金糸雀
領主の館があるのは、大きな街道から幾分か引っ込んだところだった。この絶妙な交通の不便さが他地方から攻められにくい理由ともなっているとかいないとか。おかげで領民の気質もおっとりしている、と説明される。道中、領主によく似てのんびりした雰囲気の農民達が、大麦畑から夫妻を歓迎して手を振っていた。
自分の領地の典型的な田舎らしさを、オディロンは当初妻が果たして受け入れてくれるか非常に心配していたようだが、リテリアには問題なく好ましく感じられた。。
若い妻の嬉しそうな様子に、彼やお付きの者達が一安心といった感じに肩を下ろしたはずが、館に近づくほどに、何かまたそわそわ落ち着かない感じになっていく。
「どうかなさいましたの?」
やはり好奇心の勝る妻が、周囲をうかがいつつさりげなく傍らの夫に尋ねると、彼はどうしたものかと迷う様子を見せてから、渋い顔立ちで口を開ける。
「……実は、その。今回の結婚は……随分急な、ことで……」
「ああ、反対なされてる方がいらっしゃるのね? もしかして、親戚の方でしょうか?」
「と、言いますか、その……」
今までは妻の問いかけに、多少返答のための思考時間をおくことはあってもきちんと答えていた夫だったはずが、よっぽど言いにくいことらしい。もごもご口ごもって、リテリアは何度か聞き直した。
「聞かない方がいいことですか?」
ついに彼女が困った顔で言うと、オディロンの方も負けずに眉をしゅんと下げ耳も力なく垂れさせている。ただ、言わないわけにもいかないとようやく決心を固めたようだった。
「臣には、死に別れた前の妻がいるというのは……あなたもきっと、既にご存知ですね」
「……はい」
「妻と、臣の子は……初産で、共に亡くしたのですが。私たちにはその……その前から、縁あって別の子がありまして――」
夫の拙い言葉遣いから情報をつなぎ合わせてぴんと来た妻は、口ごもった部分を引き取って補足する。
「つまり、養子としてお取りになった方がいらっしゃるということですね?」
「そういう、ことです。……すみません」
「何故謝るのです」
「いえ、その……」
羊の獣人は横に長い瞳孔を持つ瞳を、隊列の進む方向へ、遠くへ向かって投げかけた。
「臣には、実の子同然です。このまま跡継ぎに、とも思っています。あなた様にも、いずれはご紹介せねばと思っていたのですが」
「……そうですか。では、もう少し落ち着いてからご挨拶を済ませた方がよろしいかしら? それとも、着いたらすぐに顔をお見せしないと怒る方? 私、どうしていれば良いのでしょう?」
オディロンは妻が冷静に話すのを見て、少し驚いたように目を開き、おずおずと聞いてくる。
「お怒りにならないのですか。その……あなたはたぶん、気を悪くすると思っていました」
「どうして? あなたが愛妻家なのは有名だもの。お母様や……私の、個人的な事情のことがなかったのなら、と思うくらい。でも、奥様にはちょっと申し訳ないけれど、もう結婚してしまったんだもの。だったら私、奥様に怒られないようにするしかないわ。そう考えてはいけない?」
無邪気にニコニコ決意を語る妻に、オディロンは瞠目した後表情をゆるめた。
しかし、柔らかな顔立ちはすぐにまた硬いものになってしまう。
「あれも……あなた様のように、前向きに受け入れてくれると、良いのですが。本当は日を置いた方がとも思いますが、屋敷に帰ったらすぐにこちらに飛んで来てしまうと思うので……そのとき、紹介します。素直ではあるのですが、若い分短気でして、あなた様にも無礼なことを言うかも……」
オディロンの渋面からして、たぶん息子は今回の結婚に猛反対しているのだろう。まあ、自分と同い年ぐらいの妻がやってきたら、それは誰だって心穏やかでいられないに違いない。早くも最初の困難の予感がする。
「うまく、仲良くなれるといいのだけど」
リテリアはこっそりと首をすくめるが、気を取り直すように頬を叩くのだった。
館は王宮に比べれば、随分と小さく質素で見劣りする。
ここでもやっぱりオディロンはリテリアの顔色を心配そうにうかがったが、元々狭い内宮でしか過ごしてこなかった娘には小領主の館でも十分広く感じられるようだった。
機嫌良く、再び夫を捕まえて、あれは何これは何を始めようとした妻だったが、突如騒がしくなった気配と、さっと顔をこわばらせた周囲に顔を上げる。
「父上!」
物音を立てながら、周囲の止めるような声をふりきって夫妻のいる部屋に入ってきた人物に、リテリアは思わずはっと口元に手をやった。
それは、まだあどけなさが顔立ちに残る少年だった。リテリアとそう変わらない年頃だろう。――若い、というか、幼い。
服装はオディロンが着ているものと同じような雰囲気だったが、それよりぱっと目が行くのは頭の部分だ。
少年は独特の、顔の横の部分を隠し、頭部上方の左右に獣の耳を模した飾りがついている帽子を被っていた。リテリアのものと、とても似たデザインの。
彼は癖のある前髪の間から、青く澄んだ目を大きく見開いている。
オディロンを見て、リテリアを見て、またオディロンに顔を向ける。
「本当のこと、だったのですか」
低く唸るような声は、どう見ても穏やかなものではない。事前予告通り、わかりやすく新しくやってきた妻を嫌っているらしい。
さりげなく妻と息子の間に半分ほど身体を潜り込ませてから、オディロンはすっと息を吸った。
小さな手振りで、部屋内でどうしたものかと右往左往している使用人や部下達を遠ざける合図をする。
彼らの多くは心得たように出て行ったが、数人は部屋にとどまった。
オディロンも残った面々に関してはそれ以上追い払おうとしない。
夫が温厚な年寄りから一人の領主として少し表情を変えたのを見て、リテリアも合わせようとピンと背筋を伸ばす。
――が、明らかに敵意を孕んだ視線を向けられると思わず縮み上がりそうになった。
「息子の、アルトゥでございます。アルトゥ、こちらは――」
「出立の前のお言葉は嘘だったのですか。母上のために、お断りすると言っていたはずではありませんか!」
少年、アルトゥの方は、なんとか冷静に事を進めようとしているオディロンに対し、すっかり昂ぶった感情を発露させてしまっている。
リテリアが大きな怒鳴り声にさらに身をすくめると、庇うようにオディロンが動き、するとますますアルトゥは肩を怒らせる。
「お前、口を慎みなさい。……姫君にも失礼ではないか」
「いいえ、黙りません。しっかりした父上だからと信じていたのに、俺は母上の墓前になんとご報告申し上げれば? 父上が俺より年下の新妻を連れて帰ってきましたと? 情けない……」
「アルトゥ、お前」
たしなめるように父が言っても、一度頭に血を上らせてしまったらしい若者は止まらない。
リテリアがオディロンの影から心配そうにのぞき込むと、目が合ったのを契機に今度は彼女の方にいかにも皮肉っぽく口をつり上げて絡んできた。
「どのような力で父をねじ伏せたのです? それとも誘惑したのですか? 母親と同じように、男をたぶらかす魔性の女――」
「アルトゥルース!」
オディロンが動くのは素早かった。つかつかと部屋を横切り、高い音が部屋に響く。
少年は頬を押さえてよろめいた。
リテリアはあっと口を開け、両手を前に出しておろおろ二人を見比べるが、室内の緊張は高まる一方だ。
「……謝りません」
「アルトゥ」
「何故? そうおっしゃりたいような顔ですね。何故と言いたいのは俺の方だ、どうして父上――」
「あの」
細々した声に、ぴたっと少年が止まる。老いた男もまた、心配そうな目を向けた。
思いの外自分の言葉が大きく響いたことに驚きつつも、リテリアはちろりと室内を見回し、夫と目を合わせてうなずき、最後に一度大きく深呼吸をしてから、少年をひたと見据えた。
凜としたたたずまいの姫に黒く大きなまなざしを向けられ、少年がぐっと何やら飲み込むように喉の辺りに力を入れたのが見える。
「差し出がましいかとは存じましたが、このまま放っておくとお二人ともお互いを傷つけそうなので、失礼させていただきます。私は、リテリア=プトラ=イリディス=ネィメン――元マリウス朝の第二王女でしたが、このたび降嫁してネィメン卿の妻となりました。以後お見知りおきくださいませ、アルトゥルース様」
文句のつけようもない優雅な礼と、そつのない少女の言葉に、少年の顔がますます赤くなる。
リテリアは彼が何か言いたそうなのを見ながらも――夫が自分に任せるような、様子を見るような態度を取ったのを確認して――あえて譲らず、すらすら自分の言葉を続けた。不思議と臆する気持ちにならないのは――彼女が敬愛する、母親への侮辱でこちらもカチンときていたのかもしれない。
「あなたの感情がどうであれ、私たちは王都で誓約を済ませ、床を共にしました。法律で、正式な夫婦となったのです。そこは、私情では動かせない――もう一度正式な手続きを踏んで離縁しない以上、変わりません。ただ、確かに今回の件はかなり強引で、ろくに準備もせず……ですから、ご家族のお気持ちを踏みにじるようなことになってしまったのも、確かなことです。あなたのお怒りもごもっとも。旦那様は私を優しく迎えてくださりましたが、ご家族や領民の方々が私を快く感じないであろうことは重々承知しております」
リテリアが静かに述べると、便乗するかのように少年が口を開く。
しかし彼女はより一層強く声を張り上げ、あくまで譲らなかった。若い娘らしくはしゃぐことはあっても、もともと物静かな印象を授けがちなリテリアが喋っていると妙な迫力がある。
「――ですが。言われたことに納得ができない状態で、黙っている道理もないと思うので。先ほどのあなた様のお言葉には少々反論させていただきます。意に染まぬとは言え、夫婦となる以上、旦那様と少しでも仲良くなりたいと思うのはいけないことですか? その行いを悪と断じられるのは、いささか心外です。また私の母について悪し様に言われるのも不愉快です。それに、何よりやるせないのは、たとえもし、万が一私が邪心を持っていたところで、旦那様は小娘のつまらない悪戯など、相手になさらないであろうこと――あなた様が、それをご理解していないはずはありますまい?」
そんな風に言われると、少年の怒りの気配がしぼみ、揺れる。
言いたいことを言い切ったからだろう。こちらも少し落ち着いた。
一度間を置いて周囲を見回してから、リテリアは結ぶ。
「私を怒るのも、恨むのも、嫌うのも、仕方ないです。お叱りも、不満も、いつでも聞きましょう。……でも、私個人の事ならともかく、母や、祖先の事を言うのは……ずるいです。何よりも、お優しい旦那様がお心を痛める様子を見ているのが、辛いです。……お願いです。喧嘩をしたいわけではないの。こういう形での諍いは、やめませんか」
少女が黙り込むと沈黙が訪れる。
オディロンは二人を見比べてから、そっと少年に声をかけた。
彼はびくりと肩をふるわせる。相変わらず肩のあたりに力が入っていたが、先ほどよりはずっとずっと小さくなって見えた。
「……ご無礼を働きました。頭を冷やして参ります。部屋でお待ちしています。罰はいかようにでも」
アルトゥが再び出した声は、あらゆる物を押し殺しているような、色のないものだった。
彼はリテリアに向かってしっかりと頭を下げたが、顔を上げると刺し貫きそうなほど鋭い視線で彼女を射ぬく。
「だが、勘違いしないでもらおうか。俺はあんたを認めたつもりはないし、認めるつもりもない!」
そう吐き捨てると、少年は父に何か言われる前に、さっさとどすどす足音を響かせながら部屋を出て行ってしまったのだった。
アルトゥルース=セパ=ネィメン。
十二歳で妻となったリテリアと、二歳年上の義理の息子とは、このようにして出会いから因縁めいていた。




