覚悟と壁の向こう側 09
現実の世界に戻っても、全身に満ちる力は消えない。それどころか、全身にかかっていた負荷が、殆ど何も感じないレベルまで、軽くなってしまっていた。交魔法を習得したと言える段階……交魔法の負荷に耐え切り、苦しさが殆ど無くなるという段階に、朝霞はとうとう達したのだ。
(――かわせる! 今まで以上の速さで!)
心の中で声を上げながら、朝霞は喉元に迫った切先を避けるべく、回避運動を取る。既に重くは無い脚に、軽く力を込めるだけで、十メートル程後ろに飛び退き、迫り来る切先をかわす。
おそらくは必死で刀を止めようとしているせいで、かなり速度は落ちているのだろうが、神流の刀よりも、朝霞の移動速度は速い。今の朝霞には神流の刀が、止まっているとまでは言わないが、スローモーションであるかの様に、動きが遅く見える。
この周りの動きが、スローモーションの様に遅く見える経験自体は、過去に朝霞は何度も経験していた。
(瞬延に入っているのか……)
瞬延とは、感覚が最高レベルで研ぎ澄まされ、思考速度が異常加速した状態であり、自分だけが通常の時間から切り離されたかの様に、周りの全ての動きが遅く感じられる状態を意味する、神流が受け継ぐ古武術の用語だ。瞬く程の短い時間が、長く延びている様に感じる状態なので、瞬延というらしい。
球技などのスポーツにおいては、ボールが止まって見える、いわゆるゾーンと呼ばれている、究極の精神集中状態が存在すると言われている。このゾーンと同種のものだろうと、朝霞は理解している。
過去の戦闘や訓練の際に、この瞬延を朝霞は何度か経験していた。最高に集中している時でなければ、経験出来ないもので、余裕が無かった為に気付いていなかったが、朝霞は壁を越える手前、体勢を崩したせいで、神流の刀の切先に喉を切られそうになった瞬間から、瞬延に入っていた。
だからこそ、刀の切先が喉元に迫る、瞬く様に短い時間に、朝霞は様々な思考を巡らし、精神の中で壁を打ち破り、その先へと進んだ上で、回避行動まで取れたのだ。だが、これまでの瞬延の場合、別に身体の動き自体が速くなる訳では無い。
あくまで回りが遅く見える状態で、人の姿や仮面者の姿で可能な、最速の行動が取れるだけだ。仮面者の姿ですらかわせない筈の切先を、飛び退いてかわせたのは、交魔法を習得したと言える段階に達し、透破猫之神の移動速度が、これまでを遥かに上回るレベルに達したからこそである。
そして、瞬延に入っていたのは、朝霞だけでは無かった。体勢を崩した朝霞に、致命的な一撃を与えかねないのを察した神流自身も、即座に瞬延に入ったのだ。
神流も朝霞同様、自在に瞬延に入れる訳では無い。あくまで最高に精神が集中した際に発生する、現象の範囲といえる。ただ、幼い頃から修行を続けている為、朝霞よりは瞬延に入り易い。
そんな神流は、今回の朝霞の危機に際し、一瞬で劇的な精神集中を達成し、瞬延に入る事が出来た。その上で、死に物狂いで刀を止めつつ、止め切れない状況で目にしたのだ、何が起こったのかを。
必死で止めようとしても、止め切れぬ己の刀の切先が、朝霞の喉に達しそうな状況を目にして、絶望しそうになっていた瞬間、神流は目にした。透破猫之神が青白い炎を放ちながら、信じ難い速さで後方に十メートル程、飛び退く光景を。
一瞬、自分が願った奇跡を、幻として見たのでは無いかと思ってしまう程に、それは現実だと信じ難い光景だった。手加減した打突、しかも全力で止めようとしていたとはいえ、人間……いや、仮面者の中でも最速の部類といえる透破猫之神ですら、かわせない筈の状態で、かわすどころか十メートル程の距離を飛び退いたのだから。
しかも、青白い炎の光を曳きながら、流星の様に後方に透破猫之神が飛び退く間の時間は、神流の感覚では、自分の打突より速かったのだ。手加減し、必死で減速中であったとはいえ、打突より速い速度で十メートルを飛び退く速度は、神流には信じ難い速さだった。
目で見ただけなら、幻かもしれない。だが、神流の腕は……その透破猫之神の動きが幻でない事を、神流に伝えた。
止め損なった切先は、既に透破猫之神の首があった所まで、振り下ろされているのだが、手応えは無く、空を切っている。その感覚が、透破猫之神が切先をかわして、飛び退いた光景が現実である、証拠であった。