鳥7
ネィメン卿の収める領主の養子アルトゥルースは、バスティトー二世の愛娘であったリテリアに、公然と罵声を投げかけた。
ぎこちなく歩み始めようとしたばかりの領主夫妻が最初に直面した問題は、これにどう対処するかということである。
リテリアは厳罰を望まず、むしろ穏便に罰を与えないことを当初望んだ。
アルトゥルースがまだ若いことや、とうてい今回の結婚を認めがたい心情であろうこと、また自分の結婚が急であったことなどを理由にする。
この、何もしないでおこうとほぼ同義の提案にはオディロンが意を唱える。
アルトゥルースの行いは明らかに反逆的だったし、礼儀の道からも大きく外れている。
その辺りへの対処をうやむやにしてしまっては、我々が人の上に立つ者である以上道理が通らない。
身内といえど、否、身内だからこそ、ここはしっかり厳しくしなければいけない部分なのだ。
年老いた夫は静かに主張する。
特に、女王たるバスティトー二世にまで無礼な言葉をかけたのを、夫は大層気にしているらしかった。
母親を侮辱されたリテリアの私情もさながら、ここを温くしたら王都から何を言われるかわからない。
リテリアも、夫が何も言わずともその辺りの事情は推測できる。
しかし、夫に説得されかけ、アルトゥルースの受ける刑に鞭打ちの言葉を聞くと、リテリアは顔をゆがめ、再び思案げに目を伏せる。しばしうつむいて考えこんでから、彼女は一つの新しい提案をした。
アルトゥルースは新しい母に無礼な言葉をかけ、けれど後に正式に謝罪をし、彼女も正式に謝罪を受け入れる――両者に諍いがあったことは、屋敷中の大勢が目撃したことであり、もう隠しようがない事実だから、ここはしっかりする。
ただし、それ以外のことについて、リテリアは何も耳にしていない。もちろん周りのオディロンの信頼する口の固い部下達も、同様に。
まとめると、自分とアルトゥルースの間に起きた諍いのことははっきりさせて正すが、母への侮辱についてはそもそも彼が言わなかったことにする、というものである。
「私は元王女ですが、降嫁したので今の身分は領主夫人です。宮殿とはもう縁の切れた身。ですが、お母様は間もなく退位を公言していても、まだ現役の女王で――ご存知の通り、非常に激しいご気性をお持ちです。アルトゥルース様の今回の言動がすべて表に出れば、黙ってはいない。こちらで自主的に処罰を行っても、介入してくることは十分に考えられます。最悪、アルトゥルース様だけでなくあなたにも、そして領民にも何かあるかも。新米ながら、領主夫人として、そのような事態は招きたくありません」
すらすらと述べてから、リテリアは不安そうに目を瞬かせ、首をかしげる。
「……その。私なりに考えて、これが一番良いかな、と思うのですけれど……」
いかにも自信のなさそうに、尻すぼみにぽそぽそ喋る幼妻を前に、夫はあんぐり口を開いていたがやがて立ち直り、ふっと目元が和らぐ。
「いえ。これ以上ないほど、臣と、息子のことを考えていただいた案です。ただ、その……陛下に対するせがれの態度は……快いものでは、ないでしょう? あなたはそれで、よいのですか?」
「確かに、いきなり言われて驚きましたし、腹立たしくも思いましたが……母上が反感を買いやすい方であることは、承知しているつもりです。その、今後もあまりに何度もおっしゃられるようでしたら、私も考えますけど……やっぱり、思わず言ってしまったたった一言で、後に残る程の鞭を打つのは、やり過ぎだと思いますから」
妻はしっかり夫の目を見つめて答えた。
夫は幼い妻の考えや行動に、本当に思わぬ嬉しい誤算があったものだと目を細め――そしてもう一つの嬉しくない誤算に、鈍い頭痛を感じるのだった。
アルトゥルースとは、お互い身支度をととのえてから再び面会する。
落ち着いた様子の彼は、覚悟を決めているらしく、もっと下の人間が着るような非常に簡素な構造の服装で姿を現した。
オディロンが落ち着いた言葉で説明し、改めてリテリアに謝罪を求めると――どうやら素早く彼らの意図を察し、何やら言いたげにひくひくとこめかみの辺りを動かしたが――息を大きく吸ってから彼女の目を見て、頭を下げる。
腐っても投げやりでもない、きっぱりした声だった。
リテリアは内心、その非常にすっきりした――しすぎているぐらいの態度に関心を覚えつつも、表向きは領主夫人らしさを心がけて落ち着いた態度を出す。
すると、アルトゥルースは顔をしかめ――今度は先ほど激昂していたときより幾分か控えめに、新しい領主夫人に向かって話し始めた。
「あんたが新しく父上を支える人になったのは、確かにもう、今更俺が反対しても誰のためにもならない、無益なだけだ。だからこれ以上は言わない。俺はあんたのことを、母親に甘やかされたわがままで傲慢な王女だって聞いて、そうだと信じていたけど、あんたのことを見てると、一方的な思い込みだったみたいだ。偏見を持っていたことも謝る」
アルトゥルース、とオディロンが横からたしなめるが、少年は父のことを無視する。
リテリアは裏表のない態度に目を丸くしていた。
少年のような――このように、ここまではっきりしていて、しかもそれをなんの飾り気もなく言ってしまう人は、彼女には初めてだった。
周りの人間が彼女に好意的でないというつもりはない。
ただ、リテリアの立場上、また関わる相手の性質上、たとえばリテリアにとって不利益なことをわざわざ言ってくる人間はいない。
外宮に行けば逆に嫌味の応酬合戦だとララティヤなどから聞いたこともあるが、内宮のリテリアがかけられてきた言葉は、彼女にとって当たり障りのないような柔らかな物が多かった。
――ただ、一人。たった一人、この世で何を言っても許される女のみが、リテリアにいつも率直な、時には彼女が耳を塞ぎたくなるような、自分の意見を、外の世界の片鱗を、まっすぐ鋭く突きつけてきた。
(……なんだろう。落ち着かない気持ち。もやもやする)
リテリアが、直情的すぎる少年の言動に何かが渦巻く心をもてあましていると、彼のよく通る声が再び耳に入ってくる。
「だけどな。それは、あくまで中立的にあんたを見ることにしたってだけで、もちろん認めたってわけじゃない。俺はあんたを認めない。領主夫人として、ちゃんとやってると思える日は来るかもしれないが――母親とは、絶対に思わない。俺の母親は、亡くなったウレイス様だけだ」
喧嘩腰ではない。けれどけして柔らかくもない言葉に、けれど今度はオディロンも止める術を持たないように見えた。
羊老人は瞳を揺らし、なんとも言えない様子で目を伏せる。リテリアもそれが移ったのように、少年と父を見てからそっと目を伏せる。
――彼女の知らない。家族の共有する時間。それは、嫁いでくるときに重々覚悟していたこと。けれどやっぱり、自分がこの中で浮いている、居場所のない感覚はなんとも胸を涼しくさせる。
どこか足下がふわついている。彼女をじっと見つめ続ける少年の視線を感じる。
「俺は、もうわかってると思うけど、すごく短気だ。一応、一緒に暮らしていく以上気をつけるつもりだけど、また何かカッとするかもしれない。ただ、あんたはそれにやり返していいって言うか……俺にカチンときたら、いくらでも怒るといい。それはあんたの権利だ。でも、ここだけははっきりさせておく。俺はあんたに母親面されたら、絶対また嫌なことを言わずにいられない。それは……あんただって、嫌な諍いはしたくないって言っただろ。だから、覚えておいてくれ。父上も……それは、すみません。できないことです」
突き放していながら、同時に誰よりもまっすぐ向かい合ってくる。
正直すぎて、本音が出すぎて、まぶしすぎるぐらい。
懐かしい、捨てたはずの、もう出会わないと思っていたはずの感触に、リテリアは頭がクラクラする。
(この、気持ちは。なんなのかしら……)
とても快いとは言いがたい胸のうずきを押さえながら、リテリアは静かに、どこか遠くで、夫が少年に話をするのを聞いていた。




