鳥3
二人の了承が得られると、バスティトー二世は強引に準備を推し進め――と言っても事前に大部分の物は既に手配済みだったらしいが――わずか一週間後にはすべて整えてしまった。
リテリアの知らないうちにすっかり輿入れ道具から引っ越しに関する諸品までそろえられて、あとはもう式を挙げて旅立つだけになっている。
式は三日かけて宮殿で行う。領地に帰った後も披露宴を開く予定はあるらしいが、移動中に事故が起きては――たとえば王女の結婚に不満を抱く者が襲撃などしてさらっていってしまった場合に、王女が事実上未婚の身分だと非常に面倒な事になる。だから降嫁の場合、宮殿で王女を引き渡す前、先にさっさと神の前での誓いを済ませてしまうのが通例だった。バスティトー二世も異論はないらしく、王都神殿での儀式を通告する。
もちろん庶民に比べれば華やかで手のかかった儀式なのだが、降嫁する王女の結婚式にしては随分と簡素なものだ。
これに関しては、準備ができていなかった上にそこまで誇るほどの財力や家名もないネィメン卿に気遣った部分も、もしかするとあったのかもしれない。
バスティトー二世は花婿が顔色をなくすほどの援助金を惜しまなかったし、十分すぎるほどの持参金ももちろん娘に持たせていたが、無茶ぶりをした割に派手好きや浪費家ではない二人の性格はそれぞれ理解していたのだろう。
式の当日、初日がやってくると、バスティトー二世は侍女達に混じって手ずから娘の準備を手伝う。
「可愛い仔猫ちゃん。お前の決断を母は喜ばしく思います。今日この日を迎えられた喜びを、どう表現したらいいでしょうね。わたくしはね、本当に、本当に嬉しいのですよ。きっとお前は幸せな花嫁になれますとも。わたくしは神に身をささげた身、きちんとした結婚式なんか挙げられませんでしたから、娘のお前こそはきちんと送り出してやらねばね」
そんな言葉をかけながら、娘の黒くつややかな髪を梳き、器用に編み込みを作っていくつも飾りをつけていく。
「――そう。これでもう、これで思い残すことはない。わたくしももう少ししたらロステムに王位を譲り、宮殿を去ろうと思います」
戸惑うように目を伏せ、母からの美しいよく似合っているという褒め言葉にうっすら頬を染めていたリテリアだったが、母がなんでもないことのようにさらりと言った言葉に思わず動いてしまう。
「お母様、譲位なさるのですか?」
「ええ。ロステムが成人した時から考えていた事です。――まあ、今まで様子を見ていましたが、こうなったからには構わないでしょう。いい加減疲れました。もうずっと前から神のことだけ考えて過ごしていたかったのに、子を持つと別の悩みができてしまうものですから」
リテリアの心の片隅に、長男が昔冷たく言っていた言葉がひやりとよぎる。
彼女はそれを振り切るようにゆるく首を左右に振った。しゃらしゃらと動く度に全身を彩る装飾品が音を立てる。
「でも、お母様はまだ――その、お兄様に助言をなさったりとか」
「いいえ。ロステムはわたくしとは相性が悪いですからね。退位したら我が神と共に離宮に籠もって、もううるさいことは言わないつもりですよ」
娘は唖然とした。
何せ絶大なカリスマ性を誇り、残虐非道な行いも数多くありながらそれでも支持を失わなかったバスティトー二世だ。
こんなにも未練なく俗世から引くと言っていることがにわかには信じがたかったし、ならばこの結婚式で本当に母とお別れなのだという気持ちが今更ながら実感を伴ってこみ上げてくる。
「ですからお前も、もし万が一離婚したり、夫に先立たれる事があっても、宮殿には戻らなくていいですよ。降嫁したのならオディロン=ネィメンの妻、王女としての自分は忘れるぐらいでちょうど良い。よっぽどの馬鹿をしなければ大抵は生きていける材料も、嫁入り道具にすべて入れておきました。好きに使うといいですよ、これからはお前の物なのですから」
リテリアが不安そうに右目を瞬かせていると、若い肌にたっぷり嫁入り化粧を施し終わった女王が、宝石や金糸で彩られた眼帯を取り出す。
丁寧に左目を飾りながら、バスティトー二世は金と銀の目を細めた。
「リテリア。お前は欲のない子です。正確に言うと、欲を知らない子です。気の弱く優しい性質のお前は、一見意思がなく流されるばかりにも見えますが、実のところララティヤよりも強い意志を、ロステムよりもずるがしこい一面を持っている。お前の本質は他人に見抜きにくい。時にはわたくしに刃向かうほどのその心の内の炎は、内に宿ればお前を輝かせもするし、外に出れば周囲を巻き込んで焼き尽くすことだってあるでしょう」
次女はどこか浮かれたようにぼーっと聞き入っていた。
眼帯をなぞりながら、母は美声を紡ぎ続ける。
「わたくしは、お前に問うた。お前は、宮殿から離れることを答えた。ならば、これからはお前の心のままに自由にお生きなさい」
バスティトー二世は心を込めて娘にはなむけを送った。
これ以上ないほど惜しみなく愛情を注いで娘を送り出した。
母が離れていく瞬間、リテリアは確かに自分の失われた左目がずきんと痛みを放つのを感じる。
それでもなお、それよりもずっと、胸の奥が切なく苦しかった。
「お母様」
呼べば、女王は一度だけ振り返った。
そしてもう自由に生きろと言ったとおり、二度とリテリアの方を顧みようとしなかった。
リテリアの元に大勢の人間が、祝福をしにやってくる。
多くは花嫁のヴェールを被っているせいで顔も見えなかったが、なんとなく心から祝ってくれている者、そうでもない者、嫌悪を押し殺している者、何やら残念がっているらしい者――見えない分、人々の心の内が伝わってくるようで少し面白かった。
「まさかわたくしより先に結婚するなんてね、やってくれるじゃない」
じゃらじゃらとすさまじい音を立てながらやってきたのはララティヤだろう。
たぶん花嫁と勝負できるほど華麗な衣装に身を包み、きりっとまなこをつり上げてリテリアの事をにらんでいる。
「ま、グズのあんたにしては賢い選択をしたんじゃないの。少なくとも神殿行きよりはマシよ、面白みはなさそうだけど約束は果たしそうな男だもの。あとはせいぜいうまくやりなさいよっ――このっ、このっ!」
貶しているんだか祝っているんだか微妙な言葉を、何やらたくさん持ち込んだらしい花束の群れと共に色々と投げつけてから、ララティヤは満足した様子で去っていった。
「おめでとう、お姉様。お幸せに」
ルルセラからの言葉もまた短い。
けれど姉妹からの言葉はリテリアの胸の内をじいんと温かくさせた。
深い付き合いがあったわけではない。ほとんど他人のように過ごした家族だったけれど。
彼がやってくると、リテリアは自然と姿勢を伸ばす。
バスティトー二世も近くに控えている衆人監視の場では、おかしなことは何も起こらなかった。
長男は一通り、お手本のように綺麗な言祝ぎを終え、一礼して去っていく。
その刹那、ごくごく低く小さな言葉をリテリアの耳は捉えた。
「――幸せに、可愛い仔猫ちゃん」
瞬間、ぞっ、と身体の芯が冷える。
リテリアは分厚いヴェールつきの花嫁衣装を今こそありがたいと思った。
少しぐらい動揺しても表に出ないからである。
遠ざかる気配に、落ち着きを取り戻そうと深呼吸を繰り返し、彼女は心の中でそっと別れを告げていた。
「さようなら、お兄様」
――あなたこそ、どうか遠くでお幸せに。
彼女は心の底からそう願った。
とても無邪気で親切な少女だったのだから。
参列者達は豪華な食事や合間の贅を尽くした芸などで散々もてなされているようだが、奥に引っ込んだまま座り続けるだけのリテリアには退屈な時間が続く。
せめて飲み物ぐらいもう少し気軽に飲めればいいのに、とささやな不満を抱いてうつむいていた花嫁は、敏感に気配が変わるのを察知してはっと顔を上げた。
花婿の来訪が告げられる。
自分の座っている場所に近づいてくる物音に、彼女の緊張が一気に高まった。




