鳥1
リテリアは十二歳の誕生日を迎えたのとほぼ同時期に大人の女となった。
バスティトー二世は徴のやってきた娘を盛大に祝ったわずか一週間後に、オディロン=ネィメンとの縁談の話を持ってきたのである。
「ネィメン……」
あまりに唐突な申し出に、リテリアはきょとんと、残っている右目を開いたまま呆然とつぶやく。
バスティトー二世は非常に上機嫌な様子で、尻尾を左右に振りながら言った。
「オディロンは物事をわきまえている男です。必ずや、お前の良き伴侶となってくれることでしょう」
「お母様、でもネィメン卿は、その……」
「わたくしより年上で、おまけに男やもめだから気に入らないと? もっともな意見ですね」
「私……」
リテリアはそんなつもりでは、ともごもご口ごもりながら怯えた表情になって縮こまる。
失った左目が身体に刻みつけた恐怖は根深く、少しでも母の様子に変化が見られれば次女は血の気をなくす。
バスティトー二世はリテリアの思考をくみ取って言葉を発したものの、大して機嫌を損ねたわけではなさそうだった。
ふむ、と一息ついてから続ける。
「リテリア、お前の心配も当然のことです。口の悪い臣下には、わたくしの頭がとうとうおかしくなったかなどという者もありましょう。ですがわたくしはお前にとって一番安全な男は彼であると判断しました。それゆえの提案です」
「提案……」
「オディロンは――ま、あれも相当頑固な男ですから、最初の方こそ嫌だ絶対再婚なんかしないとゴネそうな気配もありましたけど、わたくしがいくつか気の利いたお話をしたところ、観念してお前次第だと言いました。ええ、しっかり言質を取ってきましたよ。姫君が嫌がってらっしゃるならお迎えすることはできない――ですって。フン、相変わらず馬鹿のつく真面目さだこと」
身体を小さくしたまま母の言葉を力なく繰り返す娘に、バスティトー二世はあくまで優しげな調子で語りかけ続ける。
ただ、さすがに自分の持ってきた話に幾分か無理があり、娘が渋い反応をする予想はできていたのだろう。何せ三十三も年が違う上、妻に先立たれた愛妻家として有名だった男なのだ。身分だって、王女であるリテリアに釣り合うとはとうてい言いがたい。これでリテリアがすっかり行き遅れで相手に困っている状況だとかいうことならまだわかるが、彼女は成人したばかり、わずか十二歳でしかも初婚。既にネィメン以外のあらゆる男から申し込みが来ている。
バスティトー二世の鶴の一声がなければ、それこそあり得ないような組み合わせだった。
娘の様子を見るように間を開けてから、少しだけ女王は提案の種類を変えてみる。
「お前がどうしても嫌というなら、わたくしも無理強いはすまい。では誰と結婚したい?」
「わ、私そんな、まだどなたと結婚だなんて――」
「ララティヤはもう主要な男は品定めした上で、皆嫌だと言ってきています。あれもあれでどうかとは思いますが、お前はなんとなく気になる人でも、この人と一緒にいたいと思う人でも、誰かいたりしないのですか」
「そんなことを急におっしゃられても――」
母は有無を言わせぬ調子で尋ねたが、リテリアは慌てた後に困惑を示しただけ、特に頬を染める様子すら見られない。生粋の箱入りにはそもそも適齢期の男に会うような機会なんてほとんどなかったのだし。
本当に色事関係にはまだ何もないのだな、と判断したらしいバスティトー二世がさらに別の案を出す。
「よろしい。ならば、神殿で巫女として勤めてもらいましょうか。すぐにでも」
「お母様! そんな、どうして」
「今まではわたくしが囲って可愛がっていれば済んでいましたけどね、これからはそうもいかないでしょう。成人したとみなせる以上、できるだけさっさとお前に宮殿を出て行ってもらわねば不都合です」
おろおろするリテリアを前に、母はもはや自分の意向を隠そうとすらしない。追い出す気満々で、出て行けと繰り返す。
いつもこうだった。
バスティトー二世はなんでもかんでも自分で決めてしまって、リテリアに問いかけの形の確認しか取らせない。彼女の中で決まったことを覆す力はリテリアにはない。
王女はぐっと奥歯を噛みしめる。
どろりと心の一部が溶けて、身体の中でとぐろを巻く。
――ネィメン卿がお相手だなんて、どうしてそんなことを。
私があの時約束を守れなかったのがいけないのですか? お母様に従順でなかったからこれもお仕置きなのですか?
では、だったらなぜ、ルルセラではなく私を選んだのです。感情の薄い操り人形がほしいなら、彼女の方がよほど適任ではないですか。
お母様。ここで捨てるぐらいなら、どうして今まで可愛がるふりなんかしたのです。
やっぱり、本当は私の事がお嫌いなのですか?
私の事が憎らしかったのですか?
――私は、あなたがわからない。あなたも自分もわからない。いつまで経っても曖昧なまま、思い切ることができない――。
けれどリテリアの中に浮かぶ、そのような反抗的な感情はすべてのど元で押しとどめられ、胸の、腹の奥で握りしめられる。
挑発的な言葉を発するどころかびくびくおどおど顔色をうかがって情けない。
それでも、二度と開かない左目は重かった。損失は何にも勝る証だった。
黙り込んだリテリアを見守っていた――おそらく彼女が結論を出すまでそのまま待つつもりでいたバスティトー二世だったが、リテリアがなかなか答えられずにいると、慈しむように表情をゆがめ、幾分か声の調子を落として何気なく語り出す。
「仔猫ちゃん。わたくしが夫に、お前のお父様に初めて抱かれたのも十二の年でした。そしてその次の日に、あの男はわたくしを捨てたのです」
低く、低く、油断すれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
リテリアは弾かれるように鼓動が増すのを感じる。
二年前に左目に刻印された、絶対の禁忌。
だのに母は、いともたやすく、何の準備もできていない今、勝手に秘密を話してしまう。
「でもね、わたくしは我が君を捨てられなかった。それだけ酷いことをされても、この人と添い遂げたいと思った――思う自分に気がついた。追いかけてすがりついて、我が下に屈服させ、這いつくばらせて足の指を丹念にしゃぶらせるまでは絶対に死ねないと感じた。だから今のわたくしがある」
さらりと告げた母だったが、その言葉には言いようのない重みがあり、その美しい金と銀の瞳には形容しがたい影がちらついた。リテリアは何か魔法にでもかけられたように母から目が離せない。
バスティトー二世はいつでも気まぐれで。
なんでもないように他者をかき乱し、圧倒的に蹂躙する。
「自分に不満を抱いたことはありません。他人の在り方や生き方を特にうらやましいとも感じません。わたくしはわたくし、彼らは彼ら。けれど客観的に評価してみれば、わたくしの人生はけして幸福と断じることのできるものではないし、自分の異常性についてだって、誰かから親切にうるさく言われずともそれなりに理解しているつもりです。わたくしはこのようにしか生きられない種類の生き物です」
自分の事について淡々とにこやかに述べながら、バスティトー二世はしめくくる。
「お前にはね。幸せになってほしいのですよ、リテリア。たとえお前にわたくしが理解できないのだとしても。そのための今回の縁談です。考えて結論を出しなさい。少しなら待ってあげますから」
――可愛い仔猫ちゃん。
でもお前は、わたくしとは違うでしょう?
ゆらりと揺れた尻尾の向こうに、発声されなかった言葉が消えていった気がした。
バスティトー二世が部屋を出て行っても、リテリアはしばらく立ち上がれない。
彼女は考える。何か他に道はないのかと。
何かもっと、うまくて、母も自分も納得して――そんな道は、方法はないのかと。
きっとどこにもないのだと諦めたまま、それでもどこかで諦めきれずにあがこうとする。
リテリアは半端物で、そのような人間だった。
そうやって、自分から底なし沼に堕ちていく人間だった。




