巣
左目を抉られてからは何事もなく十二歳になったリテリアの話をする前に、新たな人物の紹介をしておかなければならない。
時は一度、リテリアの生まれる約十年前までさかのぼる。
その頃のアレサンドロ国王は、第七代国王の妃でもあったエルイネス一世。
夫に満足できず毒を盛り、その後あふれる欲望に任せて我が子をも手にかけ、ついに自ら王冠を手にした。
数々の無能で知られるエルイネス一世だったが、一番の愚行は七代国王が愛妾との間にもうけた姫をきちんと殺さず、生き延びさせてしまったことだろう。
もちろん、この人間に奴隷として売られた幼く不遇な姫こそ、後のバスティトー二世その人であった。
名もなき姫がエルイネス一世への反撃を開始したのは十二の年。
わかりやすく権力の欲に溺れ、ぶくぶく肥え太る女王に早速愛想を尽かした臣下達は、王の資格を持つ幼子の行方を追って人間の国まで足を伸ばした。
当初彼らは今の王を倒すための大義名分がほしかっただけで、奴隷にされた姫に一切の期待をしていなかった。元々命を取られず奴隷にされたのも、彼女が白痴でありエルイネス一世に何ら危害を及ぼす可能性のないものとして考えられていたからである。
臣下達はお飾りの主として姫を持ち上げたが、彼女は眠らせていた才覚を存分にふるい、即位する頃には既に名実ともに臣の主となっていた――。
さて、そんなわけで姫が順調にエルイネス一世への謀反を成功させ、主要拠点はほぼすべて抑えて後は宮殿に入って冠をもぎ取るのみ――といった時のことだった。
白痴の姫から血染めの王女にあだ名を変更されつつある彼女のもとに、一人の亜人が呼び出された。
特筆することもない凡庸な小隊長が丁寧に挨拶の礼をすると、美貌の姫は適当にあしらい、豪華な食事でもてなし、優雅に頬杖をついたまま切り出す。
「お前、人間の妻がいると聞きました。奴隷から解放し、正妻に迎え、亜人と同列に扱っていると。妻だけではない。お前はお前の部下に人種の優劣をつけないそうですね。何故です? 人間は脆弱な生き物でしょう、お前はそうは考えないのですか」
亜人は人間という種を、表向きの態度はどうであれ、心の中で本能的に見下す者が多い。
亜人の方が身体能力に優れ、環境の変化にも頑健であることがその最たる理由であった。
人間は亜人より脆弱である分、手先が器用だったり知恵が働いたりするのだが、それで人間に負けようものなら亜人は相手を卑怯であると認識し、ますますさげすむようになる。
王女本人は、頭の固く直情型の多い亜人にしては随分と冷静で先進的な方だったらしく、比較的この考えには中立的な立場だった。彼女の部下には人間も少なくなく、中にはエルイネス一世の治世では考えられない身分まで出世した者もある。
けれどその王女にもやはり基本としては人間は亜人より劣っているという思想があり続けたし、だから亜人でありながら明らかに人間を差別していない男の在り方が何か心の琴線に触れたのかもしれない。少なくともわざわざ呼び出して問いかける程の興味は得たわけである。
「構いませんよ。何を言ってもわたくしの権限で許すから、遠慮なく自分の忌憚ない意見を述べるが良い。わたくしも怒りませんから」
羊の獣人であるらしい男は、自分が呼び出された理由には納得したらしいが、王女の言葉にどう答えようか迷う仕草をみせた。王女がそれを見てさらに言葉を重ね促すと、意を決したように男は答える。
「では、申し上げさせていただきます。亜人と人間は、それのみで優劣が決まりません」
「ほう?」
「亜人だから優れているのではない。人間だから劣っているのではない。臣は亜人であろうと部下であってほしくない人は遠ざけましたし、人間であろうと部下であってほしい人には時には頭も下げます。また、妻のことですが――彼女と会って、話して、一緒に時を過ごして、臣めが彼女にふさわしく、また彼女も臣めにふさわしいように感じ、互いの了承を得て――ゆえに妻として迎えました。……ただ、それのみにございまする」
「実に興味深い話だこと。では問おう、臣よ。お前にとっての優劣とは何です?」
王女の言葉はどこか棘を含むようだったが、一度覚悟を決めたらしい男は退こうとしなかった。
「それは、慈愛の心でございます」
「ならば貴様にとって、わたくしは地上でもっとも劣った存在になりますね。人々はわたくしがどれほど無慈悲であるか語るに飽きない」
王女はごくごく朗らかに言ってのけたが、場の空気はかたまる。
控えの者達が音もなく手元の武器に手をかけた。
ところがこの場になっても、まだ男は落ち着き払ったままだった。
王女の鋭い視線にも臆することなく、一度息を吸ってからゆっくり落ち着いた声で話す。
「殿下にも御心はござまする。ただ、あなた様はそれを奥深くに閉じ込めてしまって、滅多に他人に与えようとしないだけ――」
その途端、室内に笑い声が響き渡った。
呆気にとられる臣下達の前で、王女は声を上げて笑い転げている。
さすがに男も驚いたようで目を見張っていると、彼女は目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら口を開く。
「お前は救いようのない大うつけらしい。ですが実に愉快でした。こんなに笑ったのは久しぶり。その狂った美徳と理念にはほとほと感服いたしましたよ」
男は困惑した表情のままだった。
気性の激しく敵対する者に容赦のない王女のこと、てっきり彼女の不興を買った発言のために首と胴が分離する覚悟をしていたら、思わぬ反応をされたのだ。どうすればよいのか、とおろおろしているらしい相手に王女が再び言葉を重ねた。
「王女の笑いを引き出した褒美を取らせましょう。言ってみるといい、何がほしい?」
男はしばし考えるようにしてから、また礼儀よく頭を下げて申し出る。
「では臣めの部下達に、美食をいただきとうございます」
「もちろんねぎらってやろうとも。良い上官を持てて幸せだこと。で、お前個人は何がほしいのです」
「臣めは凡愚にございますれば――」
「よかろう、こっちで適当に装飾品の類いを用意してやるから、妻に似合いそうな物を取って行きなさい。お前のような愚物はそういうところに気が利かないでしょうからね」
王女はなんとも言えない顔になった男に、彼女にしては非常に珍しいことに威圧感も邪気もない無垢な微笑みを向けてみせた。
「凡愚と愚妻で幸せにな」
「……愛妻でございます」
男の言い返した言葉に、彼女は再び声を上げて笑い、その後数日間機嫌良く過ごした。
男はこのように、物腰が落ち着いていて度胸もある割に全く野心のない性質だった。穏やかな気性があだとなったか、その後実戦でも特に目立った武功を上げずに終わったが、大病や重傷を負うこともなく生き残った。
バスティトー二世として即位した女王は、王女の時のこのやりとりのことをよほどよく覚えていたらしい。男は女王の好意を得て、それなりの小さな土地を授けられ小領主となる。
彼の人生はこのように、本人の性格を反映してかおおむね波なく平和だったが、ぼんやりしすぎて運の神にも見放されたか、最愛の妻とは最初の出産で死に別れた。その後ひっそりと妻を偲んで過ごし、跡継ぎに養子を迎える。
この男の名を、オディロン=ネィメン。
十二歳になったばかりのリテリアの夫として、バスティトー二世直々に指名された、真面目で優しく愚鈍で間の悪い――そんな四十五の男やもめであった。