死亡遊戯 35
二階建て程の低い建物が多いハノイなのだが、繁華街の表通りの建物には、三階や四階建ての低いビルも混ざっている。シンチャオと周りのビルは四階建てなのだが、その程度の高さの建物なら、よじ登りなどしなくても、神流は重い荷物を手にしたまま、壁を足場にして三度も跳躍すれば、屋上まで行けてしまうのだ。
(シンチャオは、あそこか……)
大して離れてもいないし、既にハノイの土地勘を得ていた神流は、すぐにシンチャオを見つけ出すと、ビルの屋根を伝って移動を開始。朝霞程ではないが、猫の様に身軽にビルの屋上を走りぬけ、あっという間にシンチャオの屋上に辿り着く。
無数の給水パイプが接続された、巨大な灰色のボールの様な大型の給水タンクが、シンチャオの屋上には備え付けられている。
(灰色の大ダコみたいだな)
丸い給水タンクを頭、給水パイプを触手に見立てて、そんな印象を神流は覚えたのだ。そして、大ダコに見立てた給水タンクに、身を隠しているかの様な二人分の人影を、神流の視覚は捉えた。
人影の片方……青と黒を基調とした色合いの、背中に大きな弓を背負っている、和風の弓使いといった感じの方に、神流は声をかける。
「待たせたね」
「そうでもないよ、変身したばかりだし」
仮面を被り、弓道着とプロテクターを組み合わせた感じのコスチュームに身を包んだ、天久米八幡女姿の幸手が、言葉を返す。既に額の六芒星の角には五芒星があり、交魔法発動中であるのが分かる。
ほんの少し前に、給水タンクの陰に隠れ、幸手は天久米八幡女に変身し、続け様に交魔法を発動したばかりなのだ。
「――じゃ、行きましょ」
もう一人の人影であるティナヤの言葉に、幸手と神流は頷く。
「天岩戸、顕現……」
胸の前で手を合わせ、幸手は呟く。仲間以外の耳には届かない様に、気を遣った結果としての小声である(既に声に出さずとも、心の中で口にするだけで、天岩戸は発動可能だとは思いつつも、念の為に実際に声には出した)。
能力名を口にし終えた幸手の身体が、重力から解き放たれたかの如く、ふわりと浮き始め、神流の頭を少し超えた辺りで空中停止。そして、透き通った青い硝子板風の防御板が三十二枚出現し、直径五メートル程のサッカーボール風の防御殻……天岩戸を形成、幸手は天岩戸に立ち乗りする形となる。
完成した天岩戸の、側面にある防御板が数枚、花が咲く様に開く。神流とティナヤを迎え入れる為、ティナヤが防御板を操作して開いたのだ。
まずはティナヤが跳躍し、天岩戸の中に跳び乗ろうとする。やや跳躍力が足りなかった為、天岩戸に開いた口の縁で、バランスを失いかけたティナヤは、幸手に身体を支えられて、無事に天岩戸に乗り込む事に成功。
続いて、神流がキャリーバックを手にしたまま跳躍し、軽々と天岩戸の中に乗り込む。神流が乗り込み終えたので、役目を終えた入り口が閉じる。
直後、天岩戸はゆっくりと、その高度を上げ始める。見付かり難さを優先する為、まずは真上に向かって高度を上げ続けるのだ。
エレベーターシャフトや籠が、透明な素材で出来たエレベーターにでも乗っているかの様に、天岩戸の中にいる三人の視界で、ハノイの夜の街並が小さくなって行く。灯りが多いハノイの夜景は、程無く星空の如き光の粒子群へと変化する。
天橋市の夜景よりも、遙かに広く光点の多い、ハノイの夜景は美しい。
「大きな街だね。出来れば、ちゃんと見て回りたかったかな……」
そんな夜景を見下ろしながら、やや口惜しげな表情で、ティナヤは呟く。
「夜景は星空みたいで綺麗だけど、綺麗とは程遠い感じの街だよ。天橋市に比べると、色々と荒っぽくて雑な街だから、ティナヤには合わないかも」
唯一人、一週間以上の滞在となり、土地勘を得る程度にはハノイに詳しくなった神流が、馴染み始めた街並を見下ろしながら、少しだけ名残惜しげな目で語る。
「食い物とかは、結構美味かったけどさ。甘過ぎるコーヒーとかも、飲んでると結構癖になるし」
「朝霞っちと合流してから、また来ようね。今度は観光で……」
仮面者に変身中だが、聖盗としての仇名で呼ぶのを忘れている幸手の言葉に、神流とティナヤは頷いてみせる。そんな三人を乗せた天岩戸は、暗闇に溶けながら三百メートル程垂直上昇をしてから、イダテンを隠してある、水田ではなく荒野が広がる南側に向い、ゆっくりと水平飛行を始める。
月が雲に隠され、何処と無く不穏さを感じさせる夜空、天岩戸が向う南の空にも雲は広がり、星空を隠している。
暗雲漂う南の空の下には、朝霞がいる筈の城舗栄もある。不吉な色の空の下、天岩戸は星空の如く煌くハノイの上空を、南に向かって飛び続ける……。