鳥9
夕方、アルトゥルースが時刻を告げる鐘の音を聞いて素振りしていた手を止めると、世話をしようと近寄ってきた供の者から声がかかる。
「若君様。今日は寝所に向かう前に、いつもの場所へ?」
「ああ……そうだな。母上に、挨拶しに行こう」
彼が返すと、周囲は心得たようにてきぱきと準備を始める。
アルトゥルースはこれから一人で亡き養母、ウレイスの墓所に訪れる予定だった。
父と息子とで――後妻が加わってからは彼女も――毎朝屋敷内の簡素な祈り場で挨拶はしているのだが、墓は屋敷から少し歩いた丘の上の木にある。
生前、その場所から星空を見るのが大好きだった妻は、夫が仕事が終わってから夜のデートに連れて行ってくれる度、それは大層喜んだという。
幼かったアルトゥルースも、よちよち二人に手を引かれて坂道を上ったことを、おぼろげに覚えている。
自分が死んだら旦那様と共に景色のいい場所に眠りたい、と彼女が言ったのを覚えていたオディロンは、そのため墓所の場に丘を選び、自分も死後そこに入る予定らしい。
最初は共に来ていた父と子が別々に墓に来るようになったのはアルトゥルースが十歳の時、言い出したのは息子の方である。
老父は幼年期から少年期になってますます自立の意識が強くなってきた思春期の息子に詳しい事情は尋ねようとせず、ただ微笑んで了承した。
それ以来、月終わりの週末はアルトゥルース一人で母の墓参りをすると――このときだけは、一人になるという習慣ができあがっていった。
アルトゥルースが道を上っていくと、やがて目当ての場所が見えてくる。
しかし、いつもと違ってそこには息子が手向けるまでもなく白い花束が備えられており、墓に向かって先に祈りを捧げている人の姿があった。
一体誰だろう、父が久しぶりに息子とゆっくり話をしよう――とでも思い立ったのだろうか?
「――うぐっ!」
いぶかしげに目を細めた若者は、墓参りの先客が誰であるか悟ると、足を踏まれたような声を上げる。
夕日の逆光を背に降りてきた小さな影は、領主子息に向かって気品のある丁寧な礼をした。
「ご機嫌麗しゅうございます、アルトゥルース様」
「ご機嫌麗……しくなれるはずがないだろう、何をしに来た! 何故一人でいる!」
リテリアは大声で話しかけられても、少年の前でいつもそうしている通り、つんとした態度のままだった。
「奥様のお墓参りに。それとあなたと話をしに。この場所へは、ここに来たとき真っ先にお願いして案内していただいたのですが、今日はこっそり抜け出して私一人で参りました。オディロン様は、私があなたと話をしたがっていること、その機会を設けようとしていることはご存知ですが、今日、この日、この場所に私が来ている事は知りません。……そんなところで、納得していただけるでしょうか」
「とっ――供もつけずに一人で!? 不用心だろう、あんた馬鹿か! 上ってきたならわかるだろうが、ここに来るまでの坂道は結構険しいんだぞ! それにそろそろだんだん暗くなってる、領主の館の近く、治安がそこそこいいうちの領地の中って言ったって婦女が一人で出歩いていい時間帯じゃない! あんた、自分に何かあったらどうするつもりなんだ――」
早速まくしたてるアルトゥルースだったが、忍び笑いするような音が聞こえるとますます顔を赤くする。
「なっ、何がおかしい!」
「いえ。てっきりご子息殿は私にいなくなってほしいのだとばかり思っていましたので、本気で心配していただけるとは思っておりませんでした。……ありがとうございます。嬉しかったです」
少女の最初は皮肉交じりな、そして後半は思いがけず柔らかな言葉に、少年は唖然として言葉が出ないようだった。
リテリアの編まれた黒髪が、夕方の風に吹かれて軽く揺れる。大きな黒い瞳を瞬かせ、彼女は言葉を続けた。
「オディロン様はお優しい方です。一度懐に入れたのなら離しますまい」
「……何、を」
「私をわざわざ必死に追い出そうとなさらずとも、あなたが居場所を失うことはないのです」
「待てよ。さっきから、その、なんだ――俺は、別にあんたに出て行ってほしいなんて、一言も言ってないだろっ」
「言葉では言わずとも、態度でわかります。あなたが私を嫌っていることは」
「違う!」
「何が違うのです。私が嫌いだから顔を見たくないんでしょう、話をしたくないんでしょう」
「それは、だからっ――」
「だから?」
リテリアの少々挑発的な言葉に釣られるように答える少年だったが、彼女が一番聞きたいことには口ごもってばつの悪そうな顔をするばかりである。
少女の領主夫人は、再び目を伏せ、どこか憂いの混じった声を発した。
「私、あなたがわかりません。離れたいのかと思えば近づいてくる。けれどこちらから歩み寄れば突き放す。……私、そういうことをされるのは、苦手です。どうしたらいいのかわからなくなるの」
最初はいつも通り力のこもった少年と落ち着いた少女という図だったはずが、いつの間にかリテリアの顔色は青ざめてきている。彼女は両肩を握りしめ、小刻みに震えていた。
アルトゥルースも相手のどこかおかしい様子に気がついたようで、すると喧嘩腰だった調子が柔らかくなり、気遣わしげなものに変わる。
「あんた、大丈夫か?」
「それで、わからないでいる間に、また捨てられる……」
「おい、その……また捨てられる、って、なんなんだよ。あんたは女王に愛されてたんだろう、大事にされてたんだろう? 俺なんかと違って。だから――」
「違いません。私はお母様に捨てられたの。お母様の思い通りになれなかったから、これは罰なの。片目じゃやっぱり足りなかったのよ――」
「なあ、あんた、ちょっと変だ――」
ぶつり、と言葉の切れる音が聞こえるようだった。
リテリアは、視界が、世界が回るのを感じる。
「……っ、おい、しっかりしろ、あんた――リテリア――!」
誰かが、自分の名前を呼んで、倒れる身体を抱き留めるのを感じながら。
少女は暗闇の中に、すとんと落っこちていった。




