鳥10
リテリアが意識を取り戻すと、見知らぬ部屋の天井が目に入った。
服装もなんだか見慣れぬ物を身につけている。
……どういう状況だろう?
しばし呆然としてから、自分が結婚したこと、領主夫人となってこの部屋を与えられたことを思い出す。
「まあ、奥様。お目覚めになられましたか。ご気分はいかがです?」
寝起きの思考の中、ゆっくりぼんやり現状を認識している間に、人のよさそうな笑みを浮かべた、恰幅のいい牛の獣人が近づいてくる。
領主夫人の世話係としてつけられた女性の一人は、豊満な肉体を惜しげもなく揺らしている。
「おはようございます。私――」
リテリアは挨拶の言葉をかけようとして、はっとした。ようやく自分が倒れたときのことを思い出したのだ。真っ青になり、言葉を失う。
けれど世話役の女性の方は大して気にした様子もなく、あっけらかんとした調子で歯を見せた。
「昨日の晩からぐっすり眠って、今日はもうすぐお昼になるところです。新しい環境ですからねえ。身体が休みたくなったのでしょうって、お医者様がおっしゃってましたよ」
「あ、あの――!」
「はい、これをお飲みなさって、まあ気分を落ち着けてください。旦那様、奥様がお目覚めになられましたよ、旦那様!」
温かい飲み物の入った器を渡すと、ゆっさゆっさと重たい身体を揺らしながら、世話係の女性は出て行ってしまう。
外で人が動く音が聞こえる中、残されたリテリアはしょんぼり肩を落とし、大人しく薬湯を飲んだ。
「……苦い」
こっそり顔をしかめて舌を出していると、外から一声入ってもいいか確認の声を投げかけてから、彼女の夫がやってくる。
「旦那様……」
顔色を悪くした幼妻が何か言う前に、オディロンは寝台のすぐ側までやってくると、小さな手をそっと優しく取った。
「申し訳ございません。あなたの具合が悪かったのを見過ごしてしまいました。臣の責任です、許してください」
「そんな……違います、私、でもご迷惑を、いけないことを――!」
「姫君、迷惑などではありませんよ。アルトゥルースのこと、真剣に考えてくださったのでしょう。真剣に向き合おうとしてくださったのでしょう」
「私、私、でも、勝手に、許して――」
「大丈夫ですよ、大丈夫です。臣は、あなた様をどこかにやったりなどいたしませんし、あなた様を傷つけることもしません。結婚するとき、お約束しました。あなた様はここで臣と一緒に暮らしていくのです。……おわかりいただけますか、姫君」
夫に優しく声をかけられ、手を撫でられると、リテリアはすっと心が軽くなるのを、左目の奥に走った鈍く鋭い痛みが軽くなるのを感じた。
汗が引き、動機が収まり、呼吸が落ち着き、熱がすっと冷めていく――そうなってから初めて、自分がパニックを起こすような状態になっていったことを知る。
オディロンはゆっくりと、リテリアの反応をうかがいながら手を伸ばし、そっと彼女の左目の眼帯に触れる。不安そうに瞬かれる右目に向かって老夫はあくまで穏やかに笑いかけ、責める様子は少しもない。
「姫君、大丈夫ですよ。あなたは、あなたなりに頑張っていらっしゃいますとも。それにうまく応えてあげられなかった、気がついてあげられなかった自分が不甲斐ない」
「そんな……旦那様はとてもよくしてくださってます、なのに私が……」
「あれあれまあまあ」
小声でささやきかわすように喋っていた二人は、闖入者の声に我に返ると慌ててぱっと離れてしまう。
戻ってきた世話役の牛は、腰に手を当てると鼻息荒くオディロンをにらみつける。
「まったく、ご領主様と来たらいつまで経っても他人行儀な。あなた様の奥方様でしょうに、姫君、姫君、なんて」
「そ、そんなこと、ないです。旦那様は、優しくしてくださってます……」
「いいえ、奥様。あたしから言わせてもらいますとね、お二人とも相手を憎からず思っている割に、肝心のところで遠慮がしっかりしすぎているご様子ですよ。だから悩みすぎて知恵熱なんて出してしまうのでしょう? もっと打ち解けられなさいませ、でないとまた溜め込んでしまいますよ」
「しかし……そんな、急に、言われても、だな……」
妻と夫が交互にわたわた弱々しく抗議してくるので、牛はますますまなこをするどくした。
「わかりました。では、手始めに、お互いのお名前を呼びなさいませ」
「え?」
「は?」
「え、でもは、でもありませんよ。ご夫婦でしょう、そのぐらい当然です。さ、まずはご領主様から」
二人はおずおずお互いに目を向けて、合ってしまうと同時にうつむき、またゆっくり気まずそうに合わせる。
「……不躾ではないでしょうか」
「気にしません。あの……」
「はい」
「……名前で呼んでいただけるなら、私も嬉しいです」
んまっ、と牛が遠くで嬉しそうな声を上げている一方、羊の獣人はたっぷり数秒間完全に停止した。
咳払いをして、何度も怪しげな謎のジェスチャーをした後に、ようやくごくごく小さい声をぼそぼそ言う。
「……リテリア、様」
「はい。オディロン様」
「…………あ。はい、姫君――じゃない、リテリア――様」
「何をやっているんですか、まったく」
結婚式の時と似たようなもじもじした空気を醸している二人に、世話係の女は呆れた声を上げた。
夫婦が互いに照れて顔を逸らしていると、外で待機していたらしい他の世話係達がやってくる。
オディロンのことを部屋から追い出して、領主夫人の様子を確認し、身支度をととのえる準備をする。
髪を梳いてもらっている間、しばらくはぽーっとした表情のリテリアだったが、ふと表情を厳しくする。
「あの。倒れたときに、アルトゥルース様が一緒にいらしたと思うのですけれど」
「ああ、はい。奥様を館まで連れ帰ってきてくださったんですよ」
「そう。……お礼を言いに行かないと。あの方にもご迷惑をおかけしました」
「別に迷惑だなんて思ってないと思いますけどねえ、若君様も」
「はい?」
「いいえ、なんでも。奥様がご自分で確かめられたほうがよいでしょう。お元気になったらお会いしたらいかがです」
女性達に着替えを手伝ってもらったリテリアは、食事に向かう。
すると驚いたことに、食卓には先にオディロンの他になんとアルトゥルースまでいて、ぶすっとした表情で座っている。
彼は領主夫人が入ってきて驚いたように立ち尽くすと、椅子から立ち上がり、しばし視線をさまよわせてから、彼女の方に顔を向ける。
「……一人で食べるのも、誰かと食べるのも、そう変わらないからなっ」
言い捨てたかと思うとどっかり腰を下ろし、腕を組んで明後日の方を向いた。
唖然としているリテリアに、こっそり側の使用人が耳打ちする。
「お食事をご一緒したい、ということです。言い方は乱雑ですが、若君様なりに頑張ってらっしゃるので、生温かく見守ってさしあげてください」
リテリアは目を丸くしていたが、オディロンに優しく促されると席に着く。
三人で共に祈りを捧げてから昼飯をいただいている間、何度かアルトゥルースに話を切り出そうとするのだが、そのたびになんだか大げさに咳払いをされるので諦めてしまう。
緊張していると喉に何かがつかえているようで飲み込みがうまくいかない。
どうしよう、と困惑しているリテリアの前で、あっという間に全部平らげてしまったアルトゥルースが立ち上がり、乱暴に挨拶を済ませると部屋を出て行く。
出て行ったかと思ったら戻ってきて、何やらまたリテリアをにらみつけてくる。
「いいか! 別に、借りなんて思う必要はないからな! ただ、領主夫人なら、体調にはもっと気をつけろよ! あと、あんたが元気に言い返してこないとこっちの調子が狂うんだから、しけた面すんなよ! いいかっ! それだけだっ!」
吐き捨てた少年はリテリアがきょとんとしていると、今度こそ埃を立てる勢いで猛然と走り去って言ってしまっている。
途端に静かだった食卓のあちこちから忍び笑いが漏れて、控えの召使い達がひそひそと言葉を交わし合う。
「気まずくて逃げましたな、あれは」
「恥ずかしくて逃げましたね、あれは」
妻が夫の方に途方に暮れた顔を向けると、一緒になって笑っていたオディロンがこちらを向く。
「あれは、素直になれないところもある子ですが。……けして、あなた様に、出て行ってほしいとか、そういうことを考えているわけではないのですよ」
領主夫人のことを、夫が、周囲の付き人達が、温かく見守っている。
彼女は頬を赤らめると、食事の残りを済ませようと手を伸ばす。
いつの間にか胸にあったはずのつかえた感じは、すっかりなくなってしまっていた。




