空想少女
延々と続く石段を登りきると、古ぼけた神社が見えた。
同時に、春の余韻を感じる暖かい風がわたしの体をすり抜けていく。 町外れにある山間の道を一時間以上も歩いてきたせいか、ワンピース一枚だというのに暑く感じた。
もうすぐ太陽が真上の空に登るころ、境内にひとの姿はない。
昔はそれなりに参拝客がいたそうだけれど、町の都市化が進むに連れて客足は次第に途絶え、いつしか管理下からも外され、こうして打ち捨てられてしまったそうだ。
それからいくらかも時が経った現代のゴールデンウィークでは、そんな背景がある無人の神社へわざわざ苦労してまで足を運ぶ人間はといえば、わたしみたいな物好きな女子高生くらいだった。
参道を歩いて社殿の前に立ったわたしは、苔の生えている賽銭箱に小銭を投げ入れて両手を合わせる。
とくべつ祈るようなことはなにもないけれど、神社に来た以上はこうしておかないと気が済まない。それに、これから大変な無礼を働くことになるから……。
「ごめんなさい。でも、どうか見逃してね」
わたしの独り言に答えるかのように、境内をぐるりと囲む森林が一斉に騒いだ。びっくりしたわたしは、「ひょんっ」と間抜けな声をあげて飛び上がってしまう。
神社に奉られていた神様が久方ぶりになるであろう来客を歓迎してくれているのか。
それとも、これからわたしが働く無礼を見抜いて怒っているのか。
ただ単純に、たまたま風が吹いただけかもしれない。
なんにせよ、わたしは再び両手を合わせて深々と頭を下げることにした。
それから社殿の横手にまわったわたしは、文字どおり仰天する。
そこには圧倒的な存在感を纏った巨木がどっしりと鎮座していて、周囲に佇む神々しさすら覚える空気にあてられたわたしは、思わず平伏してしまいそうになる。凄い迫力だ。
これが、この神社の御神木。幹には荒くささくれ立った古い注連縄が巻き付けられていて、より一層神聖さが強調されている。
御神木は高く伸び、その頂上は境内の中では一番の高度がある。
わたしはぐっとこぶしを握った。この高さなら十分だ。
白いワンピースの裾を捲りあげたわたしは、周りに人がいないのをいいことに、下着が覗くのも厭わずに大股をあげて注連縄に足を引っ掛ける。そのまま軽く跳躍して頭上の枝を掴み、体を持ち上げた。
枝は頑丈で、わたしの体重がかかってもびくともしない。
うん、これならなんとか登れる。
「これはフィクションなので、モニターの前のよい子はまねをしないように」
誰にでもなく云って、わたしは御神木を登りはじめた。
◆
昔から空想の世界に身を置きたいという、強い願望があった。
その始まりは小学生のころに読んだ絵本。ウサギを追いかけて異世界へと迷いこみ、様々な冒険や経験をするヒロインの女の子が羨ましかったし、彼女のように異世界に迷いこみたいと本気で願った。
でも、それはあくまでも空想の世界。
いくら願ったところで、この現実でしか生きられないということを理解するのに、幼心ながら、それほど時間はかからなかった。
それでも空想に対する憧れは消えない。却って、ありえないとわかっているぶん、より一層憧れは増していった。
その葛藤からいつしかわたしは自ら空想から遠ざかるようになった。それまで所持していた漫画や小説、ゲームの類いもすべて捨てた。
とにかく身の回りに空想を近づけないようにした。
そうでもしないと、日に日に膨らんでいくばかりの憧れでどうにかなってしまいそうだったから。
わたしが「それ」に出会ったのは、高校一年生の冬の終わり。
人の入りの少ない小さな図書館に友達と集まっては、一頻り駄弁ってから解散するという、不健全極まりない春休みを過ごしていた時。
とうとうお喋りのネタも潰えて、暇潰しにと図書館備え付けのパソコンを使い、ネットサーフィンに興じていたわたしは、あるイラストサイトを見つける。
そのトップページに飾られていた一枚のイラストに、わたしは一目で心奪われてしまった。
まるで落とし穴のような深く青い空を背景に、白いワンピースを着たボブカットの少女が、木の枝に腰かけて橙色の紙飛行機を飛ばしている。
そんな、空想的な一枚。
そしてそれを見て、わたしが押し殺していた空想への憧れは、再び爆発する。
この場所になら、わたしでも行けるんじゃないか。
(この女の子と同じ世界に行きたい)
わたしはすぐに行動した。
普段カジュアルファッションに身を包むわたしが、いっさい着る機会のなかった真っ白いワンピースも買った。
ずっと伸ばしていた長い髪も、イラストの中の女の子と同じくらい短く切った。高校デビューで茶色く染めた髪も、黒に戻した。
おかげで友達には地味になったと笑われたものだけど、首もとが涼しいのでこれはこれで気に入っていたりする。
◆
そしてこの町で、あの空一色の背景を再現できるほどに高い木がある場所は、山の上にあるこの神社を除いて他にはない。
御神木に足をかける、なんて罰当たりなことをしてでも行う価値が、わたしにはある。
「ゆえにわたしは登る。我登る、ゆえに我あり。そこに空想がある限り……」
ぷるぷると震える腕に必死に力をいれて、次の枝を目指しながらわたしは何度も自分をそうやって励ました。
木登りがここまで体力を使うものだと、正直思っていなかった。腕が萎えきっている。
でも、いまさら泣き言なんか言ってられない。ここまで来た。ここまで登った。
もう後戻りはできない。
暫く登ってから上を見上げると、木の頂上が見えた。そろそろ頃合いか。
すっかり汗まみれになったわたしは、小枝に引っ掻け掠り傷だらけになった手を伸ばし、近くにあった枝を掴む。
それを支えにして幹に体を預け、恐る恐る膝を曲げて、足場にしている枝に腰をおろした。
風がほほを撫でる。
高鳴る胸に手を当てる。
深く呼吸をする。
顔を上げた。
その景色を、わたしはきっと、一生忘れない。
ここが、この町で一番高い場所。
「……うっわあ」
まず目に入るのが、空。あのイラストの背景のような、落とし穴のように深い青色がどこまでも広がっている。
もしも今、空と地面が逆さまになったら、わたしはなす術もなくあの空の底まで落ちていってしまうんだろう。
背筋をぞくぞくとなにかが走る。体がかあっと熱くなっていく。自分が興奮してるのが、わかる。腹の底からなにかがわき上がってくる。
あの日に見たイラストと同じ世界が、ここにある。
わたし、いま、空想の世界にいるよ!
視線を少し下に落とすと、遠くに灰色が見えた。わたしの住んでいる町だ。
さらに視線を落とせば、さっき歩いた山間の道。
ここまでの道のりをすべて見ることが出来る。
ぐるりと周りを囲む山々の内側で、ひし形状に敷き詰められた灰色。
わたしが普段暮らしている場所は、上から覗くとこんな形をしていたのか。
「っと、そうだそうだ」
足をぷらぷらさせながら景色を楽しんでいたわたしは、肩から提げていたポーチに手を伸ばした。
当初の目的を危うく忘れるところだった。百枚入りの折り紙の封を切って橙色の紙を引きずり出すと、膝の上で紙飛行機を折る。
ちょっとよれてしまったけど、うん、たぶん大丈夫。
飛びさえしてくれればいい。
「さて、それでは」
おほんと咳払いをして、紙飛行機を構えて、風が吹くのを待った。
どうせなら、風に乗ってどこまで飛んでいってほしいから。
狙いはもちろん、あの青空に向けて。
◆
山間に消えるその瞬間まで、紙飛行機の飛んでいく姿を見送ったわたしは、それからポーチに入れていたカメラでのんきに写真なんか撮ったりして悦に浸っていた。
そしてそろそろ帰ろうかと思い、枝を飛び降りて、……あっ。
「ああああ……っぶない。あぶないあぶないあぶない。死ぬかと思ったぁあぁぁ」
なんとかすぐ下にあった枝にしがみついて落下をまぬがれたわたしは、冷たい汗が全身からふつふつとわき出てくるのを感じる。
ここが相当な高さの上であることを完全に忘れていた。運がよければ死にはしないだろうけど、確実にどこかしらの骨は折れるだろう。
こんなところで骨折でもしたらシャレにならないって。携帯の電波も届かないから助けも呼べないし。
御神木で木登りをしたバチがあたったのかもしれない。
家に帰るまでが空想です、とは、どうやらいかないみたいだ。わたしはため息をつく。
そして落ちてしまわないようにと慎重に慎重を重ねて、わたしはゆっくりと御神木を降りはじめた。
了