなく一年が近づいてくる頃、初夏の気持ちの良い朝だった。
のんびりと起き上がった領主夫婦は挨拶を交わし、起床の準備を始める。
召使い達は最低限の手伝いを済ませると、夫婦の邪魔をしないように、あるいは二人の空気にあてられないように、さっさと離れていってしまう。
眠たそうに目を擦っている妻に、少し先に着替え終わった夫が近寄ってきて、何やらもぞもぞ言いたそうにしている。
「リテリア、どこか――そう、たとえば腹の辺りとか、痛くなっていないか」
「大丈夫ですよ、旦那様」
ふわ、と小さなあくびをして目尻に涙を浮かべている妻に、くしゃりと一瞬だらしなく相好を崩してから、アルトゥルースは再びそわそわした状態に戻る。
「リテリア、どこか――気分が悪くなったりしてないか」
「なんともありませんよ、旦那様」
ふんわり、けれどきっぱり答えられてアルトゥルースは口を閉ざすが、ほとんど間を置かずにすぐまた振り出しに戻ろうとする。
「リテリア」
「旦那様」
いい加減しつこいですよ、と妻の軽くにらむようなまなざしに、ようやく若い夫はぐぬぬと引き下がる。
引き下がったかと思ったら、大きな腹を抱えてベッドをゆっくり降りようとする妻を手伝いながら、何やらまだ未練たらしく言いつのってこようとする。
「で、でももう……医者に告げられた予定日を三日も過ぎている! やっぱりあのじいさん、ヤブだったんじゃ――」
「まだ三日、でしょう。一週間程度は誤差の範囲だって、お医者様だけじゃなく、周りの方々も口々におっしゃっていたではありませんか。それにあくまで予定日なのです、生まれてくる日なんて神様にしかわかりませんよ。ねー」
リテリアは視線を下ろし、すっかり膨らんだ腹部に向かって優しく語りかけながらぽんぽんと軽く叩く。
アルトゥルースは釣られてでれっと胎教に便乗しそうになったが、踏みとどまってまた真面目な顔を保とうとする。
「だ、だけど、あんまり遅れると大きくなりすぎて出てこられないって話だし」
「お医者様の見立てでは大きすぎず小さすぎずの子らしいですから、一月もずれるようなことがなければきっと大丈夫ですよ」
「しかし――」
「旦那様! いつまでここでぐずぐずしているおつもりです、もう朝餉に参りませんと、ご公務に遅れてしまいます!」
寝室どころか寝台からもなかなか離れようとしない夫についにしびれを切らせたのだろう。
身支度もすっかりととのえ終わったリテリアがさっさと歩き出すと、慌てて夫は先行してエスコートを勤めようとする。
「そこ、段差があるからな。慎重に」
「はいはい、わかっていますって、毎日通っているんですから」
「ああっ! そんな、乱暴に動いて、何かあったらどうする!」
「いちいち心配のしすぎですよ、それに、今の時期なんですからちょうどよく――」
けれどやっぱり初めての出産に浮き足だった若い夫では、妻を導くと言うよりは邪魔しているようにしか見えない。
最初は流し気味だったリテリアも、あまりに何度も同じ事を繰り返すと呆れながら声を上げる。
――上げようとしたときだった。
領主夫人の笑いながらも少しだけ怒気を含んだ言葉は途中で止まり、彼女は先ほどより顔色を悪くして前屈みになる。
「……リテリア?」
「すみません、少し気分が」
引きつった表情になるリテリアを前にしてアルトゥルースは一気にうろたえた。
「陣痛か? 陣痛だな!?」
「いえ、その、気のせいかもしれませんからとにかくお静かに――」
「誰か! 早くあのヤブを呼んできてくれ、妻が、妻が、生まれる!」
「――旦那様っ!」
バタバタと屋敷を駆け回る音に、領主夫人の堪忍袋が切れた声が重なった。
慌ただしい朝を過ぎて領主が(非常に抵抗をしつつも周囲に押されて)公務に出かけ、領主館にはひとまずの平穏が戻る。
時刻は昼を過ぎて午後のけだるい空気の中――取り戻されたはずの静寂の中、どたどたと走り回る音が響き渡った。
「リテリア!」
髪やら服やらを乱れさせたまま領主が駆け込んでくると、夫人は大きな腹を抱えながら廊下を歩いているところだった。
おつきの召使い達がまあ、と声を上げる中、顔を上げた領主夫人は呆れを隠そうともしない。
「旦那様、なぜここに。まだ日は沈んでいませんよ、お仕事はどうなさったのです?」
「初産の妻がいるんだ、皆快く気を利かせてくれたよ」
「……さては気もそぞろすぎて、使い物にならないと追い返されてきたのですね。もう、気心知れた領民達とは言え、なんてこと……」
こめかみの辺りに指をあてて息を吐いている妻に、鼻息荒く駆け寄って夫は言う。
「そんなことより、そっちこそここで何をしている? もうすぐ生まれるのに、こんなことしてていいのか。医者は何をしている、もっと安静に――」
「慌てないでくださいまし。陣痛が始まったからってすぐに生まれてくるわけではないの、間隔が短くならないと――だから、こうやって出てきてくれるように、お手伝いをしてあげるんですって」
お母様と一緒に頑張りましょうね、とお腹に語りかけて、リテリアは廊下の往復を再開する。
とことこ歩いて行く彼女を一瞬見送りそうになった夫は、はっと我を取り戻すと右手と右足を同時に前に出した。
「俺も、手伝う!」
そう言いながら夫人と一緒に廊下を行ったり来たりしようとしたので、
「旦那様は座っていてくださいっ、邪魔です!」
――彼女の二度目の怒声が、館中に響き渡った。
母体の働きかけもあってか、なかなか短くならなかった陣痛の間隔も、日が暮れる頃になるといよいよそのときを迎える。
産室に男は立ち入れないのが決まりだ。出産は母親と産婆、女性達の手伝いで行われる。
アルトゥルースはいらだたしげに何度も追い出された部屋の前、入り口のところでうろうろさまよったり身体を揺らしたりと落ち着きがない。
見かねたらしい年上の部下にもっとどっしり父親らしく構えていなさいと言われると、胃の辺りを押さえて顔を青くしているので、自分が産むわけでもあるまいにと周囲は苦笑し、経験のある者は自分の子どもの時のことを冗談交じりに語り出す――。
しかし産室から夫人のうめき声が聞こえてくるようになると、血相を変えて飛び跳ねる新夫を笑ってばかりもいられなくなった。
アルトゥルースは悲鳴が漏れてくる度に産室に突撃しそうになり、周囲に羽交い締めにされて正気を取り戻すことをくりかえしてる。
そのうち出入りの邪魔になるからと、床に座らされて四方を囲まれた。さながら説教を受ける子どもである。
できることのなくなった彼は青い唇を震わせながら、白くなるほどに両手を握りしめておそらくは母子の無事を願う祈りの言葉をぶつぶつつぶやき続ける。
緊張と高揚の混じる空気の中、一度完全に無音になる。
次の瞬間、新たな音が世界にあらわれる。
待機していた者達が、一斉に腰を浮かせた。
じれったい時を過ぎると、ようやく産室から老婆が出てきてアルトゥルースに向かって丁寧に腰を折る。
「おめでとうございます、ご領主様」
「妻は無事か!? 子どもは!」
「はい、問題ありません。母子ともにご健康で――」
「もう中に入ってもいいな、いいんだな!?」
「は、はい、あの、その――」
祝いの言葉を受け取るのもそこそこに、許しの出た夫は一目散に産室に駆け込む。
すっかりやつれて疲れた様子のリテリアが、それでもほぼ文字通り飛んでやってきた夫の顔を見ると、安心するように微笑んで迎える。
「女の子ですって。抱いてあげて、あなた」
産声を上げて懸命にもがく小さな命の塊を、震えながらおっかなびっくり妻から受け取ろうとして――ぐらり、とアルトゥルースの身体が揺れた。
「いかん、ご領主様が倒れるぞー!」
「なぜだー!?」
落ち着きかけていた産室は、再び喧噪の中に包まれることになったのだった。




