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籠の鳥の卵が割れるまで  作者: 鳴田るな
リテリア編
35/99

鳥13

「前領主夫人?」


 特徴的な呼びかけに、彼女はのろのろと顔を上げる。

 奥様と呼ぶでもなく、名前を呼ぶでもなく、こんな面倒な言い方をかたくなに続ける相手なんて、一人しか心あたりがない。


「晩ご飯にもこないと思ったら、何やってるんだ? 明りはつけてるみたいだけど……本当に具合が悪いのか?」


 重たい頭をゆっくり向けると、はたして部屋の入り口にもたれかかったアルトゥルースが、いぶかしげにこちらを眺めている。

 おつきの誰かが呼びに行ったか、自分で不審に思ってきたか、とにかく明らかに異常な様子を見せ、その後も部屋に引きこもっているリテリアの様子をうかがいに来たのだろう。



 彼女は手紙を読み終わった後、机上の箱に戻して、そのまま椅子に座り込んでいた。

 途中何度か声をかけに来た人があったが、適当に具合が悪い構わないでという一点張りの返事をして、ただただ呆然としていたらしい。


 辺りは夕日が見えていた頃から進み、すっかり暗くなっていた。

 遠くから漏れ聞こえてくる音は、王都の使者達をもてなしている宴会だろうか?

 だとしたら領主が抜けてくるのはまずいのでは、などという思考が浮かんでは来るものの、思うだけで身体がまったく動かない。

 いつもならアルトゥルースを心配しいさめ始める口が、今は開こうとすらしない。



 領主は静かに、そんな彼女を見つめ続けていた。


「今からだとちょっと遅いかもしれないけど、医者を呼ぼうか? というか、もう呼んだ後?」

「いえ……お医者様は、大丈夫、です」

「手紙がどうかしたのか? ……なんなら、俺が読んでも?」

「ダメッ――それは、駄目です。やめてください……お願い」


 指摘されるとリテリアの肩が小さく跳ねた。アルトゥルースの提案に怯えたように身を縮ませ、素早く頭を横に振って断固拒否の姿勢を示す。


「なら、何が書いてあったかぐらいは教えてくれないのか。それとも、中身を口外してはいけない密書だったのか? あんなに派手に使いをよこしておいて?」


 新領主はその後だんまりを決め込もうかというように沈黙を示す様子に焦れたらしく、少し苛立ったようにずかずかと勢いよく彼女の側に歩み寄ってきて仁王立ちし、素早く文箱に視線を滑らせる。


 リテリアもこのまま黙り込んだままでは話が通らないと、理解はしているのだろう。

 けれど、どう説明したものか。

 彼女は言葉を探して重たい口を開けた。


「……その。国王陛下が。喪が明けたなら宮殿に戻ってこい、とおっしゃっていて……」


 若き新領主の強い視線に促されるように、あるいは根負けしたかのように、リテリアはうつむいたままぼそぼそと言う。

 内容もさながら、彼女らしくない随分と聞き取りづらい発声の仕方に、アルトゥルースはますます顔をしかめる。


「どうして? 結婚したとき、降嫁するから王女の資格が消える、だけど夫が死んでも領主夫人としての立場は保証する――そういう約束だったはずだけど」

「それは……ですが。先代国王の、裁量でした、ので」

「だから当代の陛下は不満だってことか?」


 彼女は言葉を濁した。けれどこの場における無言は事実上の肯定である。


 新領主はとっさにこめかみの辺りに青筋を浮かせかけたようだが、ぐっとこらえ、抑えた調子で夫人に尋ね続ける。


「で。向こうは宮殿に戻って、あんたに何をしろと言ってるんだ? 国のために別の男に嫁げとでも? それなら第一王女と第三王女はどうした、二人ともまだ未婚のはずだろう」

「いえ……その。私には……王都神殿の、巫女になるように、と」

「はあ? ますます意味がわからない。……こう言っちゃあれだが、別に陛下は格別信心深いってわけでもないだろう? それとも心変わりか? 何がしたいんだ? というか、あんたに何をさせたいんだ?」


 アルトゥルースの歯に衣着せない物言いに、前領主夫人は萎縮する一方のようだった。

 言葉をかけるほど小さくなっていく彼女にため息を吐いてから、領主は心持ち優しい口調で言い直す。


「で。あんたはどうしたいんだ。俺にはとても、都に戻りたいって顔には見えないが」


 彼女はまた跳ねた。今度は先ほどよりもさらに大きく。残っている黒い右目がしょぼしょぼと何度も瞬いた。

 アルトゥルースは少しの間だけ黙って前領主夫人の動向を見守っていたが、やがて彼女がまごついたまま何も喋らないでいるのを続けるようだと認識すると、すっと青い瞳を剣呑に細める。


「むしろ、ものすごく嫌そうに見える。それが届いた瞬間から」

「そんなことは……」

「あるだろ。そもそも、だからあんたは父上のところに嫁いできたんじゃないのか」


 アルトゥルースの鋭い言葉に、リテリアは大きく目を見開いた。

 驚愕や、その他のほんの少しほの暗い感情がしばし巡ってから、彼女の思考は冷静に、若き領主の言葉の意味を理解する。


「……旦那様、ですか? あの人から、私の事情を何かお聞きなさったの?」

「俺が聞いたのは、バスティトー二世がのっぴきならない(・・・・・・・・)事情(・・)であんたを宮殿から出したがっていて、だから父上は了承した、それだけだ――っ!?」


 若き領主が何気なく言ったことに、リテリアは激しく反応した。

 音を立てて椅子から立ち上がり、狼狽をありありと浮かべて唇を震わせる。


「嘘。嘘でしょ? 嘘よ――バスティトー二世――お母様――お母様が旦那様にそんな話を? だって、だってそれじゃ、まるであの人が――最初から、全部。わかっていたみたいじゃない。私たちの事を、わかっていた、みたいじゃない――」

「お、おい、急にどうした――」


 ぎょっとした顔で呆気にとられているアルトゥルースの前で、彼女は蒼白な顔にびっしりを汗を浮かべ、非常に早口に、小さな言葉をぶつぶつとつぶやく。


「いつから? どうして? なんで? お母様、お母様、違うのこれは、私じゃない――ああどうしよう、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、許して、私を許して――」

「あんた。おい、あんた。息をしろ、落ち着け――」

「やめて、来ないで――いやあっ」

「リテリア!」


 ひゅっと鋭く息を呑む。

 リテリアが暗くなった視界の中で最初に気がついたのは、温度だ。

 自分を包み込む別の温度。誰かの体温に包まれている。


 息が苦しいのは、何かが自分の身体に巻き付いているからだと知る。

 視界が暗いのは、自分の顔が何かに押し当てられているからだと知る。

 もがいて暴れようとしてもびくともしない。

 鼻孔に慣れない香りが染みた。


「――あ、う」

「大丈夫だ、息をして……大丈夫、これ以上は何もしないから」


 ごくごく近くから聞こえてくる、落ち着いた低い声に合わせて息を吸い、吐く。

 自分を包む体温が、けしてそれ以上害することはないのだと――安心をもたらすものなのだと身体がゆっくり理解すれば、がちがちと鳴っていた歯の音が静まっていく。


 アルトゥルースに抱きしめられている。

 落ち着いて、自分を取り戻してからようやく、彼女は現状を把握した。

 すると今度は血の気が引いていた顔に火照りが宿る。


「あ、あの……」

「落ち着いた?」

「は、はい……お騒がせしました」

「……別に」


 なんという醜態を、と羞恥で消え入りそうな気になっている彼女だったが、アルトゥルースが責めてくる様子はなかった。

 彼は変わらず彼女を腕の中に閉じ込めたまま、なだめているつもりなのか雑に髪の辺りをぐしゃぐしゃとやっている。

 とがめる様子も深入りしてくる様子もないが、離してくれることもない。

 リテリアはしばし途方に暮れた。


「……私から、話を、聞かないのですか」


 なんとなく気まずい思いを抱えたまま、奇妙な沈黙に耐えかねてリテリアが声を上げると、アルトゥルースの言葉が振ってくる。


「それは、あんたが話したいこと?」


 ささやくように出された音に、彼女の身体が震え、ほんのりと熱を帯びる。


 ――嫌だわ、私、なんだか変な動悸が止まらない。なんだろう……。


 いつの間にか、アルトゥルースはこんなにたくましい体つきだったろうか、こんなに頼もしい胸板だったろうか、などという変な方向に流れていきそうになる思考を振り払うように首を振る。


「なら、いいよ。話したくなったら言えばいい。そうじゃないなら、黙ってていい。……俺だって、そうするから」


 間がいいのだか悪いのだか、アルトゥルースはそれを自分の問いに対する返答だと思ったらしかった。

 リテリアは撤回しようとするが、口を開こうとしたところで、どのみちとうてい明かせぬ事情だったことを思い出す。

 何か言った方がいいのだろうとは思うが、言葉が浮かばない。

 ただただ、アルトゥルースの身体が温かく、心臓の音がうるさい。


(私――やっぱり何か変だわ。お兄様からの手紙で、動揺したのは確かだけど……そろそろ冷静にならなくちゃ。いつもの領主夫人に、戻らなくちゃ)


 居心地の悪いような――本当は良いような――奇妙な空間の中で、ふわふわ泳ぐだけだったリテリアの思考がようやく戻ってくる。

 彼女は意を決し、日常に戻るべく口を開こうとしたが、それより前にアルトゥルースが動いた方が早かった。

 彼は不意に、腕の力を強めてリテリアの頭を自分の胸板に押し当ててくる。


「前領主夫人。俺はあんたを母親と思った事はない。姉とも妹とも、もちろん娘にだって思えるわけがない」


 驚いて目を瞬かせたリテリアだったが、決まり文句と言えるほどに聞き飽きた言葉に苦笑し、目を閉じて自分もいつも通り返す。


「存じております。あなた様が私を家族として受け入れがたいことは――」

「いや。あんた何もわかってないよ。昔から」

「アルトゥルース様?」


 彼女はいつも通りに戻ろうとしている。けれどそれをアルトゥルースが許さない。

 困惑を深めるリテリアを、アルトゥルースは一度解放する。

 抱きしめる腕の拘束から少しだけ離して、彼女の両肩をつかみ、二つの曇りない青い瞳でリテリアの片目をのぞき込んでくる。


「たとえ、手紙で戻ってこいと国王直々に言われてたんだとしても。それが命令じゃなく、あんたの心で決まることなら……宮殿には行くなよ。あんたがいる場所は、あんたを一番必要としてる場所は、ここだ。そうだろう?」


 真剣にのぞき込まれて前領主夫人は口をわななかせる。

 けれど視線を逸らしても、アルトゥルースが手を離してくれないことには離れられない。

 彼女は横に目をそらし、下の方に視線を伏せたまま、消え入りそうな声で言った。


「アルトゥルース様……その」

「何?」

「困ります」

「何が?」

「私……何か、勘違いしそうです」

「どんな風に?」

「……今まで、あなたに距離を置かれてるんだと思っていました」

「……ああ」

「だけど、でも、こんなことをされて、そんなことを言われたら……」

「そうしたら、どうなる?」

「あなたに……その、本当は、さほど嫌われてないんじゃないかと、勘違いします――」

「勘違いじゃないと言ったら?」


 息が止まった。

 思わず上げた目が熱い視線に絡め取られ、瞬きも忘れる。


「ずっと、そうだったと、言ったら?」


 アルトゥルースの両手はいつの間にか移動してリテリアの両手を握っている。


「リテリア、好きだ。ずっと前から好きだった。あんたが俺の父上じゃなくて、俺に嫁いできてくれたらと……思っていた」









 ――心を、射ぬかれるようだった、と。

 たぶん、あれが初めて恋に落ちた瞬間だったのだ、と。

 その相手が、()の父だったのだ、と。


 リテリアは私に、この世の物とも思えない本当に幸せそうな顔で――そう、無邪気に語ってくれたのです。

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