愚者2
人が死ぬと当事者は慌ただしくて、案外余韻に浸っている暇がない。
葬儀を終わらせ、家に戻ってきてからようやく寒さを思いだす。
落ち着いて寝付いた家人を起こさないように、身体をさすりながらそっと布団を抜け出す。
ふと起きたらそのまま目が冴えてしまった。
仕方ない、酒でも飲もうかと手燭を片手にそっと家の中を歩く。
……この家は、こんなに広かっただろうか。
吹いていく風の鋭さには、季節柄だけでなく、心理的な原因もあるように思えた。
生きている間はいちいちこちらのやることなすこと、うるさいことは言うわ邪魔はしてくるわ、それこそ毎日とっととくたばれと念じていたぐらいなのに。
母なんて、あんなにがみがみうるさく言われてさぞ恨み言を募らせているかと思えば、棺に取りすがって埋めないでと泣き出したものでちょっと驚いた。
何を言われてもハイハイニコニコしていた穏やかな人だったが(だからたぶん僕は父より母に似たんだろう)、あの笑顔は本心からのものだったのか。
その辺を考慮しながら注意深く思い返すと、父が母に出していたのは口だけだった。
酒を飲んで物を壊した現場なら何度か見たが、母にその手を振り下ろした事はない。
あまたの罵声もそう思って記憶を漁ると、男連中にかけていたものよりいくらか勢いがなかったような気がしてくる。
息子だった僕にはその辺一切手加減がなかった。
散々手足も飛んできたし、実際鼓膜が破れたことだってある。
長男とは言え、好みがうるさかったせいで結婚は遅く、ようやく生まれた弟妹も流行病であっけなく死んだ。残った一人息子にもっと優しくしてもバチは当たらなかったろうに、むしろその分厳しく当たられた気がする。
ぶっ殺してやろうかと思った事だって二度三度。
目上の人間や客、商売関係の人にだって愛想のひとかけらもなく。
相手を見て態度を変えるような器用さ、小ずるさがあるなんて、これっぽっちも思ってなかった。
そういう情のかけ方をできる人間だったなんて、知らなかった。
ふらふらと浮き足だった心のままさまよい歩いているうち、たどり着いたのは仕事場である。
見下ろせば、故人が愛用していた道具がそのまま転がっている。
手に取ると、自分の物とは随分と感触が違う。
数十年間、毎日汗水垂らしながら黙々と振り下ろしていた。
良い父親だったとは思わない。良い親方でもなかった。
クソ親父だったし、暴力野郎だった。
けれど、もしかしたら僕は、父のことを何も知らなかったのかもしれない。
槌を下ろして掌を見る。
昨日の夜、やっぱり手を伸ばしておけばよかった――。
そこで同時に思い出した。
鍵。あれは、どこにやったのだろう。
父の遺体を確認したとき、首から下がっているものはなかった。
もしかして落ちたとき、そのまま川に流されてしまったのか。
落胆しつつ、ふと予感めいたもの、あるいは未練を感じて倉庫まで行ってみる。
父があさっていた場所を探ると、昨日戻されたままに箱は隠されていた。
そして箱の上には、見覚えのある小さな細長い、紐につながれた棒が鎮座している。
一瞬、呼吸が止まった。
震える手でおそるおそる触れる。
最初に鍵を手に取り、次に箱の硬い表面に手を滑らせ、最後は自分の顔に。
冷え切った手が肌をかすめて、夢ではないと確信した。
穏やかすぎる父の死に顔と、肌身離さず持ち歩いていたはずの鍵がここにあるということ。
それらを結びつける思考が不快な結論を導きそうにもなるが、僕の関心は今や目の前の鍵穴のみ、釘付けだった。
残された鍵。
残された箱。
静まりかえった家。
眠れない夜。
誰も見ている者はいない。
誰も聞いている者はいない。
秘密は僕の胸一つ。
――親父ももう、墓の下。
さて、こうなったならやることは当然一つだ。
不幸にも僕は父に似ず、大分不真面目にできていて、こんな絶好の機会を逃す程馬鹿ではない。
昔話に出てくる、やってはいけないことを予定調和に破って案の定後悔するような、そんな軽薄で好奇心の強い、秘密と聞けば探りたくなる下世話な男だった。
鍵を拾い上げ、握り直し、差し込んで捻ればかちりと音がする。
箱の大きさはさほど大きくもない。
さて、一体どんな絶望が奥に残っていることやら。
別にセオリー通り希望でもいいけど、あまり最初に心を弾ませすぎると後で失望する予感がするのだ。
期待値を下げておくに越したことはない。
空という可能性もある。
あるいは父の警告を破った僕に天罰が下るかも。
……そこまで信託的な事を言わずとも、たとえば毒物である可能性だってないとは言い切れないわけだ。
それでも確かめずにはいられない。
蝋燭を脇に置き、胸の高まりをなだめながらゆっくりと開けた箱の中は、一見するとぱっとしたものはない。
鼓動が弾むのを感じながら注意深く灯りを近づけてみれば、一応何かが入ってはいる。
何度か迷ってからようやく指でちょんとつついてみれば、カサリと音が鳴る。
指先が安全なのを確かめてから、用心して、時間をかけて取り出してみる。
出てきたそれは、上質な紙らしかった。
それも何枚もあって、文字がびっしりと書かれている。
一番上にあったものの最初の部分に視線を滑らせる。
僕はゆっくりと切れ切れに文字を追いながら、顔をしかめずにいられなかった。
父は生粋の鍛冶職人で、文字なんか読めなくても何も気にしなかった。
僕の方はもうちょっとあらゆることに興味があったので、別の人にこっそり教えてもらって文字も読める。
ただ、広く浅くが基本の知識はうろ覚えなところも多かったし、文章はさっと見た雰囲気からして昔のものなので、表現が古風な感じがする。
要するに、読めないわけではないし解釈ができないわけではないが、時間がかかる。
しかも箱から出てきた紙には結構な分量があるのだ。
全部読むのにどれほどかかるだろう。
飽きっぽい僕は徒労の予感に作業を中断しかけるが、あれほど父が強く言ったこと、このいかにも仰々しい外の箱、鍵の存在――それらが重なり合った結果、せめて一枚は読んでみようかという気になる。
まあ、眠れないし、せっかく出てきたんだし、一体どんなご大層な事が書いてあるのか、そのぐらいは教えてもらおうじゃないか。外見と不釣り合い、拍子抜けな内容なら明日の飯の種になるだけだし。
そんな風に自分を鼓舞しながら、再び最初の一文に目を通す。
何度か往復して得た回答が、自然とこっそり唇の隙間から漏れていく。
「籠は男。鳥は女。生まれた私は腐った卵……」
言い終わってから思いっきり首を捻った。
なんとも度しがたい書き出しだ。もしかして雅なご趣味って奴か? これ全部?
辟易しかける心を励まして続きをげんなり読んでいた僕だったが、この文の書き手が誰であるかというところが明らかになってからすべての退屈と不満が吹き飛んでしまった。
そんなの嘘だろう? これは何かの創作なんじゃないか? と斜に構えつつも、意外すぎるその人物の名前に、その人物が語る文の内容に目が離せなくなる。
それは、最初回想録のようだった。
蝋燭の乏しい光と僕の乏しい知識を友に、僕は夜通し箱の中の秘密を暴くことになった。