小鳥10
リテリアを驚かせた人物は隅で気配を殺し、侵入者を観察していたらしい。
彼女が入り口からしっかり部屋の中まで入ってきてきょろきょろしだしたので、見守るのをやめて声をかけたようだった。
落っことした物音にあからさまに舌打ちされたのが聞こえ、リテリアのパニックはますます高まる。
慌ててそちらの方に振り向こうとするが、「それ以上動くな」と小さく低い声で男に命じられる。
「誰がこっちを向けと言った、そのままでいろ。その場に膝をつけ。手は頭に。敵意がないなら私に従え。お前の立場を示すが良い」
相手は何か――たぶん細長い棒状の物をこちらに向かって突きつけている。
慌てて彼女が言われたとおりにすると、気配が近づいてきて、背中に硬い物の先端が押し当てられる感触がする。
「なるほど、その程度の常識はあ――おい、なんだ、貴様随分と小さいな。まさか子どもか? 一体なんなんだ、またあの女が気まぐれか。その割に私は何も聞いていないが……それとさっきから気になっていたんだが、これは一体何の真似だ?」
男はリテリアに押し当てていた何かの先端をつつっと上に動かすと、ちょんちょん頭の上をつつく。
リテリアは人間で、他の兄妹のように耳や尻尾がない。だから彼女は代わりに、獣の耳がついていて本来の人間の耳を隠すような構造の帽子を被っていた。この格好は同時に、種族が人間であってもある程度社会的立場があることの証明になる。どうしても亜人社会では立場の弱くなる人間を保護するための装備でもあるのだ。
「帽子か? 奇妙な形をしているな」
ところが亜人社会で通常生きていれば当然知っているはずだろうその常識を、どうやらこの男は今日初めて見たらしい。物珍しそうにしている気配が伝わってくる。リテリア以上の世間知らずだ。それなのに態度から口調からすさまじく偉そうである。
「で、子ども。目的は何だ。貴様ここに何をしに来た。少なくとも間違って迷い込んできたということはあるまい、ぼーっとふらついていればたどり着けるという場所ではないのだろうからな。もっとも外がどうなっているのかは私にはさっぱりだが」
男がリテリアをつついていた棒を引っ込めて近づいてきた気配がする。
リテリアは硬直し、何をすることもできなかった。
いや、身体は動かず声を出すこともできなかったが、男の気配に自然と視線だけが引き寄せられた。
男はリテリアが一目でわかるような上等な衣装に身を包んでいる。
壮年、というところだろうか。髪は白髪交じりのグレー、痩せていてどこかやつれているようでもあったが、顔立ちや体つき自体はかなり整った方に思える。
リテリアの落とした籠の中身を漁り、注意深く彼女の持ち物を吟味していたようだが、不意にこっちに視線が飛んでくる。
「……そんな呆けた顔をして、どこがおかしい。すべてか?」
男の低く落ち着いた声は、二次性徴を迎えて声変わりした後のロステムに。
高慢で皮肉っぽいしゃべり方や、それでいて品を保った所作はララティヤに。
何も言わずじっと物を見つめている横顔はルルセラに。
それぞれどこか似ていて、面影が残っている。
見つめられた瞬間、すべてを忘れてまっすぐにのぞき込んだ彼の瞳は黒かった。
より正しく表現するなら濃褐色。黒に近い焦げ茶色。
(可愛い可愛い仔猫ちゃん。お前は神様に似ている)
まったくもってその通り、バスティトー二世が繰り返したリテリアの目と同じ色。
男はリテリアがぽかーんと間抜けに口を開けていると、その黒茶の目を細め、くるりと手の中の杖のようなものを回して持ち直し、自分の肩をとんとんと叩いて眉根をぐぐっと寄せた。
「つまらん奴だな。こちらは何十年かぶりに待ちくたびれた刺激なんだぞ。それがこうも黙っているだけでは何も得るものがない。ほら、口が利けるなら、あーでもうーでもいいから喋ったらどうだ、ん?」
催促されてもやっぱりリテリアは応じられなかった。
頭自体は一生懸命働いているようなのだが、ずっと同じところをぐるぐる回って結論が出てこない。
神域の「神」について。
そうなのではないか、と予想していた。
そうだったら、たとえばこんなことを話してみたい、こんなことを聞いてみたい、さんざん考えたはずだった。
けれど実際その人を目にすると、すべてのことが飛んでしまって頭が真っ白になる。
彼はリテリアの想像通りの人で、それでいてまったく想像と異なる人だった。
呆けた侵入者や彼女の持ち物をつまらなそうに見比べていた男だったが、その表情が彼女の顔をのぞき込んでいるうち、ある瞬間から変わっていく。
彼は肩に乗せていた棒を今一度リテリアの方に伸ばし、彼女の顎の下に当てて顔を上げさせる。
「そうか。私は貴様の――お前の正体を知っているかもしれない。前にもここに来ただろう。……と言ってもそっちが覚えているはずもないがな。まだあの時は赤ん坊だった。あの時は腕に抱えられるぐらいで……」
意識してか、それとも無意識のことなのか、男の口調が変わっている。
ララティヤじみていた声音が、ロステムに近いものに――柔らかい調子を帯びるものになっている。
リテリアの息が止まった。胸の奥がきゅんと痛み、鼻の奥もなんだかツンとした。
自分が何か言う前に、どうすればいいのかわからないでいる間に、向こうは察してしまった。
こちらが何もできないでいるうちに、あちらは答えを出そうとしてしまっている。
男は――男は、どうやらかなり困惑しているらしかった。
リテリアと同じぐらい、あるいはそれ以上に。
自分がどうしたらいいのか、目の前の人物にどう接したらいいのか、彼の方でもまったくわからず混乱しているようだった。
彼はまさに、途方に暮れたような状態で、しばらく膝をついたままのリテリアを見つめた。リテリアもこの体勢のまま動けないでいる。
随分と長い間、男は口を開けては閉じ――やがて深く重たい、ため息を吐き出した。
「そうか。私も年を取るはずだ。しかしお前も馬鹿な奴だな、その余計な事に首を突っ込む悪癖は誰に似た? ……私の方、か。救いようがないな」
髪をかき上げ、リテリアに語りかけるような独り言を繰り返し、自嘲に顔をゆがめる。
男は適当な方に棒を放り投げ、歩き出すとリテリアの落とした物を拾う。
床に上等な敷物があったせいだろうか、幸いにも彼女が持ち込んだ夜光石等は割れずに済んでいた。
他にも果物などが入っていたが、すっかり全部を元通り中に押し込めてしまってから、男はリテリアに籠を突き出す。
「そら、これで全部だ。お前は今日何もしなかった、何も見なかった、何も聞かなかった、今まで通り何も知らないままだった――そういうことだ、わかるな。せっかく可愛がられているならそのままにされておけ、自分で自分の首を絞めるんじゃない」
リテリアは男の言葉の意味を理解しないまま、それでも有無を言わせぬ調子に釣られるように弱々しく手を差し出す。その彼女の膝に籠を落とし込んで、男は身を離してしまう。
彼の手はしばし空を迷い、リテリアとの間でさまよったが、結局ぎゅっと握り拳になると、彼女に一度も触れることなく戻っていく。
次に向けられた濃褐色の瞳には、なんとも形容しがたい静けさが宿っていた。
「私に期待してくれるな。私はあれの唯一の主人だが、逆に言えばもうそれしか残っていない、残されていないだろうよ。あれは、悪食で淫乱で強欲で怒りっぽく、怠惰で傲慢で――誰よりも嫉妬深い。私からすべてを奪い尽くしておいて、私には父親になる権利すら与えなかった。……そういう女だ、キティは」
リテリアが立ち上がろうとすると、彼は身を引く。
彼女が彼に近づくよりも素早く下がり、壁の方まですっかり退いてしまってから静かに命じた。
「帰れ、リテリア。もう来るな。……鍵もちゃんと閉めていけよ、仔猫ちゃんに見つからないようにな」
その後、自分がどうしたか、どうやって再びあの暗い迷路を経て部屋まで戻ってきたか、リテリアははっきりとは覚えていないという。
はっと意識が戻った頃には、彼女はいつも通りの服、いつも通り自分の部屋で眠りについていた。
慌てて探し回っても、装束も持ち物も消えてしまっている。
ただ、複製した鍵だけは彼女の胸元に下がっている。
神域での出来事すべてが夢のようだった。
あらゆることが頭をよぎっては過ぎていく。
リテリアはしばらくこの出来事に夢中だった。
あらゆる人や予定を避けて引きこもり、神域に今もいるはずの人の事を思っては、言葉にできない感情に胸を詰まらせて枕を濡らした。
しかし、彼女はすぐに落ち込んでばかりもいられなくなった。
バスティトー二世が視察先から帰還したのだ。
リテリアが体調を崩していると聞いて見舞いに来た母に、どんな顔をして会えば良いのかリテリアにはわからなかった。
ベッドの中で身体を縮こまらせていたリテリアは、母が彼女に語って聞かせる視察先の話に弱々しく言葉を返し続ける。
すると、ふとバスティトー二世は言葉を切った。
リテリアが疑問を覚えてそっとシーツから顔を出すと、母はにこやかにほほえみかけてくる。
「ところで仔猫ちゃん。お散歩は楽しかったですか」
散歩? 何のことを言っているのだろう。
虚を突かれたリテリアだったが、何のことかわからない、という顔をしている間に母が寝台に投げて寄こした布にすぐさま顔色をなくす。
それはリテリアが神域に侵入する際に、「手」のふりをして門番をごまかすために被っていた布きれをだった。
彼女が取り乱してどこかに落としてきたはずの、なくしたはずのものだった。
「わたくしの言った通り、そっくりだったでしょう? ……我が君は、お父様は、お前にそっくりだったでしょう。ねえ、可愛いわたくしの仔猫ちゃん」
バスティトー二世は美しい金と銀の瞳を輝かせ、晴れやかに言い放った。
いつもとまったく変わらぬ、朗らかで穏やかで慈愛と優しさと余裕に満ちた母の微笑みを、真っ青で呼吸も忘れる勢いの次女に向け続けていた。