塗炭通りと商店街 01
「――とりあえず、図書館で手に入る資料は、この程度か」
所々が傷み……古びているが故に、歴史を感じさせる趣の有る内装の、天井の高い天橋図書館の閲覧室で、朝霞は呟く。
目の前にある机の上には、越南関連の本が積まれ、その中から必要と思われる情報を書き出して、まとめたノートが広げられている。
オルガからの情報を得た夜の翌朝、朝霞は図書館を訪れ、越南やハノイに関する情報を調べ上げているのだ。
地理や文化、政治や経済に社会情勢、治安に至るまで、越南やハノイに関する情報をノートに整理しつつ、朝霞は徹底的に頭の中に叩き込んだのである。
無論、それらの本は図書館から借りて帰るつもりなのだが、借りた本は荒事になる可能性もある、聖盗の仕事を行う遠征に、持って行く訳には行かない。
故に、なるべく頭の中に、叩き込んでおかなければならない(コピー機的なものが存在しないせいでもある)。
途中、図書館の中にある軽食コーナーで昼食を摂りつつ、山と積まれた多数の本から掻き集めた情報をまとめ、朝霞が記憶し終えたのは、午後二時の手前。
貸し出し冊数には限度があるので、朝霞は借りる本を選んでカウンターに向かい、貸し出し手続きを終えると、用済みとなった本を、元の場所に戻す。
そして、黒いリュックの中に借りる本と、ノートや筆記用具を詰め込む。
そして、朝霞は閲覧室を後にして、出入り口に向かう。
朝霞の服装は、青いツナギをパンツの様に穿いて、袖をベルトの様に巻き、上は黒いタンクトップというラフなもの。
愛用の黒いキャスケットは屋内なので、今はかぶっていない。
「次は……持ち歩ける地図や観光ガイド系の本を、本屋で揃えないと」
呟きながら、古びた木造のドアを開けて、朝霞は図書館の外に出る。
薄暗かった図書館の中に比べ、外は陽光が直接、朝霞に降り注いで来る。
「――!」
屋内の薄暗さに目が慣れていた朝霞は、陽光の眩さに、思わず瞼を閉じそうになる。
リュックの中に仕舞っていた、黒いキャスケットを取り出してかぶり、その庇で陽光を防ぐと、午後の陽に焼かれる街並を歩き出す。
(初夏とは、良く言ったもんだ)
元の世界同様、煙水晶界の瀛州でも、古い時代からの慣わしで、五月は初夏。
梅雨の後に訪れる、本物の夏程の様に暑くは無いが、陽射しは強い。
普段より白んで見える街並の中を、朝霞は歩く。
目指しているのは、図書館の近くにある、本屋通りと呼ばれる、本屋が立ち並ぶ大通りだ。
図書館や本屋通りなど、本に関わる建物や施設が、この辺り……天橋地区の西部に多いのは、文教地区だからである。
天橋市の中心が旧市街にあった頃、その郊外に設立された天橋大学や天橋図書館が、天橋地区の開発が進んだ結果、天橋地区の西部に取り込まれ、天橋大学を中心として、西部が文教地区として整備された。
天橋大学だけでなく、様々な教育機関が設立され、そういった教育機関に関わる者達を相手に商売する為、書店も集まり、何時の間にか本屋通りと呼ばれる様になった。
本屋通りは、天橋大学と天橋図書館に挟まれる辺りにある。
天橋地区ではあるが、元々は旧市街の時代から存在する、大学や図書館を中心に形作られた地区なので、旧市街同様に古びた建物が多い。
補修が行き届いていないのか、あちこちが剥げ落ちて、色が変わっている土塀の姿なども散見される。
汚れたうぐいすの様な色合いの、土塀が多い通りを抜けると、道の両側にある壁の色が、赤茶色に変わる。
煉瓦では無く、錆びて赤味がかった塗炭の壁が多い、二車線程の幅がある、塗炭通りと呼ばれる道に、朝霞は足を踏み入れたのだ。
錆びた塗炭を外壁にしている建物もあれば、仕切りの壁だけに塗炭が使われている場合もある。
この地区で再開発が進んでいた頃、暫定的に使われる予定の建物(いわゆるバラック小屋)や壁に、塗炭が多く使われていたのだが、その再開発が中断したままになっている為、塗炭だらけの通りが残されたのだという話を、朝霞はティナヤから聞いた事があった。
塗炭の壁や建物のあちこちが、酷く破損した状態で、きっちりと補修がされていないのは、基本この通りの両側に並ぶ建物が無人であり、放置状態である為だ。
(――そういえば、バニラと初めて会ったのは、この辺りだったな)
あちらこちらが破損している、塗炭だらけの光景を眺めながら、朝霞は心の中で呟く。
そして思い浮かべる、ティナヤと初めて出会った時の事を。
それは十ヶ月前……朝霞が神流や幸手と共に、煙水晶界を訪れた日の夜だった。
天橋駅に辿り着いた朝霞達は、世界間鉄道運営機構から、当座の住み処として、天橋市の旧市街にある、和光が所有する集合住宅を紹介された。
天橋駅を出た朝霞達は、巡回バスに乗り、旧市街を目指した。
ところが、煙水晶界のバスに乗るのが初めてだった朝霞達は、間違えて天橋図書館前のバス亭が終点だったバスに、乗り込んでしまったのである。
乗り換えるバスを待つか、それとも大して遠くは無い旧市街まで徒歩で向かうか、朝霞達は相談した結果、バスの待ち時間が長かった為、徒歩で旧市街へ向かう事を決めた。
そして、バス亭から歩き始めた数分後、朝霞達は闇夜を切裂く、甲高い女性の悲鳴を耳にした。
悲鳴が聞こえて来た方向に向かって駆け出した朝霞達は、すぐに悲鳴を上げた女性が襲われている現場である、この塗炭通りに辿り着いた。
そこで初めて、朝霞は悲鳴を上げた女性……白い半袖のワンピースという爽やかな服装に身を包んだ、金髪の少女……ティナヤに出会ったのだ。
ティナヤは恐怖に顔を歪ませ、悲鳴を上げていた。
塗炭の壁を背にして、手にしている鞄を盾にしているつもりなのか、身体を守る様に突き出している。
だが、そんな皮製の鞄で防げる様な生易しい危機に、ティナヤは襲われている訳では無かった。
五メートル程の間合いを取り、ティナヤを取り囲んでいる黒尽くめの十人程の男達は、バスケットボール程の大きさがある火の玉を手にしていたのだ。
魔術の能力を得た上、世界間鉄道での移動中、車掌のベルルに魔術に関する講義を受けていた朝霞達は、男達が炎属性の何らかの攻撃魔術を、ティナヤに放とうとしていたのを、一目見て理解した。
魔術に通じていなさそうなティナヤは(攻撃魔術を、鞄を盾にして防ごうとしている辺りから判断)、その攻撃魔術を避けられずに食らい、確実に死ぬだろう事も。
僅かに……状況も分からず、勝手を知らない異世界での、自分に無関係な他者同士の揉め事に、介入するべきか迷ってしまった、神流や幸手とは違い、朝霞の行動は早かった。
即座に人並み外れたスピードでダッシュすると、魔術攻撃を放つ直前だった黒尽くめの男達に襲いかかり、倒す迄は至らなかったが、魔術による攻撃の妨害には成功したのである。
朝霞の奇襲に、一度は混乱したものの、即座に態勢を整えた黒尽くめの男達は、ティナヤだけでなく朝霞に対しても、魔術による攻撃を開始する。
男達の魔術攻撃能力は相当なレベルであり、幾ら潜在能力が引き出されている朝霞であっても、そのままの姿では、立ち向かうのは不可能。
故に、朝霞は仮面者に変身し、応戦した。
仮面者としての実戦が初めてだった朝霞は、十人の高度な戦闘能力を持つ魔術師相手に、苦戦する。
そんな朝霞を見かねて、神流と幸手も仮面者となり参戦、無人の建物や壁のあちこちを破損させつつ、激しい戦いを繰り広げた。
初陣ではあったのだが、基本スペックが高い仮面者である三人は、程無く黒尽くめの男達を倒した……殺さず、行動能力を奪う程度に。
朝霞達が黒尽くめの男達を倒した直後、けたたましいサイレンの音を夜空に響かせながら、煙水晶界におけるパトカーが、通りに駆けつけて来た。
そこで、奇妙な事態が発生した。
黒尽くめの男達が、魔術の炎で燃え上がり始めたのだ。
行動能力を失い、逃げられなくなった黒尽くめの男達が、警察に捕まるのを避ける為に、自決を選んだかの様に、炎属性の攻撃魔術で、自分達の身体を焼き尽くしたのである。
朝霞達も、その場に居続ける訳には行かなかった。
何故ならベルルから、聖盗としての能力を、聖盗としての活動と無関係な事に使用してトラブルを引起し、警察沙汰になるのは避ける様にと、指導を受けていたからだ。
聖盗としての能力を、聖盗としての活動に使う場合なら、他者や社会に被害を与えてしまっても、大抵の場合……聖盗は法的に免責される。
だが、聖盗としての活動以外で能力を使い、警察沙汰を起こせば、免責されない可能性が高い。
人助けとはいえ、明らかに聖盗としての活動とは無関係な形で能力を使った挙句、警察沙汰になるのは、朝霞達は避けたかった。
故に、朝霞達はとりあえず、その場から逃げる事にしたのである。
そして、逃げようとした朝霞の手を、酷く怯え……身を震わせていたティナヤは掴み、放そうとはしなかった。
故に、朝霞達はティナヤを連れて、塗炭通りから逃げ出したのだ。
魔術戦闘の騒ぎを聞きつけた誰かから、通報を受けた警察官達が、パトカーで塗炭通りに辿り着いた時には、既に朝霞達は逃げ去っていた。
警察官達が目にしたのは、路面の数箇所で焚き火の様に燃えている炎と、至る所が破損した、塗炭通りの惨状だけであった。
塗炭通りから離れた場所で、朝霞達はティナヤが落ち着くのを待った。
そして、落ち着きを取り戻したティナヤに頼まれたのだ、また襲われるかも知れないから、暫くの間……ボディーガードになり、一緒に住んで欲しいと。
落ち着きを取り戻したとはいえ、怯え切っている上、どうやら誰かに狙われているらしいティナヤを、放って置く訳にもいかないと、朝霞達は判断した。
結果として、その場から遠いティナヤの屋敷ではなく、近い場所にあった、ティナヤが所有する居住スペースもある倉庫に、朝霞達はティナヤと共に、住む事になったのである。
一時的に、ボディーガードとして同居するだけで、いずれは旧市街の集合住宅に移り住む筈だったのだが、ティナヤが襲われる事が無く、ボディーガードの必要性が無くなった後も、朝霞達はティナヤと同居を続けた。
同居している間に、朝霞達とティナヤは親しくなり、離れ難くなってしまったからだ。
その後、今に至るまで同居は続き、ティナヤは朝霞達の同居人というだけでなく、黒猫団の重要な協力者にもなっている。
そんなティナヤと出会う切っ掛けとなった場所を目にして、朝霞は懐かしさを覚える。